1.婚約破棄された私たち1
たくさんの物語から見つけてくださりありがとうございます。
こちら、ほわんとした世界観で書いております。
*
「うーん」
カーテンから漏れる光から顔を逸らすように寝返りを打つ。
と、手のひらに何かが当たった。
枕ではない骨ばった感覚に指先を動かせば、シーツの向こうからくぐもった声が聞こえる。
痛む頭を押さえながら目を開けた私の隣には……。
「えっ、えっ、ええっっ!!」
シーツに広がる灰色の髪。はだけた白いシャツの胸元から覗く男性の肌は、少し不健康そうな色をしていた。
ちょっと待って。
たしか昨日、婚約破棄をされて……
そっと私の隣で眠る男性の顔を覗き込むと、長い睫毛がピクリと動いた。
クマがくっきりと浮かんだ目元を見ているうちに、私の脳裏に昨晩のできごとがまざまざと蘇ってくる。
*
「どうやって時間を潰そうかしら」
誰もいない学園の庭でため息を吐きながら、初春の風に乱れた榛色の髪を手で押さえる。
月明かりを受けた木々は、私のオリーブグリーンの瞳の色とよく似ていた。
少し離れた場所にある夜会会場では、ラッシュド王国にある貴族学園の卒業パーティが開かれている。
今頃、楽しくダンス……しているのかな?
少々疑問なのは、さっき起きたあの騒動のせいだ。
いつ頃からか、卒業パーティで婚約破棄をやらかすのが流行となった。
流行、と言っていいのか分からないが、とにかく、一、二年に一組はそんなバ……羽目を外す人がいると聞く。
だから、胸騒ぎはしていた。
そんな私の予想通り、婚約者であるフィリップ・トレム子爵令息は、会場のど真ん中で高らかと声をあげたのだ。
「ラシュレ・レステンクール、今夜限りでお前との婚約を破棄する!」
ブロンドの髪を左手で掻きあげ、右手の人差し指をビシッと私に突き出す姿は、こっちが恥ずかしくなるほど自分に酔っている。
だけれど、ここまでならまだよくあることで済まされただろう。
もはや慣例となっている婚約破棄と違ったのは、フィリップ様の言葉に重なるように女性の甲高い声が響いたことだ。
「ベルナード・クローデル様、今夜限りであなたとの婚約を破棄いたしますわ!」
フィリップ様と同様に人差し指を突き出しそう宣言したのは、赤い髪を華やかに結い上げたエリザベート・バーデル侯爵令嬢だ。
彼女も私やフィリップ様と同じく、卒業生の一人である。
その指の先にいたのは、見慣れない灰色の髪の男性。背は高そうだけれど、猫背で俯き気味のその顔は、長い前髪が邪魔をして表情が分からない。
ただ、婚約破棄を宣言するのだから、彼がエリザベート様の婚約者であるベルナード・クローデル侯爵なのだろう。
クローデル侯爵家といえば、歴史ある旧家だ。最近は領地経営がうまくいっていないと聞くけれど、長い歴史の中では王女殿下が降嫁されたこともある。
彼もまた卒業生だけれど、早逝したお父様から爵位を継ぎ領地経営をしているせいか、ほとんど学園に来ていない。よって会話はもちろん、姿を見たのも今日が初めてだ。
すぐ隣で起こったもう一つの婚約破棄に気を取られていると、フィリップ様に名前を呼ばれた。
「ラシュレ、婚約破棄すると言っているのに、よそ見をする奴があるか!」
「も、申し訳ありません」
慌て姿勢を正せば、いつの間にかフィリップ様の隣に従妹のタチアナが立っていた。
「お前は従妹のタチアナを虐げ、ときには暴力を振るっていたそうだな。そんな奴とは結婚できない。お前との婚約を破棄し、俺は愛するタチアナと婚約することをここに宣言する」
鼻息荒く言い切ったフィリップ様の腕に、タチアナが身体を寄せる。
ピンクブロンドの髪がふわりと揺れ、茶色の瞳が意地悪く細められた。
小柄な体躯なのに胸だけはしっかり成長しているので、デコルテが大きく開いたドレスがさまになっている。
対して私は身長が百七十センチもあり、高いヒールの靴を履けばフィリップ様と背が変わらない。
ひょろりと細長く女性らしさにやや欠ける体形なのは、自覚している。
「私はタチアナを虐めていません」
むしろ虐げられていたのは私のほうだ。
だけれどフィリップ様は私の言葉に耳を貸すことなく、身に覚えのない罪を朗々と語りだす。
隣では、同じようにエリザベート様がベルナード様の不誠実さを語っていて、もはや聴衆と化した同級生は視線をあっちにこっちにとせわしなく動かしていた。
私としては薄々予想していたことなので、驚きもしない。
キリがいいところで「承知しました」と言って背を向けようとすると、フィリップ様は勢いを削がれたように「えっ?」と間抜けな声を出した。
「今、承知したと言ったのか?」
「はい」
「ち、ちょっと待て。そんな平気な顔をしているが、本当はショックなのだろう? だってお前は俺を愛しているんだから」
「ラシュレ、きっと悲しくて涙も出ないのね。でも私とフィリップ様は真実の愛で結ばれているの。許してちょうだい」
なぜ、私は引き止められているのだろうか。
婚約破棄を承諾し、さっさと会場から立ち去ろうとする私にふたりが慌て始めた。
「えーと。祝福の言葉が欲しいのですか?」
「そうではない」
「こんなときまで素直じゃないのね。だからフィリップ様に捨てられるのよ」
タチアナの言葉に首を傾げる。
今まで私は、なんとか婚約を継続しようと努力してきた。つまりフィリップ様の機嫌を損ねないよう偽ってきたのだ。
素直でないと言うが、今日ほど本音を話したことはないだろう。
「別にフィリップ様のことは好きじゃないし、こんな大衆の面前で「私たち不貞をしていました!」と宣言するあなたたちの考えも理解に苦しむわ」
「なっ! 俺とタチアナは不貞ではない。真実の愛だ!」
「だとしたら、まずは私との婚約を解消してからタチアナと密会を重ねるべきではありませんか? それとも、婚約者がいながら空き教室にふたりで何時間も籠るのを真実の愛と呼ぶのでしょうか」
教師たちがざわりと騒ぐ。
卒業パーティには生徒と教師、それからお城の重鎮が来賓として招かれている。
生徒が空き教室でいかがわしい行為にふけっていたとしたら、それは教師の監督不行き届きとなる。
顔を青くする教師の横で、嬉々としてペンを走らせているのはタブロイド紙の記者だ。
きっと明日には、若者二組がしでかした婚約破棄がでかでかと掲載されるだろう。
「では、おふたりとも末永くお幸せに」
私は完璧なカーテシーをしてその場を後にすると、庭へと向かったのだった。
「明日からどうしようかしら」
レステンクール伯爵家の長女として生まれたが、両親は私が十一歳のときに馬車の事故で早逝した。
そして、幼い私の代わりにレステンクール伯爵位を継いだのがハイド叔父様だ。
叔父を跡取りに指名したのは、当時まだ存命の祖父だった。
祖父は叔父を伯爵代理ではなく伯爵に指名する代わりに、私を養女とするよう命じた。
当主が亡くなったとき、後継者候補としてまず挙げられるのが、実子である私だ。
でもそうしなかったのは、叔父が騎士として名を上げ騎士爵位を賜るのがほぼ絶望的だったから。あまりにも剣の才能がなかったのだ。
それで、このままでは平民になってしまう息子を憂い、祖父は叔父に伯爵位を与えた。
祖父としては、叔父は養女となった私も大切にすると思っていたのだろう。
でも翌年祖父が亡くなると、私は別邸に追い出された。
侍女は食事を運ぶ以外何もしてくれなかったので、掃除や洗濯はすべて自分でした。
その食事だって、冷めていたり腐りかけだったりと散々で、何度お腹を壊したか分からない。
フィリップ様との婚約が決まったのは八歳のとき。
両親が存命の頃に決まった婚約は養女となったあとも継続されたが、いつ頃からかタチアナがフィリップ様に好意を持つようになった。
ブロンドの髪にライトブルーの瞳、端正な顔立ちのフィリップ様は女性に人気があったから、タチアナも彼の容姿に惹かれたのかもしれない。
フィリップ様もまんざらではないようで、学生時代にふたりは一緒に食事を摂り、デートを重ねていた。
隠すつもりもないその態度に、婚約解消されるのは時間の問題だと思っていたのだけれど。
「まさか、婚約破棄されるとは思わなかったわ」
私に非があると断罪されたうえ、フィリップ様とタチアナが婚約したとあっては、今までのように別邸で暮らすのは難しいだろう。
というか、早く逃げ出したい。
それでなくても、領地経営の大半を任せられ日々酷使されているのだ。
待っているのは飼い殺しの人生か、それとも支度金目当てで碌でもない男に嫁がされるかの二択しかない。
どうすべきかと悩んでいると、少し離れたベンチに座る人影が目に入った。
顔は分からない。でも闇に浮かぶ灰色の髪が老人のようで、丸められた背中が酷く疲れているように思えた。
「もしかして、ベルナード様?」
私と同じように婚約破棄を突きつけられていたベルナード様が、すぐそこでぐったりと項垂れていた。
肩までの灰色の髪を首の後ろで束ね、長く垂らされた前髪で表情はよく分からない。
だけれど、遠目にも疲れているのが分かる。まるで背中にどよんとした空気を背負っているようだ。
私と違って、婚約破棄がショックだったのでしょう。
たしか不誠実だと罵られていたように思うけれど、私も婚約破棄の真っ只中で詳しくは聞いていない。
そう思うと、私と彼は同士のようなものだ。妙な仲間意識がむくむくと湧き出てきた。
声をかけようかと腰を浮かすも、思いとどまる。
だって婚約破棄して清々している私と違って、ベルナード様は随分と落ち込んでいる。
「お互い大変でしたね」なんて呑気に話しかけるのは、場違いというものだ。下手すると彼の矜持を傷つけるかもしれない。
だから私はそっとその場を離れる。
タチアナと同じ馬車できたので、卒業パーティが終わるまで時間を潰さなくてはいけない。
座っていても暇だし、気分が鬱々とするだけだ。
そう考え、気分転換に歩こうと思い至った私は、人の少ない裏庭へと向かった。
裏庭は木々が生い茂り、ちょっとした林のようになっている。その中に大きな池があった。
湧き水で満たされたその池は、底が見えるぐらい水が澄んでいる。
夏場は池の縁で涼む学生もいるが、今夜はひっそりとしていた。
そっと水面を覗き込めば、平凡な容姿の私と月が映る。
顔立ち自体は悪くないと思うのだけれど、全体的に地味なのは否めない。
奥二重の目は眦が少し上がっているせいで気が強そうに見えるし、薄い唇は色香の欠片もない。
身体も全体的に薄っぺらくひょろりと高い。
そんな自分の姿を見ていると、ふいに水面が揺れた。
ぽとり。
私の頬を伝って落ちた水滴が、水面に波紋を描く。
「あれ、おかしいな。あんな男と結婚せずにすんでホッとしているのに」
学園の課題を私に押し付け、タチアナとデートをしていたフィリップ様。
私の誕生日はすっぽかしたくせに、タチアナには花束を贈りネックレスをプレゼントしていた。
彼に恋愛感情なんてない。
それでも、蔑ろにされ貶められるのはやっぱり悲しい。
はらはらと流れる涙を暫くそのままにしていた私だけれど、スンと鼻を啜るとハンカチを取り出す。
「あんな男のために流す涙がもったいないわ」
涙を拭こうとしたそのとき、強い風が背後から吹抜ける。はらり、とハンカチが風に飛ばされ池に落ちた。
朝に2話、夕方に1話投稿します