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第七章・兎は捨てられても、月に昇る

 翌朝のティールームには、花の香りと紅茶の蒸気が柔らかく漂っていた。


 磨き上げられた磁器、金細工のポット、甘くとろける焼き菓子。

 完璧に整えられた空間に、少しだけ不自然な空気が混じる。


 それは――あまりに笑顔が過剰なお嬢様たち。


「まぁエリザベス様、そのドレスは…まるで月光をまとった妖精のよう…!」

「やはり外交で鍛えられた気品…私たちでは到底…!」


 学生時代に見た記憶がある顔ぶれ。

 かつての“貴族主義”が色濃く残る家系のお嬢様たちだった。

 あの頃はもっと高圧的だった気がするけれど、今はまるで媚びるような調子。


(カミラの差し金かしら? “エリザベスを取り込め”という命令でもあったのかしらね)


 エリザベスはにっこりと扇子を開き、まるで風のようにかわす。


「まぁ、お褒めに預かり光栄ですわ。ですが妖精だなんて、それならあなた方はさながら春の花園ですもの」


「外交の気品? ふふっ、それよりこの紅茶の香りの方がよほど凛としていますわ」


 嫌味でも謙遜でもなく、ただ軽やかに、さりげなく。


 まるで手品のようにかわす姿に、

 お嬢様たちは逆に魅せられてしまう。


「エリザベス様って…やっぱり、本物だわ…」

「あの物腰、どうしてそんなに自然にできるのかしら…」

「私もあんなふうに、なりたい…」


 言葉にされぬ羨望が、まるで潮のようにティールームに満ちていく。


 少し離れた場所――

 薄いカーテンの奥からその様子を眺めていたのは、カミラだった。


 指先がティーカップの縁をカチリと鳴らす。


「……あの女、なにをしても“高みにいる”つもりかしら」

「私のお茶会で、私の人脈を、私より魅了して…」


 その嫉妬は、静かに怒りへと変わる。


 カップを静かにソーサーへ置き、カミラは立ち上がった。


「アリシア。来なさい」


 その声に、扉の影から小さな影がすっと現れる。


「はい、カミラ様」


「どうしてあなた、あそこで紅茶の角度がずれていたのかしら?

 “王族として育ったくせに”――ああ、もう忘れていたかしらね。今はただの、メイドだったわね?」


 その一言に、アリシアの肩がぴくりと震える。


「申し訳…ありませんでした」


「ううん、いいの。あなたにできることなんて、謝ることくらいしかないものね」


 カミラは口元に笑みを浮かべながら、容赦なく心を抉るように言葉を落とす。


 アリシアは黙って頭を下げた。

 それが屈辱か、耐える意志か――それを知る者はいない。


 その数時間後、ティールームでは最後の紅茶が注がれた。


 一見、和やかな貴族の社交の一幕。

 けれどその裏では、静かな火花があちこちで燻り始めていた。


 エリザベスは、空のカップをゆっくり置き、笑った。


(ふふ。風向きが変わってきたわね)



 ティータイムも終盤に差し掛かった頃。

 カミラが、わざとらしい笑みを浮かべながらエリザベスに近づいてきた。


「まぁエリザベス様。今日は、いつもお側にいるあの美しい侍従さんをお見かけしませんけれど?」


 エリザベスはゆっくりと扇子をたたみ、上品な笑みを浮かべながら応える。


「ええ、私ったら、やらなければならないお仕事のことを…つい、うっかり忘れてしまっていて。今は、代わりにリリーにお願いしておりますの」


「あら、それは大変。不便ではありませんか?」


 そう言って、カミラは軽く手を振る。

 すると、ティールームの隅からズラリと姿を現す一団。


 ――若き男たち。しかも、どの顔も整いすぎている。


(まぁ、なんて趣味の悪いこと…。まるで、老婆貴族の慰みものみたいですわ)


 エリザベスは笑みを崩さず、しかしほんの一瞬、目元に影を落とした。


「ご親切に。でも、ご心配には及びませんわ。それにしても――いいご趣味をお持ちですのね、カミラ様」


 真に受けたカミラは、まるで自慢話の続きを求められたかのように声を弾ませる。


「でしょう? バルトローズでは到底真似できないでしょうけれど。

 これもすべて、我がアザレアの“豊かさ”ゆえですの。美しいものを傍に置いて生きる――それが王家の嗜み、というものでしょう?」


(……ふふっ、真に受けるなんて。やっぱりおバカな御令嬢ですわね)


 エリザベスは一口、紅茶を口に運びながら、心の中で冷ややかに笑う。


「それはそれは。嗜み、ですわね。けれど――“美しいだけ”では、王家は長く続きませんもの。……どうかご自愛なさって」


「え?」


 カミラが小さく首を傾げるころには、

 エリザベスはもう、扇子で口元を隠し、何事もなかったかのように笑っていた。


 ティーカップの音が、コツン、と響く。


 まるで、社交の場に潜む戦いの火花のように。




 その夜。

 飛空艇《エリザベス号》の執務室。

 仄かなランプの灯りの下に、三つの影が静かに集う。


 正面にはエリザベス。そして、その隣に控えるリリー。

 エリザベスの前にひざまずくのは、アザレア――かつての姫君。


「お呼びでしょうか、エリザベス・アウローラ・ミミローズ殿下」


 その声音は落ち着いていたが、どこか凍りついたような冷えがあった。


 エリザベスは、微笑を浮かべながらも、その目には一切の戯れがない。


「まぁ、そんなに畏まらなくてもよろしいのよ、アザレア様。……七年ぶり、だったかしら?」


「いえ……私は今や、下賤の身。こうして殿下とお話しするだけでも……恐れ多く――」


「やめなさい」


 エリザベスの声が、静かに、しかし鋭く割り込んだ。

 その瞬間、アザレアの肩がぴくりと揺れる。


「自分の家を貶めるのはやめなさい。アザレア様。あなたの家系は、長く国を支えてきた由緒ある家柄。

 それに何より――あなたのご家族に、あまりにも失礼ですわ」


「……っ」


 アザレアは唇を噛み、目を伏せた。


「かつてのあなたは……確かに、癇に障るところの多いお嬢様でしたわ」


「……!」


「けれど、私はあなたが嫌いではなかった。

 あの傲慢さも、世の理を信じきった無邪気さの裏返し。

 世界を知らず、貴族の世界が全てだと信じて疑わなかった……可哀想なお姫様」


「そう……だったのかもしれません」


 アザレアの声が、少しだけ震えていた。


「皮肉なものですわね。そんなあなたが、今や――その“古い貴族”たちの言いなりになっている」


「……屈辱でした。でも、あの夜……家族が、ひとり、またひとりと……目の前で……」


 アザレアの肩がかすかに震える。


 リリーがそっとカップを差し出すが、エリザベスは目でそれを制した。

 言葉を、奪ってはいけない時もある――と。


「……でも、私は、生き延びました。

 “昔の私”なら、絶対に許さなかったはずのこの現実を、ただ……受け入れました」


「違いますわ、アザレア様」


 エリザベスは椅子から立ち上がり、ゆっくりとアザレアの前まで歩く。


「あなたは“耐えた”のです。

 膝をついたままでも、目を逸らさずに――それが、どれほど強いことか、わたくしにはわかります」


 エリザベスはひざまづき、アザレアの手をとる。


「だからこそ、アザレア様。

 ――わたくしと共に、“もう一度、この国を取り戻しませんこと?”」


 アザレアの瞳が、はじめて真っ直ぐにエリザベスを見た。


 その光は、失ったはずのもの――誇りか、それとも希望か。


 執務室の空気は、確かに変わった。


「しかし、私には何の力もありません。権力も、民も、頼れる家臣だって全て私たちを裏切りました。今更何を…」


 アザレアの震える声は、失意に塗れていた。膝をつき、顔を伏せた彼女の姿は、かつての高潔な姫君の面影をどこにも見出せなかった。


 スッと、しなやかな手が差し伸べられる。アザレアが顔を上げると、そこに立っていたのは、気品と毅然とした眼差しを宿すエリザベスだった。


「殿下、な、何を…」


 アザレアの手を優しく引き、その華奢な身体を立たせる。


「あなたはまた、立ち上がれる。あなたにフロラシアの再興をする意思があるならば」


 その言葉は、アザレアの凍てついた心に微かな火を灯した。エリザベスは静かにリリーに目配せをする。リリーは一礼すると、部屋の奥から二人の男性を連れてきた。


 一人は、あの革命の時、まさに王家を打倒した革命家の息子だと言う。もう一人は、アザレア家に代々仕える貴族の息子。対照的な二人の存在に、アザレアは戸惑いを隠せない。


 革命家の息子が、重い口を開いた。


「革命の指揮をとっていた父は革命が終わったと共に処刑され、民は弾圧され、重税に苦しんでいます…」


 続いて貴族の息子が、苦渋の表情で言葉を継ぐ。


「私の父は王家打倒に反対しました。しかし、意見を述べただけで、我が父は処刑されてしまったのです」


 その言葉に、アザレアの表情が凍り付く。自身の過ちを指摘されたかのように、彼女は俯いた。


「いいえ…私たちも高圧的だったわ。でも…」


 アザレアが言い淀むと、隣に控えていたリリーが静かに口を開いた。


「はい。アザレア様方は、確かに民に対して高圧的な態度ではございました。しかし、国の財政的には適切であったことは間違いございません。」


 リリーの言葉は、冷徹な事実を突きつけるものだった。アザレアは唇を噛み締める。自分たちの正義が、民には届かなかった現実。そして、その隙を突かれたかのように、民衆が別の希望にすがった事実。


「アザレア様が立ち上がっていただけるなら、我々の象徴になっていただけるなら、民はあなたの力となりましょう」

「旧派閥の我々貴族も、何なら爵位も立場も捨て、フロラシア王国の再興を手伝いましょう」

 そう二人の男性が言うと、アザレアにひざまづいた。


「私は……」

 その言葉が、空気の中に溶けていく。


 アザレアは視線を落としたまま、拳をぎゅっと握りしめた。

 かつて、彼女のその手には王家の象徴である杖があり、声は国の意志を表していた。

 だが今、その手には何もない。名も、家も、誇りすら――。


「……私はもう、何も持っていません」

 アザレアの声は、震えていた。


「民を失望させ、家臣たちを守れず、家族さえ……。私には、あなた方が信じるに足る価値なんて――」


「違います」


 その言葉を遮ったのは、エリザベスだった。

 その声は、夜の静寂を打ち破る鐘のように、真っ直ぐだった。


「アザレア様。あなたが“何も持っていない”というのなら、これから持てばよいのですわ。

 民の信頼を、家臣の忠義を――そして、“もう一度国を愛する心”を」


 エリザベスは、優しく微笑んだ。

 けれどその目には、戦場に立つ者の覚悟が宿っていた。


「わたくしは、あなたの“意志”を信じます。かつてどんな過ちがあろうと、王女であったあなたが、“もう一度民のために歩もう”と決めるなら――」


「――その時こそ、あなたは真の王となるでしょう」


 アザレアの肩が、ふるりと震えた。

 ゆっくりと、彼女は視線を上げる。


 目の前には、自分に手を差し伸べる者たちがいる。

 革命と伝統、民と貴族――本来は決して交わらぬはずの存在が、今、彼女の前で膝をついている。


 まるで、過去と未来が彼女の足元に集い、新たな一歩を促しているかのように。


「……それでも、私が許されるのなら」

「……私は、もう一度この国の未来のために、立ち上がりたい」


 そう口にした瞬間――

 リリーが静かに一礼し、エリザベスは満足そうに目を細めた。


「ようこそ、アザレア様。これが――わたくしたちの、新たなる“革命”ですわ」


 ランプの灯が、三人の影をゆっくりと浮かび上がらせた。

 その影は、もう過去に怯える者のものではない。

 これから“国を動かす者たち”の、確かな輪郭だった。




 執務室の扉が静かに閉じられると、室内にほんのりとした沈黙が訪れた。

 アザレアは深く椅子に腰を下ろし、ため息をひとつ。

 先ほどの決意の言葉の余韻が、まだ胸の奥で揺れていた。


「お疲れになったでしょう」

 エリザベスが優しく言いながら、ティーポットを傾ける。

 カップに注がれる琥珀色の紅茶からは、仄かなジャスミンの香りが漂った。


「……思っていたよりも、ずっと…心が揺れました」

 アザレアはその香りを吸い込むようにして、静かに紅茶を口にする。


「あなたは真面目なお方ですもの、心が動いて当然ですわ」

 エリザベスの言葉に、ふっとアザレアの口元が緩んだ。


 そのとき、リリーが少し歩み出て、淡く微笑む。


「アザレア様。月の兎の話がございます。」


「つきの……兎?」


 リリーは小さく頷くと、まるで劇の前口上のように語り始めた。


「昔々、とある小国に、白き兎がいたのです。

 その兎はとてもお人好しで、森の者たちと助け合いながら静かに暮らしていました。


 ある日、旅の王子が飢えて倒れ、兎たちはそれぞれ食べ物を持ち寄ります。

 しかし、兎だけは、何も持っていませんでした。


 そこで兎は、自ら焚き火に身を投げ、王子にこう告げたのです。

 ――『私の身を捧げます。あなたが生きるために』


 けれど、王子はそれを拒み、兎の行為を天へと伝えました。

 すると兎は月に引き上げられ、永遠に夜空で輝く存在となったのです」


 アザレアは息を呑む。

 それは、まるで自分の過去と今をなぞるような物語だった。


「その白兎は、民のために身を投げ出そうとした“象徴”であり、

 いまも夜の空で人々を見守る存在として語り継がれております」

 リリーの声は、まるで月光のように静かで、優しく、そして真っ直ぐだった。


「アザレア様。あなたもまた、月の兎になれるのではないでしょうか」


「……わたしが、象徴に……?」


 アザレアの目が揺れる。過去の誇り、後悔、民への想い――

 全てがないまぜになって、彼女の胸を打つ。


 その時、エリザベスがすっと手を伸ばした。


「“力”を振るうのではなく、“在る”ことで人々を導く。

 今の時代に必要なのは、民が心を寄せる『灯火』ですわ。

 その灯火を、あなたに担っていただきたいのです」


 静かな説得。けれど、そこには揺るぎない信頼があった。

 エリザベスの声は、アザレアの胸に、ひとしずくの温もりとなって沁み込んでいく。


「……わたしに、まだ何かできるのでしょうか」

「できますわ。あなたが歩む意思を持ちさえすれば――すべては動き出します」


 アザレアは、目を閉じた。

 そして、ゆっくりと、深く息を吐いた。


 その瞼の裏に浮かぶのは、荒れ果てた祖国の風景――

 かつて自分が守ろうとした民の笑顔。


「……もし、この身が誰かの希望になれるのなら。

 私はもう一度、“フロラシア王家の姫”として、生きてみせます」


 エリザベスとリリーの目が、静かに見交わされた。


 リリーは小さくうなずき、紅茶を一口すする。

 その香りは、どこか祝福のようだった。


 そして、アザレアの背後にある窓の向こう。

 夜空には、薄雲の間から顔をのぞかせた月が、柔らかな光を放っていた。


 まるで、これから照らす未来の道筋を示すかのように――。

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