10.新しい生活1
翌日、目覚めるとまず飛び込んできたのは見慣れない天井だった。
ゆっくりと起き上がると、鳥のさえずりが聞こえてくる。
清潔なシーツに手を滑らし、叔父家族の呪縛から解かれたのだと実感を噛みしめた。
「やったぁ! これで自由よ!」
もう夜更けまで書類仕事をしなくていいし、学園の課題をこなす必要はない。二度寝だって……いや、初日でさすがにそれはまずいか。
ノック音がし、侍女が部屋に入ってくる。
身支度を終え、ダイニングに行こうと部屋を出ると、そこにはベルナード様がいた。
「おはようございます。どうかされたのですか?」
「ダイニングまでエスコートしようと待っていた」
えーと。エスコート?
昨日のうちにクローデル侯爵邸は案内してもらった。
国でも指折りの旧家だけあって、邸は重厚感のある趣をしている。
石を積み重ねたアーチ状の門の向こうには、レンガの小道が続く。よく手入れされた庭は、だけれど広さの割に花が少ない。
使用人が手を抜いているというより、お仕えするのが男性一人だからこだわりがないのかな、と思いつつ玄関前で馬車を降りた。
すると、荘厳な玄関扉を開けて家令が出迎えてくれた。
そこからは目まぐるしかった。
私と婚約すると家令のセバスチャンに報告し、侍女に私の部屋を用意させる。
私専属の侍女になってくれたのは、ローナの娘のビオラ。歳は私より三歳上で、赤毛にそばかすが可愛らしい女性だ。
だから、ダイニングまではビオラに案内してもらうことだってできる。
それなのに、ベルナード様自らお出迎えとは。
ちょっと恐縮しつつも、私は出された手を取りダイニングへ向かった。
そこでもベルナード様のエスコートは完璧で、椅子を引いて座らせてくれるのは当たり前。
スープの温度にも気を配り、冷めているのなら温め直すとまで言ってくれる。
パンに塗るジャムは何がいいか聞いてくれたり、大好きなゆで卵を最後に食べようと残していたら、嫌いだと勘違いしたようで目玉焼きを用意するよう料理長に命じる。
もちろん慌てて止めた。
極めつけは、何種類も用意された紅茶だ。
えっ、そんなに飲めないのだけれど、という数のティーポットを目の前に、私は頭を働かせる。
ベルナード様は一連の気遣いをごく普通にされていた。
当然のことながら、やり過ぎだ。
エスコートはまだしも、料理ひとつひとつに気を配りすぎだし、紅茶の飲み比べをする趣味は私にはない。
そうなると考えられるのは、これがベルナード様にとっての普通だということだ。
元婚約者のエリザベートさんは、自分を愛するベルナード様に随分と我儘を言っていたようだ。
そう思い至ったところで、沸々と怒りがこみ上げてくる。ベルナード様の愛情を逆手にとって、過剰なエスコートを強要するなんてあんまりだ。
「ベルナード様、今までどうだったか知りませんが、ここまでの気遣いは不要です」
「気遣い? 俺は当然のことしかしていないが」
……これは、かなり毒されている。
いや、ベルナード様にとって愛するエリザベート様に仕えるのが幸せだったという可能性もある。
ただそうだとしても、私にここまでの心配りは不要だ。
「私はそこまでのエスコートを望みません。欲しいジャムがあれば自分で取りますし、出されたものは何でも食べます。紅茶は一種類だけ用意して欲しいです」
ちょっとはっきり言い過ぎただろうかと、ベルナード様の表情を盗み見れば、鳩が豆鉄砲を食ったようにきょとんとしていた。
それからゆっくりと口が動く。
「もしかして、それが一般的なのだろうか」
私は今まで一般的なエスコートをされたことがない。だけれど、これが普通でないのは学友の話から分かる。
「おそらく。もちろん世の中には大好きな女性に尽くすのを幸せとする男性もいますから、ベルナード様の行いを否定はしません。ですが……って、どうしたのですか?」
突然、ベルナード様はテーブルに肘を突き頭を抱える。
そうして、はぁぁ、と重い重いため息を吐いた。
「あ、あの……」
「いや、もしかしてそうなのかなと、思っていたんだ。でも、エリザベートは完璧なエスコートをしないと機嫌が悪くなり、手がつけられなくなるから」
「は、はぁ……」
「日々忙しくて考えることが多すぎて、何が一般的かなんて調べる余裕がなかった」
「調べるほどではないと思うのですが」
どうやら、今までベルナード様はかなり無理をしていたらしい。
項垂れる姿勢から背筋を伸ばすと、吹っ切ったように前髪を掻きあげる。
やつれた顔が晴やかな笑顔になり、伸びをするかのように両腕を上げた。
「もしかして俺の婚約者は女神かもしれない」
「違いますよ!?」
すかさず突っ込めば、ベルナード様は大声で笑いだした。
喉の奥が見えるほどの笑い方に、壁で控えていた使用人が驚いたように目を丸くする。
「いや、すまない。そうか、やっぱり俺が求められていたことは普通ではなかったんだな」
「普通の定義が難しいですが、少なくとも私には不要です」
「あぁ、ラシュレが眩しすぎて直視できない」
わざとらしく目の前で手を翳す姿に、吹きだしてしまう。
気難しそうな印象があったけれど、こんな愉快な一面があるなんて意外だ。
そのあとは、せっかく侍女が淹れてくれたのだからと、ふたりで五種類の紅茶を飲むことにした。
利き酒ならぬ効き紅茶を楽しみ、お腹がタプタプになったところで、ベルナード様は街へ行こうと誘ってくれる。
着の身着のままでクローデル侯爵家に来た私は、皺こそ伸びたが昨日の夜会のドレスを今日も着ていた。着替えも含め買いたいものは幾つもある。
扉の前で控えていた料理長にお礼を言い部屋を出ようとすると、ベルナード様が「これぐらいは当然だろう?」と笑いながら、扉を開けてくれた。
「ありがとうございます。買い物に行けるのも嬉しいです。三日間同じドレスだから、匂わないかと、実は心配だったのです」
「? 汗臭い騎士とは違うんだから、そんなことはないだろう」
ベルナード様が腰を曲げ、私の肩先に鼻を近づける。スンと匂いを嗅ぐ音に、軽く飛び上がってしまった。
「べ、ベルナード様?」
「うん、大丈夫だ。むしろいい匂いがする」
「そうではなく! きょ、距離が近いです!」
嗅がれた場所を手で押さえ訴えれば、ベルナード様は青い瞳を瞬かせたあと、じわじわと頬を赤くさせる。
「すまない。ラシュレといると気が楽で、つい調子に乗ってしまった」
「……気が楽でいてくれるのは嬉しいですが、私も一応女性ですので」
背が高く、女らしさの欠片もない身体だけれど、一応、乙女心は持ち合わせている。
ドキドキと鳴る心臓を押さえれば、ベルナード様はちょっと気まずそうに首の後ろを掻いた。
「次から気をつける。今日は朝から学ぶことが多いな」
「エスコートについては、私の感覚も一般的ではないのであまり参考にしないでくださいね」
「そうなのか?」
「まともにエスコートされたことがないのです。元婚約者は、私が馬車に乗るのにさえ手を貸してくれませんでしたから」
別に今更気にもしていなかったけれど、私の言葉にベルナード様が眉を顰める。
長い前髪の下でも分かるぐらい、その顔は不快に歪んでした。
「昨日、一発殴っておけばよかった」
「ふふふ、私も今、同じことを思っています」
エリザベート様に、という言葉を心の中で続ける。
ベルナード様はエリザベート様を愛していたのだから、好きな女性の悪口を言われるのは嫌なはず。だから口には出さない。
それにしても、とんでもない我儘を受け入れるなんて、ベルナード様はなんて愛情深く心が広いのだろう。
婚約者に蔑ろにされてきた二人。何が普通か手探りがしばらく続きます・・・。
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