第八章・あの旗は、貝の火のように
翌朝。
エリザベス号の飛空艇デッキには、カミラと彼女に随行していた令嬢たち、そして取り揃えられた華やかな従者たちの姿が並んでいた。
「本当に、有意義な時間を過ごさせていただきましたわ」
エリザベスは、控えめにスカートを摘まみ、優雅に一礼する。
「ええ、こちらこそ。とても楽しかったですわ。いつでもまた、遊びにいらしてくださいまし」
カミラが微笑む。唇の端に作り込まれた社交の笑みを浮かべながら。
「ええ、ぜひ。また来させていただきますわ。――こんなに楽しかったのは、いつぶりかしら」
エリザベスは、どこか愉悦を隠しきれぬような微笑を浮かべて言う。
その笑みを見た瞬間、カミラは一瞬だけ寒気を感じた。
――まるで、獲物を捕らえた猛禽の目のよう。
けれど、理由もわからぬまま、その違和感を飲み込む。
そのとき――
「ひ、姫様!たい、たいへんですッ!」
ひとりの従者が、息を切らしながら駆け寄ってくる。
「アリシアが……!」
そこまで言った瞬間、従者は飛空艇の前に立つエリザベスの姿に気づき、ハッと息を呑んだ。
「……っ、も、申し訳ございません!」
とっさに口を押さえ、カミラのもとに駆け寄る。
カミラはわずかに顔色を変えると、咄嗟にエリザベスに向き直り、取り繕うように微笑む。
「少しだけ、失礼しますわね」
彼女は従者と何事かを小声で交わす。数秒後――
その顔に刻まれたのは、あからさまな焦りだった。
カミラが気まずそうな笑みを浮かべながら近寄ると、エリザベスは変わらぬ優雅な微笑みで彼女を迎えた。
「申し訳ありません、エリザベス様。先ほど申し上げた通り、私の従者のひとりが行方知れずでして……。ほんの少しだけ、飛空艇の内部を確認させていただけないかと」
その瞬間、エリザベスのまなざしが、わずかに鋭くなった。
優美な微笑みを崩さぬまま、彼女は一歩、カミラに近づく。
「ごめんなさい、カミラ様。それは……少々、難しいご要望ですわ」
「え……?」
「この《エリザベス号》は、我が国バルトローズの軍事機密を多数搭載した外交専用艦でございますの。内部構造、動力、搭載装備――すべてが国際軍事機密保持条約に基づいて保護されております」
柔らかく語られたその言葉は、冷たい刃のように鋭く、静かにカミラを切り裂いた。
「仮に、他国の方が許可なく内部に立ち入った場合――これは条約違反と見做され、重大な外交問題となる可能性が高くなりますのよ。最悪、“バルトローズ”と“カラドリア王国”との間に、“事変”が発生することもあり得ますわ」
一瞬、周囲の空気が凍りついた。令嬢たちが小さく息を呑み、従者たちの動きが止まる。
「……と、いうのは、少しお堅い話でしたわね」
エリザベスはくすりと微笑み、わざと軽やかな口調で付け足す。
「でも、本当に大切な条約でしてよ? だから、お心遣いだけ、ありがたく頂戴いたしますわ」
カミラはしばらく黙ったまま、顔を引きつらせていた。
その笑顔の奥には、もはや隠しきれない苛立ちと――屈辱が滲んでいる。
「……わかりましたわ。ご迷惑をおかけしてしまって、申し訳ございません」
彼女は絞り出すように微笑むと、一歩下がった。
エリザベスはふわりとスカートをひるがえし、背を向ける。
「それでは、皆様。本当に、楽しい日々をありがとうございました。――また、お目にかかれますことを、心より楽しみにしておりますわ」
飛空艇のタラップがゆっくりと引き上げられ、エリザベス号は静かに空へと浮かび上がった。
地上に残されたカミラは、握りしめた扇子の骨がわずかに軋む音を聞きながら、無理やり笑顔を保ち続けていた。
艦内、静かな客室にて。
大きな窓から差し込む午後の光が、淡く波打つカーテンとアリシアの髪を照らしていた。
リリーの手によって丁寧に整えられた髪は、黄味を帯びた銀の糸のように輝いている。まるで早春の白い花――。
「まぁ、なんて美しい……黄味がかった綺麗な白髪ですわね。まるで、咲き誇る白百合のようですわ」
そう呟いたのは、ソファの端に腰を下ろしたエリザベスだった。
アリシアは一瞬、驚いたように瞳を瞬かせ、そして控えめに微笑む。
「ありがとうございます、殿下」
「いやですわ、そんな堅苦しい呼び方。どうか“エリザベス”とお呼びくださいな、アリシア様」
柔らかく、しかしどこか芯のある口調でそう言うと、エリザベスは対面のソファにふわりと腰掛ける。紅茶の香りが微かに揺れた。
「これからあなたを――あの二人が待つ、フロラシアとヴァレントの国境付近に降ろしますわ。私たちが手を差し伸べられるのはそこまでです。ですが――そこから先は、あなたの“第三の人生”ですのよ」
アリシアは一瞬、何かを噛み締めるように目を伏せ、それから真っ直ぐに顔を上げた。
「……わかりました。本当に、色々とありがとうございます、エリザベス様」
「ふふ、礼には及びませんわ。あなたには、あなたの道がある。それだけのことですわ」
エリザベスがふと目を細めて微笑む。
その笑みにどこか、祝福と試練の両方を預けるような気配があった。
「リリー、私の儀式用の装備がありましたわね。例の“蒼銀の礼装”。あれをアリシア様に調整していただけるかしら」
リリーはすぐに小さく会釈し、まるで予定されていたかのように流れるような動作で立ち上がる。
「了解しました、姫様。――こちらへどうぞ、アリシア様」
促され、アリシアが静かに立ち上がる。
背筋を正すその様子には、わずかに“かつての誇り”が戻り始めていた。
「……はい。お供させていただきます、リリーさん」
リリーに連れられて、アリシアは部屋を後にした。
扉が閉まる直前、エリザベスはひとり呟く。
「白い花が、再び咲くとき――その地に、新しい旗が立つことでしょうね」
その言葉を背に、静かに扉が閉じられた。
そこにいたのは、もはやかつての見窄らしいメイドではなかった。
白亜のドレスは月光を纏い、蒼銀の鎧は静かな威厳を湛えていた。
立ち姿には一切の迷いがなく、まるで絵本の中から抜け出したような、戦の女神。
「まぁ……まるで、物語の戦女神ね」
エリザベスが小さく感嘆の声を漏らす。
「そんな……私なんて……でも、彼らを勝利に導けるのなら、象徴にでもなりましょう」
アリシアは視線を落としながらも、確かな声音でそう告げた。
エリザベスは微笑みながら、ゆっくりと首を横に振る。
「いいえ、“彼ら”ではありませんわ。――貴女たちの勝利ですのよ、アリシア様」
その言葉に、アリシアの瞳が微かに揺れる。
エリザベスは静かに立ち上がると、執務室の奥へと歩を進めた。
棚を開け、そこから一つの包みを取り出す。
古びた絹布で丁寧に包まれたそれは、まるで聖遺物のように厳かだった。
「アザレア様。――これは、本来あなたにお返しするべきものですわ」
包みを解く。現れたのは、燃え立つような赤に、金の刺繍が煌く、美しき旗――
その紋章を見た瞬間、アリシアの瞳が大きく見開かれる。
それは、かつてフロラシア王国の王城に高く掲げられていた、王家の国旗。
――民衆の蜂起の中で、多くの象徴が燃やされた。だがこの一枚だけは、名もなき一人の老婦人が身命を賭して守り抜いたと語り継がれている、唯一残された“希望”。
エリザベスは、その旗をそっと触れた。
「この旗は、今も民の心に、“希望”として生きています。
それを持って、あなたが進むなら――きっと」
そこで、彼女の言葉がふいに止まる。
なぜなら、彼女の目が、アリシアの瞳に宿った“光”を見たからだ。
それは、過去の罪も悲しみも、全てを背負ってなお前を向こうとする者の目。
――王家の名を継ぐ者ではなく、民と共に戦う“象徴”としての覚悟の灯火だった。
アリシアは、一歩前に出て、両手でその旗を受け取った。
まるでそれが、世界のすべてを抱くように、大切に。
「……この“民の想い”は、失いません。
たとえ私の過去が、すべてを焼き尽くそうとも――この旗と共に進みます。
もう、二度と希望を手放さないために」
その声は、柔らかでありながらも、鋼のように芯の通ったものだった。
エリザベスは静かに頷く。そして、小さく、囁く。
「その旗が風を得る時――歴史はまた、動き始めるのですわ」
そして今、女神は大地へと降り立つ――
新たな革命の、象徴として。
降下準備の合間、艦内の応接室には穏やかな香りが満ちていた。
真紅のティーカップに注がれた芳醇な紅茶。
シルバーの茶器が柔らかな光を返し、ゆったりとした旋律のような時間が流れている。
エリザベスは紅茶を一口含み、目を細めた。
「……やはり、この静けさはいいものですわね。戦の前には、かえってこういう静けさが沁みますの」
対面に座るアリシアもまた、小さく頷く。
けれど、その肩にはまだどこか迷いが残っていた。
その時、リリーがそっと近づいてきた。
手にはティーカップを乗せた銀のトレイ。だが、それを差し出すことなく、彼女は静かに口を開く。
「――お二方。僭越ながら、一つお話をさせていただいてもよろしいでしょうか」
「まぁ、何か面白いお話があるのね。いいでしょう。どうぞ」
エリザベスが微笑みながら促すと、リリーは静かに身を翻し、まるで舞台の女優のように部屋の中央へと歩み出る。
そして、片手を胸に、まるで古典劇のような声で語り始めた。
「昔むかし、遥か東の地に、ひとりの兎がおりました――」
その声は澄みわたり、まるで室内の空気が変わったかのようだった。
語られるのは、『貝の火』――一つの小さな玉を託された、優しくも愚直な兎の物語。
「兎は、正義と慈悲の心を持ち、貝の火という玉を授かります。
それは美しさと力の象徴、他者を救うための祝福でもありました」
リリーの言葉は、まるで銀の糸が編まれるように繊細で、かつ力強い。
「けれど、兎はその貝の火を奢りに変え、他者を見下すようになります。
忠言を聞かず、己が“正しい”と信じた行いが、ついにはすべてを裏切る形に――」
ふと、リリーの視線がアリシアに向く。
「そして最後に残されたのは、信じていた玉――貝の火が、実は“心の映し鏡”だったと知ること。
それが失われたのではなく、自ら手放してしまったことに、ようやく気づくのです」
沈黙。ティーカップの中で小さな渦が静かに消えた。
リリーは深々と一礼し、静かに告げる。
「この物語は、異世界の古い説話ではありますが……
わたくしはずっと、これは“誇りの正しき持ち方”を教えるフロラシアの悲劇にも似ていると、思っておりました」
アリシアは、そっと唇を噛んだ。
まるで、その貝の火が、今自分の掌の中にあるかのような錯覚。
すると、エリザベスがゆるやかにカップを置いた。
「ねえ、アリシア様。“その玉”を、今度はどう使うつもりですの?」
その問いに、アリシアは目を閉じる。
――迷いは、もうない。
「……民に返します。今度こそ、力ではなく、希望として」
リリーは静かに微笑み、アリシアの後ろに控えた。
紅茶の香りが、ほんの少し、強くなったような気がした。
艦内に、通信音が響く。
「――艦長より報告。国境付近に到達。これより、降下作業に入ります」
その報告を受け、エリザベスはカップを静かにソーサーに戻した。
振り返ると、凛とした立ち姿のアリシアが、窓の外に広がる雲を見つめていた。
「……心の準備は、よろしいですか? 私たちができるのはここまで。
ここから先は、貴女の意志がすべてですわ」
エリザベスの声音は、優雅でいて、どこか厳しくもあった。
だが、アリシアは振り返り、まっすぐに言葉を返す。
「いえ……“私たち”次第ですわ、エリザベス様。私一人の物語ではありません」
その言葉に、エリザベスの唇が、ふっと微笑んだ。
「――そうですわね。ふふっ……」
互いに、確かなものを胸に抱きながら微笑み合う。
それは女たちの間に交わされた、静かなる決意の契約だった。
そして、艦がゆっくりと高度を下げる。
やがて開かれた艦門から、アリシアは静かに歩を進めた。
雲間を抜けたその先、地上にはすでに多くの者たちが集まっていた。
旗を掲げる群衆。
かつての貴族。
そして、あの二人――革命家の子息と、忠誠を尽くした貴族の若者が、民の先頭に立っていた。
地が揺れるほどの歓声が、空に向かって沸き上がる。
その中心に向かい、アリシアは一歩、また一歩と進む。
背後から、リリーがそっと近づき、銀の槍を差し出す。
それには、あの“希望の旗”が、誇り高く巻きつけられていた。
「アリシア様……お持ちください。これは、貴女が掲げるべき未来です」
アリシアは両手でそれを受け取ると、深く一礼した。
「それでは――失礼いたします。またお会いしましょう」
「ええ、もちろん。お茶会でね」
エリザベスは微笑みながら手を振る。
「お誘い、待ってますわ」
その瞬間、風が吹いた。
銀の槍の先で、紅と金の旗が大きくはためいた。
アリシアはその旗を高く掲げ、群衆の中へと歩き出す。
そして――
エリザベス号はゆるやかに上昇し、青空へと消えていった。
空に残されたのは、光を反射する銀の槍と、赤き旗の燃えるような輝き。
革命の女神は、今、地上に降り立ったのだった。
それより数刻の後――
エリザベス号・上層ティールーム。
高窓の向こう、雲海の果てに消えていく国境を、エリザベスは一人静かに眺めていた。
銀のティースプーンが、カップの中でやわらかく音を立てる。
彼女の手元に揺れる紅茶は、まるで琥珀色の毒のようだった。
「……よろしかったので? 姫様」
不意に声をかけたのは、控えていたリリーだった。
いつもの柔和な声音に、しかし微かに硬さが滲む。
「ん? 何がかしら?」
カップから目を離さぬまま、エリザベスは応じる。
「――あれは、内政干渉と見なされるのではありませんか?」
一拍の静寂。
その問いに、エリザベスはふっと唇を歪めた。
「……あら、何を仰っているのかしら。私はただ、お茶のお誘いを受けて、少し昔の友人たちと語らっただけですのよ。
大変、有意義な旅行でしたこと」
静かに笑みを浮かべる――けれどその微笑は、まるで薔薇の棘のように美しく、そして冷たい。
不意に、リリーの背筋にひやりとしたものが走った。
(この方の“有意義”ほど、恐ろしい言葉はない)
「……はい。仰る通りでございます、姫様。実に有意義なお茶会でした」
国境の向こうでは、今まさに炎が上がっていることだろう。
蜂起と混乱、血と叫び。勝者が誰であれ、確実に国は疲弊する。
現王国が滅びるか――それとも、バルトローズと拮抗する力を持つ王国が、再生するか。
いずれにせよ、“今”ではない。あの国は“茨”に囲まれた王国になったことは確かだ。
「ミミローズ家の繁栄と、清浄なるバルトローズの未来に――乾杯」
そう言って、エリザベスはゆったりと紅茶を口に含む。
カップのふちに紅がわずかに残るのを見て、リリーはそっと目を伏せた。
ティールームに響くのは、風と蒸気の音、そして――沈黙だけだった。