第六章・アザレアに咲くフロラシアの白き花
飛空艇《エリザベス号》は、太陽を背に、東の空を滑るように進んでいた。
その目的地は――アザレア王国。
かつてフロラシア王国と呼ばれた土地。今や名前も政もすっかり変わり果てている。
六年前。民衆の声を利用した下級貴族たちによって、旧王家は音を立てて崩れた。
王族は次々に処刑され、血統は絶えた……と、表向きは語られている。
「アザレア王国、ね。懐かしい顔もあったけれど――鼻につく姫だったわ」
艶やかな紅の髪を靡かせながら、飛空艇の甲板から王都の街並みを見下ろす。
その口元には、棘のように冷たい笑みが浮かんでいた。
「親の威光に縋って、周囲を見下す。そういう輩、私は嫌いよ」
リリーは漆黒の制服に身を包み、まるで影のように主の傍らに控える。
「ええ、私も覚えています。姫様のおそばにいても、カミラ姫の態度には辟易しました。表向きは丁寧でも、内心では他人を侮っているのが見え見えで」
「そうね。まるで、悪い貴族体質の標本。愚かで、つまらない子だったわ」
ふたりの言葉は冷ややかだった。
だが、その裏に微かな違和感が漂う――あの“つまらない姫”の名が、今の時代にまだ残っていること自体が、何かの予兆かのように。
エリザベス号の甲板に、冷たい風が吹き抜ける。
東の地平には、仄かに人工の光が滲む。アザレア王国の都――虚構の街、ソラリスである。
「……しかし、姫様がわざわざカミラ様のお茶会に出席されるとは。もしかして――」
リリーが何気なく口にした言葉は、どこか探るようだった。
その声音には、ほんの微かに、“本心に触れたかもしれない”という色が滲んでいた。
エリザベスはくす、と笑う。
「あら、嫌ね、リリー。私だって、謀ばかりの女ではなくてよ?」
紅い髪が風に舞う。彼女はひとつ、肩をすくめて言葉を続ける。
「中身は十八歳の、乙女なのですもの。美味しい紅茶と、おしゃべりの一つや二つ……ね?」
リリーは表情を変えずに小さく頭を下げた。
「……そうでした。失礼いたしました、姫様。ここは冷えます。そろそろ船内へ戻りましょう」
「ええ、そうね」
エリザベスは視線を下ろす。そこには宝石のように煌めく街の灯り――だが、その光に本物の温もりはない。
「虚飾の街は、見ていて目に痛いもの」
呟くように言うと、彼女はくるりと踵を返し、静かに船内へと姿を消した。
その背には、紅い髪とともに、“棘の姫君”の冷たい優雅さが滲んでいた。
ソラリスの街の中心に、金と白で塗り固められたような王宮が聳え立っていた。
まるで虚飾そのものが具現化したような建築。煌びやかさはあれど、威厳も品位もどこか置き去りにされたような空間だった。
(――変わったわね、ここも)
幼い頃に見た、かつての王宮は違っていた。
石造りの柱は重厚で、静謐な空気が流れ、ただそこに立っているだけで心が引き締まるようだった。
今はどうだろう。まるで見世物小屋のような色彩、意味のない装飾に囲まれて。
エリザベスは、口元を扇子でそっと隠す。笑みを装う仮面の下、眼差しだけが冷ややかに煌めいた。
整列した従者たちが、儀礼的に頭を下げる。その間を通って、彼女は一歩、また一歩と進む。
「エリザベス様、ご機嫌麗しゅう。ようこそ、おいでくださいました」
柔らかな声が、光に満ちた空間を滑る。
声の主は、アザレア王国の姫――カミラ・カロフィルム・アザレア。
美しく着飾った姿は絵画のようで、その表情にも笑みが浮かぶ。
だが、エリザベスの目には見えている。
その笑みに潜む、張り付いたような熱。
腹に何かを抱えたまま、それを隠し通す気など毛頭ない――そんな態度が、逆に彼女らしい。
(相変わらずね、カミラ。腹黒さにリボンでもかけたのかしら)
エリザベスは優雅に微笑む。
「ええ、お呼ばれしちゃいましたの。明日のお茶会、楽しみにしておりますわ」
「ふふ、明日はたくさんの旧友たちもお招きしておりますのよ。学生時代に戻ったみたいで、もうウキウキしちゃって」
少女のような無邪気な言葉。だが、そこに無垢さはない。
その裏にあるのは、まるで言外に「あなたはどうかしら?」と探りを入れてくる“社交戦”。
「あら、それは楽しみですわ。本当に、皆さんお元気かしら。昔のおしゃべり、また聞かせていただきたいものです」
エリザベスは、微笑んだまま扇子をひらりと翻した。
まるで、戦の合図のように――
ふと――視線の隅に、何かが引っかかった。
並ぶ従者の列。その中に、ほんの一瞬、既視感のある顔があった。
やせ細り、髪は無造作に短く切られ、着ている衣は侍女の粗末な制服。
だが――エリザベスの眼は、誤魔化せない。
(……アリシア?)
かつてのフロラシア王国の姫。
冷たいまでに気高く、ふてぶてしいまでに自尊心をまとっていた少女の面影が――確かに、そこにあった。
ほんの数秒、その目が交差する。
相手は何も言わない。ただ黙って頭を下げる。それが、かえって全てを語っていた。
しかし、エリザベスはその名を呼ぶことも、表情を変えることすらしなかった。
扇子を軽くひと振りすると、何事もなかったように、カミラの元へと歩み寄る。
「長旅でしたでしょう、エリザベス様」
カミラが笑みを浮かべる。その声は、どこか甘く、しかし澱んでいる。
「立派な飛空艇でお越しになって……羨ましいですわ。我が国には、あのような艦などありませんもの」
あからさまな皮肉。だが、エリザベスは涼やかに受け流す。
「ええ、私には過ぎた代物ですけれど。王様から直々に拝領いたしましたの。
最近は自室代わりに外交に使っておりますのよ――狭苦しい部屋で長居するのも、あまり好きではございませんので」
優雅に笑いながらも、その言葉は刃のように鋭い。
“貴女たちの城など必要としていない”とでも言うように。
その空気に、リリーの背筋がゾクリと震えた。
何かが始まる。
そう、これはただの社交ではない。
この場は、絢爛を装った戦場だ。
夕食の席は、先ほどまでの張り詰めた空気が嘘のように、和やかなものであった。
昔話に、学生時代の他愛ない失敗談。
最近の宮廷ファッションの流行。
そして、他愛もない――恋の話まで。
銀のスプーンの音が、笑い声に溶けて響くその場に、確かに“少女”が二人いた。
リリーはその様子を少し不思議そうに眺めながらも、どこか警戒を解けずにいた。
(……まるで芝居。いや、むしろ舞台の幕間)
そう思うのは、彼女の本能が告げていた危険の匂いだろう。
夕餉が終わり、エリザベスとリリーは“客間”へと案内された。
案内されたのは、またしても仰々しいほどに飾り立てられた部屋だった。
天井にはシャンデリア。壁には金縁の絵画。ベッドの天蓋にはレースの山。
悪趣味なまでの贅沢に、エリザベスは呆れたように天を仰いだ。
「ここで寝ろ、と言うのね……まったく」
そう言って、フカフカすぎるクッションに腰を下ろす。
「姫様、なんでしたら……飛空艇にお戻りになっては?」
リリーがさりげなく問いかける。
「いえ。せっかくのご好意を無下にするのも、なんだか癪ですもの。
……見せたいなら、全部見て差し上げましょう。徹底的にね」
「……承知いたしました」
入浴を終え、身も心もほぐれた後。
二人は部屋の窓辺に腰を据え、ハーブティーの香りと静かな時間を味わっていた。
満月が、宮殿の大理石の塔を照らしていた。
「そういえば――」
カップを傾けながら、エリザベスがぽつりとつぶやく。
「先ほど、見覚えのある顔がありましたの。……ええ、間違いなく、“前王家の忘れ形見”」
リリーが目を細める。
「……もしや。アリシア姫ですか? ご存命だったとは、驚きです」
「そう、カミラの側仕えとして、ね。髪を切られ、顔も痩せていたけれど――間違いないわ。あの眼は」
リリーの眉が寄る。
「……はぁ、なんとも趣味の悪い。彼女がどこまで把握しているのか、気になりますね」
「きっと何も知らないわ。ただ……生き延びてる。それだけで十分」
エリザベスは湯気の立つカップを口元に運び、ほのかに香るレモングラスの香りを吸い込んだ。
窓の外、夜の宮殿が月光に照らされ、冷たい白に浮かび上がっていた。
ティーカップから立ちのぼる香りに包まれながら、エリザベスは一言、吐き捨てるように呟いた。
「まるで、哀れな兎ね――」
突然の比喩に、リリーはカップを口元で止める。
「兎……ですか?」
「ええ。カミラの趣味は悪いけれど、飼い殺しにされた彼女の姿……なんだかね。
罠にかかった野兎のようで、見ていて痛々しかったわ」
エリザベスは窓の外を見つめたまま、言葉を継いだ。
「誰も気づかず、声も上げず、ただ踏み潰されるのを待つだけの――そんな、白い兎。
……そう見えたのよ、あの娘が」
リリーはしばらく黙っていたが、やがて、ふっと微笑む。
「……では、姫様。そんな“兎”といえば、面白い異世界の寓話がございますよ」
「……異世界話?」
エリザベスが、少しだけ目を細める。期待と警戒が混じったような、知的好奇心の目だ。
「ええ。異世界――イズモと呼ばれる国に伝わる昔話です。
『因幡の白兎 (いなばのしろうさぎ)』という名でして、これがなかなか……棘が深い」
「ふふ、また妙な名前ね。
そんな話、聞いたこともないけれど――いいわ、聞かせて」
エリザベスは肘をつき、頬杖をついて笑った。
「この夜に、ぴったりのお話でしょう?」
リリーは頷き、静かに語り出す――
ハーブティーの香りが夜気に溶ける。
カップを傾けながら、リリーは小さく咳払いした。
「では、姫様。これより――一つ、異世界の物語をお聞かせいたしましょう。
舞台は、遥か東方。水の国“イズモ”に伝わる、白兎の伝承にございます」
「ふふ、ずいぶんと詩的な導入ね。さて、どんな兎が跳ねるのかしら」
エリザベスが楽しげに扇子を軽くあおぐと、リリーは芝居がかった口調で語り始めた。
「昔々、白い兎がおりました。
この兎、島に取り残され、本土へ渡りたくて――知恵を使ったのです」
「知恵……というと、また陰謀?」
「まさに。兎は、海に住む“鰐”――つまり異世界の竜のような生物たちにこう言いました。
『我ら兎の国と、お前たち鰐の国、どちらが数が多いか、数比べをしましょう。ここからあちらの岸まで、一列に並びなさい』と」
「……あら、嘘つきね、可愛らしい顔して」
エリザベスがカップを傾け、悪戯っぽく笑う。
「はい。しかし鰐たちは素直に並んだのです。
兎はその背を踏んで渡ろうとした――ところが、最後の一匹の上でこう言ってしまったのです」
リリーは立ち上がり、やや大げさに手を広げる。
「『ふふん、騙されたな鰐たちよ! これは計略であったのだ!』と」
「……あー、やったわね。それはやったわ。喋らなきゃ勝ってたのに」
「まさに。鰐は怒り、兎の皮を剥いだのです。
海水に浸された兎の身体は焼け、風に晒されて、痛みに呻くのみ。
騙した代償として、その身を剥かれ、海辺で打ち捨てられたのでございます」
エリザベスはカップを置き、窓の外に目をやった。
「……アリシアのことを言ってるように聞こえてくるわね」
リリーは頷き、語りを続ける。その声には、熱がこもりはじめていた。
「そしてその時、通りかかったのが――ある若き神でございました。
彼は兎に言います。『どうしてこんな姿になったのだ』と。
兎は、己の愚かしさと、鰐に騙されたことを告げ――
神は、憐れみました。
『では、葦の花粉を集め、それを塗ってお行きなさい。そうすれば、お前の傷は癒える』と――」
リリーは一歩前へ踏み出す。
「そして兎は再び立ち上がるのです! 皮を剥かれた哀れな白兎が!
愚かだった過去を悔い、痛みを知ったその心に、再び、命が戻る!」
「……今、あなた一瞬、演台を探してなかった?」
「演台があれば、より迫真の演技ができましたのに!」
エリザベスはくすりと笑い、その表情の奥に、何か深い影を落とした。
リリーは最後にそっと椅子に腰を下ろし、ハーブティーを一口含んだ。
「……この物語、愚かな者がただ痛みを受けて終わるのではなく、
優しさによって癒やされ、再び立ち上がる――という“救済”が描かれております」
エリザベスはしばし沈黙し――やがて、ポツリと呟いた。
「この国には“鰐”が多すぎるわ。けれど、あの娘は……本当に、痛みを知ってしまった」
「アリシア姫が、兎のように再び立つには……“誰か”が手を差し伸べなければなりません」
「その“誰か”が、“女神”であったとしても?」
「……まさに、姫様にふさわしい役どころではありませんか?」
リリーの言葉に、エリザベスは扇子で口元を隠し――悪戯っぽく、意味深に微笑んだ。
「“白兎と女神”。悪くないわ。
……なら、その物語、続きを書いてみましょうか。棘の筆でね」
そこは、まるで忘れ去られた倉庫のようだった。石造りの壁には亀裂が走り、床は乾いた藁が敷き詰められている。
粗末な木の寝台、布とも呼べぬ薄い毛布。宮廷の記録に“王族”として名を刻んだ者の居場所とは、とても思えぬ場所だ。
それでも、アリシアは何も言わず、静かに目を閉じていた。
夜風が吹き抜けるたび、短く刈られた髪が揺れる。
ただ、死を待つだけの日々。その瞳に、光はない。
――そのとき。
ぎ、と扉が軋み、小さな影が音もなく滑り込む。
月明かりを背にしたそれは、まるで漆黒の死神。
「……来たのね」
アリシアは薄く目を開け、その気配を見据えた。
「貴方が、迎えに来たのなら……お願い。私を、家族のもとへ――」
掠れるような声。それは“死”を恐れぬ覚悟ではなく、むしろ待ち望んだ願いだった。
だが、影は何も言わない。ただ、静かに首を振った。
「残念ですが、私は死神ではありません」
女の声。艶を抑えた凛とした声色。
「……貴女は……?」
「エリザベス様の従者にございます」
「……なぜ、私の元へ?」
「エリザベス様が、あなたと話をしたいと仰せです。今すぐ、お越しいただけますか?」
アリシアはその言葉に、顔を伏せたまま薄く笑った。
乾いた、皮肉にも似た微笑。
「私から話すことなど何もございません。私は、ただ死を待つ者。王族でもなければ、人でもない」
「……いいえ、アリシア様」
リリーの声が少し強くなる。どこか祈るように、優しく。
「エリザベス様は、あなたが必要なのです」
「……私が……必要?」
アリシアの肩が微かに震えた。疑念と困惑、そして――かすかな希望。
「……少し……時間をください」
「承知いたしました。ただし、猶予はあまりありません。
明日の夜までに、あなたの答えを聞かせてください」
そして、リリーの影はすうっと後ずさり、扉の隙間から夜へと溶けていった。
その姿は、まるで月の光が地を撫でていったかのようだった。
残されたアリシアは、膝を抱えて天井を見上げた。
「天使……か。それとも、悪魔……か」
誰にともなく、呟いた。
この声が、誰かに届くとすれば。
それはたった一つだけ、再び立ち上がる理由なのかもしれない――