16.生活習慣、改善します4
整理したとはいえ、執務室はまだ書類が多い。
そこで私たちは場所を変え、裏庭へと向かった。
春の花が咲き誇る前庭と違い、裏庭には薬草が葉を茂らせていた。
かなり広い面積を自由にしていいと言われたので、あれから追加で種や苗を仕入れ、庭師の協力もあって手広く薬草を栽培している。
「時々俺もここに来るんだが、随分育ったな」
「はい。もうすぐ収穫できそうな薬草もあるので、売ったお金で庭師に帽子をプレゼントするつもりです」
薬草を売って得たお金は、ある程度貯まったところでクローデル侯爵家の収入としてベルナード様に渡すつもりだ。でもそう言うとベルナード様は必要ないと言いそうなので、今は黙っておこう。
ただ、これから暑くなるので庭師のお爺さんに帽子ぐらいはプレゼントしたい。
切った髪が服につかないようにバサリと布を広げ、椅子に座ったベルナード様の首周りに巻く。
そこでベルナード様が不機嫌そうに口を尖らせているのに気がついた。
「どうしたのですか?」
「いや、……俺、にも何かあるのかと……」
もごもごと口籠る姿にあっと、察する。
「もちろんです! カフスかポケットチーフ、どちらがいいですか? 私の瞳の色のオリーブグリーンを贈りたいのですが、お嫌でしたら他の色でも……」
「いや、ラシュレの色がいい」
パッとこちらを見上げたベルナード様の頬が少し赤い。
ベルナード様はすぐに視線を前へ戻すと、まるで言い訳のように「一応、婚約者だし」と付け足した。
「はい、ではそうします。さて準備もできましたし、切りますよ! どれぐらいの長さがいいですか?」
「ラシュレに任せる」
「私に? いいですが、あとで怒らないでくださいよ」
「あぁ。好きにしてくれ」
そう言ってベルナード様は目を閉じた。
ジャキジャキ、と小気味良い音が春の庭に響く。
鋏を閉じるたびに息を詰め、切り終わったら息を吐く。
それを何度も繰り返し眉より少し下の長さにそろえ、最後に鋏を縦に入れ髪をすいていく。
「できました。どうでしょうか」
私の声に、いつの間にか傍で控えていたビオラが鏡を差し出してくれる。
それを受け取りベルナード様へ渡そうとすると、ゆっくりと青い瞳が開かれた。
パチリ、と目が合った瞬間、私の胸の中で何かが弾けた。
急に鼓動が速くなり顔が赤くなる。
息を吸うのも忘れるほど、私はその青い瞳を見つめた。
ベルナード様の瞳を見たのは、これが初めてではない。
健康的な生活のおかげで目の下のクマが消え、肌は艶を取り戻し白磁のように透明感がある。
もともと目鼻立ちは整っていた。それがさらに際立ち、切長の目には色香すら漂う。
「どうしたんだ、ラシュレ? もしかして、切り過ぎたのか?」
ぼぉっと見惚れていた私の手からベルナード様が鏡を受け取り、自分の姿を映す。
じっと鏡面を見つめる顔は、感情が抜け落ちたようで、失敗したのかもと冷や汗が滲んだ。
「あ、あの……。お気に召さなかったでしょうか?」
「いや、そうではない。上手に切ってくれてありがとう」
前髪に触れ、顔を左右に動かして髪型を確かめたあと、ベルナード様は「父そっくりだ」と低い口調で呟いた。
そのあと、ちょっと困った顔で「聞いてくれるか?」と言って語り出したのは、お父様に対して抱える複雑な心境だった。
お父様は、人間的に尊敬できる部分が全くないのに、領主としての手腕はとんでもなく優れていたらしい。
嫌いな父親の足元にも及ばない自分の無能さを悲観し、よく似た顔を隠すように前髪を伸ばし始めたと、ベルナード様は訥々とした口調で教えてくれた。
「……それなのに、切ってもよかったのですか?」
「今までひとりですべてを背負ってきた。父は領地経営をしつつ運送業も営んでいた。あいつにできて俺にできないはずがないと、がむしゃらにやってきたが、それが間違っていたと気がついたんだ」
「ベルナード様は充分に頑張っていたと思います」
「空回りしていただけだ。ラシュレが手伝ってくれるようになって、自分の無能さを知った」
そんなことはない、と言おうとした私を、ベルナード様は手で制する。
「だけれど、そんな自分を素直に認めようと思えるようになった。俺一人で頑張る必要はなかったんだ。誰かを頼っていい。分からなければ教えを請えばいいし、助けて欲しいときは手を伸ばせばいい。そんな簡単なことに、やっと気づけた」
私の強引な助けに救われたと、ベルナード様は照れくさそうに付け足した。
そんな風に感じてもらえていたなんて。私なんかでも誰かの役に立てるのだと胸が熱くなってくる。
「俺は父とは違う。そう思えて、やっと俺は父の呪縛から解かれた。それはすべてラシュレのおかげだから、あなたに髪を切ってほしかったんだ」
見上げてくる青い瞳は潤んでいた。
ベルナード様の抱えていた苦しみが私の背中を押す。
気がついたときには一歩踏み出し、ベルナード様を抱きしめていた。
「ラシュレ? どうしたんだ」
「泣くときは胸を貸すと約束しましたから」
「俺は、泣いていない」
「はい。でも、こうしていたいのです」
ぐずっと私が洟を啜る。
自分の顔を隠し、父の呪縛に囚われ、ひとり執務室に籠っていた彼をもっと早くに抱きしめてあげたかった。
そっと私の背中に手が回される。
まるで壊れ物を抱きしめるような優しい手つきに、また涙がこみ上げた。
「どうしてラシュレが泣くんだ」
「ベルナード様が泣かないからです」
「そうか。俺の代わりに泣いてくれているのか。ありがとう」
よしよしと背中を撫でられる。
暫くそうしていたあと、私は腕を解いてベルナード様から離れた。
節くれだった長い指が伸びてきて、私の涙を掬う。
「初めて女性に抱きしめられたが、悪くない」
「それはよかったです」
「ちなみに、フィリップ殿にもこんなことをしたのか?」
「えっ?」
予想外の質問に、涙が引っ込んだ。
「していませんよ?」
「念のために聞くが、ケビンには?」
「まさか。もしかして、ですが妬いています?」
冗談で聞けば、ベルナード様は腕を組んで少し考えたあと、「そうかも」と言った。
それからニッと笑う。
「だって、ラシュレは俺の婚約者だから」
「~! もう、ふざけないでください。ちょっとドキッとしてしまったではありませんか」
私たちはお互いの利益が一致したから婚約したのだ。
どちらかに好きな人ができたら別れるつもりだし、お互いに恋愛感情は持っていない。
愛や恋なんていうあやふやなものより、人としての信頼で繋がれたいと思っている。
それなのに、髪を切ったベルナード様は眩しくて、ふざけた言葉ひとつに私の胸が跳ねる。
笑い合う私たちを、ビオラといつの間にか来ていたセバスチャンが微笑ましく見守っていた。
※
執務室に戻ると、セバスチャンが手紙を持って訪ねてきた。
「教会から手紙が届きました。おそらく、ベルナード様とラシュレ様の婚約が認められたとの知らせかと存じます」
恭しく両手で渡される手紙を受け取る。
父親亡き後、一番俺を助けてくれたのはセバスチャンだった。
父親より少し年下のセバスチャンは、俺が手紙を読むのをじっと待っていた。
「なんだ? まだ何か用があるのか?」
「いえいえ、エリザベート様と別れることができて本当に良かったと思いまして」
「そういえば裏庭に来ていたな。暇なのか?」
「薬草の育ち具合を確認しようとしたら、偶然仲睦まじい姿をお見かけし、つい足を止めてしまいました」
嘘をつけ。
俺が髪を切られるのを二階の窓から見ていたくせに。
どうせ、野次馬根性でわざわざ降りてきたのだろう。
「そういえば、エリザベート様の近況をご存知ですか?」
「俺と婚約解消したあと商人と婚約したとだけ聞いた」
俺とエリザベート・バーデルとの婚約は、バーデル侯爵家からの申し出だった。
今は落ちぶれているが、ラッシュド王国の旧家として知られるクローデル侯爵家と縁を繋ぎたかったらしい。
それに加え、まだ前髪を伸ばしていなかった俺をエリザベートが気に入ったこともあり、婚約の話はトントン拍子に進んだ。
娘とは違い、バーデル侯爵は常識のある冷静沈着な人物で、エリザベートの突然の婚約破棄を謝罪し、婚約解消と名前を変えた上で手続きをしてくれた。
さらに、今まで出資した金の返済は不要だと言ってくれ、迷惑料として金貨もくれた。
「エリザベート様が婚約されたマルセル・ボナパルト男爵様ですが、なかなか癖のある方のようです」
「癖、とは?」
「女性関係が派手で、あちこちに愛人がいるようです。もちろん正妻はエリザベート様でしょうが、結婚を機に愛人と別れるような人ではなさそうですね」
マルセル・ボナパルトは、商売で成功し金で爵位を買ったと言われる男だ。
歳は三十歳ほどで、いかにも色男という風貌をしていた記憶がある。男から見たら胡散臭さの塊だが、あれを危険な色香がいいと評する女性も多いようだ。
まぁ、愛人が何人いようとも、エリザベートは贅沢ができれば文句は言わないだろう。
彼女が愛よりドレスと宝石を好むのを、俺はよく知っている。
「いいんじゃないか。宝石を贈っておけば愛人が何人いても許すだろう」
「しかし、世の中には釣った魚には餌をやらない男もおりますからね。愛人もころころ変わるようですし、愛し続けるより口説き落とすのを楽しむタイプかもしれません」
愛、か。
俺は愛を知らない。
両親から与えられた経験もないし、そんな感情を今まで抱いたことがない。
きっと出来損ないの俺は、愛という感情を持たずに生まれたんだろう。
それなのに、ラシュレといると胸が高鳴る。
その髪に触れたくなる。
他の男と親しくしていたと考えるだけで、落ち着かなくなるのはどうしてだろう。
「なぁ、セバスチャン。愛情とはいったい何なのだ。友情や信頼と何が違うのか知っているか?」
「……まさかベルナード様が、そんな青臭いところで成長を止めていたなんて知りませんでした。でも、婚約者がアレでしたから、仕方ありませんか」
アレのところで分かりやすく眉を顰める。
たしかにアレの名前はもう出したくない。お腹一杯だ。
だからと言って、俺を残念そうに見るのはいかがなものか。目を眇め睨み返すと、盛大なため息を吐かれてしまった。
「それでしたら、恋愛小説でもご用意いたしましょう。巷では婚約破棄や白い結婚が流行っているそうです」
「それなら聞いたことがあるが、内容的に笑えないな」
「たしかに。では何かもっと実用的な指南書でも探しておきます」
セバスチャンはそう言って、意味ありげに笑って部屋を出て行った。
ちょっと待て。実用的な指南書とはなんだ?
そう考える俺の手元に、翌日、セバスチャンお薦めの指南書が届いた。
その内容に頭を抱え、俺はそっとベッドの下に隠したのだった。
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