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第五章・求婚者と美しく残酷な姫の物語

 二つの大仕事を終え、エリザベスは久方ぶりに本邸へと帰還した。


 高い尖塔の上にはミミローズ家の白銀の旗が風に揺れ、石畳の中庭には整列した従者たちが彼女を迎える。


「リリー、私は先にご報告へ伺って参りますわ。執務室か応接の間かしら?」


「応接の間でございます。旦那様方がお揃いとのこと」


「まぁ、久しぶりに三人でお揃いなのね。これは気が引き締まりますわ」


 そう呟いて、彼女はリリーと別れ、ひとり応接の間へと歩を進めた。

 そこには、バルトローズ王国の名門、ミミローズ公爵家の当主――アントリム・カラドリウス・ミミローズと、二人の夫人がすでに待っていた。


 応接の間は、日差しと温かい紅茶、そして家族の笑い声で満ちていた。


「……ただいま戻りました、父上、母上方」


 アントリムは手元の新聞を静かに畳み、穏やかな微笑を浮かべながら立ち上がった。


「おかえり、エリザベス。君の帰りが、我が家に春を運んでくるようだ」


「まあ……父上、いつもながらお言葉が過ぎますわ」


 第二夫人カメリアは、紅茶のカップを両手で包み込みながら、ふわりと微笑を浮かべた。


「ええ。エリーが帰ってくると、屋敷全体がふんわりと明るくなる気がいたしますわ。お姉様……マーガレット様もそう思われますでしょう?」


「もちろんですわ。やっぱり、エリーにはこの屋敷の静けさがよく似合いますもの」


 第一夫人マーガレットが上品な所作で紅茶を口に運びながら、優雅に頷いた。

 その姿は、かつて“白バラ姫”と呼ばれた美しさと気品を今なお纏っていた。


 華やかでありながら、どこか秘密めいた結界のような、楽しい家族の時間。


 やがて、アントリムが少しだけ声を低めて言った。


「……ところでエリザベス、帰還早々で気が重いとは思うが、“例のもの”がまた幾つか届いていてね」


 エリザベスの表情が、わずかに引き締まる。

 “例のもの”──それは、婚姻の申し出。名家の令嬢として避けられない現実。


「……承知いたしましたわ。目を通すくらいは致します」


「無理強いはせぬ。ただ、相手には礼を尽くしてほしい。君の名は、我が家の誇りだからね」


「ふふ……私のときは本当に大変でしたのよ」

 マーガレットが紅茶の香りに目を細めながら、懐かしむように言った。


「“白バラ姫”の名に惹かれて、全国から申し出がありましたものね。選定会のようでしたわ」

 カメリアが柔らかな声音で続ける。


 アントリムは小さく息を吐き、庭の薔薇に目をやる。


「……君がどのような道を選ぶにせよ、我々は支えよう。ミミローズの名は、そのためにあるのだから」


「ありがとう、父上。私は、私にしかできない誇りを守りますわ」



 応接間での家族との温かな語らいを終え、エリザベスが廊下に出ると、そこには、白髪を丁寧に整えた女性が立っていた。


「……あら、ばあや。お久しぶりね」


 その姿に微笑みを浮かべて歩み寄ると、ヴァイオレットは深く、まるで舞うような優雅な所作で一礼を返した。


 ばあやの表情がわずかに和らぎ、手元からひとつの封筒を差し出した。


「それと、こちらはシリウス様からでございます。今回のご活躍について、お手紙をお預かりしております」


 兄からの手紙。エリザベスが丁寧に受け取ると、封を解いた瞬間、仄かにラベンダーの香りが立ち上った。

 便箋には整った筆致で最近のことやエリザベスの功績を讃える相変わらずの兄の過保護な言葉が綴られていて、ペンダントが同梱してあった。


 ばあやが腕を組んで少し眉をひそめる。


「……ジュエリーならともかく、ガラス細工とは。シリウス様も、もう少し高貴なお品をお選びになっても」


 エリザベスはふふっと微笑んで、ペンダントを胸元にあてがった。


「いえ、ばあや。素晴らしい技術が光る作品ですわ。こういう品こそ、実は外交の場で非常に効果的ですの。何より、兄様が“私に”と思って贈ってくださったのですから──その価値は何にも代え難い」


 その言葉に、ばあやは一瞬だけ目を見開いたが、すぐに瞳を伏せ、再び優雅に一礼した。


「……さすがはお嬢様。私の見識が浅うございました」


「いいえ、あなたのお心遣いも、私にとっては何よりの宝です」


 そう言って微笑むエリザベスの姿に、ばあやの口元もほころんだ。



「リリーはどこにおりますの?」


 廊下をゆったりと歩きながら尋ねると、隣を歩くばあやが、ぴたりと立ち止まって一礼した。


「家族の間におります。……ミミナお嬢様とリリアナお嬢様と、ご一緒です」


「まぁ……変にオモチャにされていなければ良いのだけれど」


 不安混じりに呟いて、エリザベスは扉に手をかけた。軽やかな音とともに開いた扉の先で、声が響いた。


「――おのれブルータスよ、お前もかァァァ!!」


 思わず足が止まる。

 スポットライトでも浴びているかのように、リリーが堂々と両腕を広げて立っていた。

 その表情は悲哀に満ち、声は震え、姿勢は完璧な舞台役者そのもの。


 その異様な光景に、エリザベスとヴァイオレットはぴしりと固まる。


「……お、お嬢様。これは、失礼いたしました」


 すぐにリリーは、まるで舞台から降りるようにシュッと背筋を伸ばして、いつもの従者の顔に戻った。


「姉様姉様! ジュリアスってば、すごく可哀想なのよ! 英雄なのに、裏切られちゃって!」


「そうなのよ姉様! ブルータスってばひどいのよ、あんなにお世話になったのに!」


 そう言いながら、双子の妹が両腕にしがみついてきた。


「ちょ、ちょっと待って……これは一体、どういうお話?」


 両腕に双子を抱えたまま困惑するエリザベスに、リリーが笑みを浮かべて応じた。


「これは『ジュリアス・シーザー』という戯曲でございます。シェイクスピアという劇作家の手による作品でして。

 英雄として名を馳せた人物が、最も信じた者に裏切られ、やがて……復讐の火を灯す物語です」


「へぇ……戯曲、ですのね。意外と面白そうですわ。今度、私にもお話してくださる?」


「もちろんです、お嬢様。次はもっと準備して、より本格的に演じてみせます」


 リリーが冗談めかしてウィンクする。双子たちは「やったー!」と拍手しながら跳ね回った。


 その横で、ばあやはというと──


「あああ……私、一度も演技など教えたことはないのですが……」


 額を押さえ、孫娘の意外な特技に軽く目を回していた。



 家族の間の一角。

 そこには、静かに佇む一枚の写真があった。


 豪胆で、清々しくて。

 言葉よりも先に行動するような、そんな人だった。


 ──ロウェル・ミミローズ。

 エリザベスの、兄。二年前、戦の任務中に命を落とした家族の誇り。


 エリザベスは胸にそっと手を当て、遺影に向かって小さく俯く。


 その隣で、ミミナとリリアナ、リリー、そしてばあやまでもが同じように胸に手を当てた。


 と、その時。


 すっ…と家族の間の扉が開き、静かな足音が響いた。


「姉様、ここでしたか」


 入ってきたのは、ミミローズ家の末の弟、セイジ・ミミローズ。


「あら、セイジ。息災だったかしら?」


 エリザベスが穏やかに声をかけると、彼は少し照れたように頷いた。


「ええ、もちろんです。……姉様が戻ってくると聞いて、庭で花を摘んできました」


 そう言って、手にしていた小さなバラの花束を差し出す。


「あら、素敵ですわ。でも、こういうものは、あなたの“好きな女の子”に贈るものですのよ?」


 そう言って微笑むと、セイジは目に見えて赤くなりながら、視線を逸らす。


「……ぼ、僕には、そのようなお相手は……おりません……エリー姉様以外には……」


「姉様、姉様! 兄様ったらね、姉様のことばっかり話すのよ!」


「姉様、姉様! 兄様ったらね、姉様の記事ばっかり集めてるんですのよ〜」


 ミミナとリリアナが、まるで秘密を暴露するようにこっそり囁いてくる。


「お、おいっ、やめろよ……!」


 セイジは耳まで真っ赤にして後ずさる。どうやら、かなり重度の“シスコン”のようだった。


「ふふっ」


 エリザベスは口元を手で覆い、くすくすと笑う。

 ここにあるのは、名家としての誇りも、気高き血も関係のない、ただの“家族”としてのひととき。




 それは、普段は空き部屋として使われていた寝室の一つだった。


 中に入ると、机の上に積まれた――お見合い写真の山。

 思わず、エリザベスは足を止めた。


「……なに、これは」


 あまりの量に、頭が真っ白になる。


「リリー?」


「贈り物も多数届いております。そちらは倉庫の方に……」

 リリーは、まるで殉教者を見るような顔をしていた。


「これが、有名になるってことの“代償”なのね……」


 写真の中には、魔法で動くもの、絵画のように豪奢なもの、開けば音楽が流れ出すものまであった。

 差出人の年齢は下は少年、上は四十路。職業も貴族、商人、神官、冒険者と多彩。


 なかでも目を引いたのは──


「……ジャブール教の教皇の孫と、ベルセルク部族の長の息子、ですか」


 リリーが、やや複雑な顔で言う。


「そちらのお二人は、かなり真剣なようです。教皇は外交目的もありましょうが、部族長の方は…相当熱烈でした」


「ふうん……貴族たちの“いかにも”な演出より、よほど誠実に見えるわね」


 うんざりしたようにため息をひとつ。


「……全部、返しておいて。失礼のないようにお願い。あと、子どもから来ていたものには何か本でもつけてあげて」


「かしこまりました」


 従者が一礼して写真を手際よく整理し始めたとき、エリザベスがぽつりと呟いた。


「……アルフレッド伯からは、来ていないのね」


 少し拗ねたような声に、リリーが意外そうに目を丸くする。


「気になりますか? アルフレッド様のこと」


「ええ? あら……別に、そういう意味ではないけれど……」


 エリザベスはすぐに顔を戻し、どこか教師のような口調で続けた。


「図々しくても、こういう時に“顔を出す”くらいじゃなきゃ……まだまだね」


「……ああ、そういう評価目線でしたか……」


 リリーがほんの少し残念そうに肩を落としたのに、エリザベスは何も言わず微笑んだ。




 全てが終わり、ようやく一人の時間が訪れた。

 エリザベスは窓辺の椅子に腰を下ろし、深く息をつく。


「リリー、お茶を入れてくれるかしら。それと……何か面白いお話を」


 そう頼むと、リリーは「かしこまりました」と小さく微笑み、手慣れた動作で茶器を並べ始めた。

 湯の音が部屋をやわらかく満たす中、彼女はしばし思案の顔を浮かべる。


「そうですね……では、“千夜一夜物語”から一編。『王子と中つ国の王女』の物語など、いかがでしょう?」


「ふうん……なにか意味ありげな選び方ね」


「いえいえ、お嬢様の今の心に、少し響くかなと。ほんの偶然です」


 リリーはお茶をそっと差し出しながら、物語を語り始める準備をする。


 そして静かな夜が、語りと湯気の匂いに包まれて、静かに更けていった──。


「では、お茶の時間に……ちょっと面白いお話を」


 紅茶を丁寧に注ぎながら、リリーが微笑む。

 エリザベスは肘をついてカップを眺めながら、「お願い」と一言。


 紅茶の香りが部屋に満ちるころ、リリーはゆっくりと椅子に腰掛け、語りを始めた。

 その声はまるで風が静かに帷を撫でるように、物語の世界へと誘っていく。


「むかしむかし、遥か東方の果て、“氷の王女”と呼ばれる姫君がおりました――」


 エリザベスは湯気の立つカップを手にしながら、目を細める。

 その表情には“懐かしい眠り”のような穏やかさが漂っていた。


「その名は、トゥーラン王国の王女“トゥーラ”。

 誰よりも美しく、そして……誰よりも冷たき心を持つお方でした」


「ふふ、私の知る誰かに似ているかもしれませんわね」


「お嬢様、それは自己紹介では……?」

 リリーが軽く返すと、エリザベスはわずかに肩を揺らして笑う。

 それは彼女が心を許した者にしか見せない、静かな微笑だった。


「王女トゥーラはこう宣言したのです。“この世の男すべてに謎を出す。

 答えられなければ、命をもって償うがよい”と」


「……随分と過激な戯れね」


「それでも王女の美しさは、命を賭けてでも手に入れたくなるほどだったのです。

 彼女の前には毎夜、遠国の王子、騎士、賢者たちが列を成しました。

 だが、いずれも――」


 エリザベスは静かに紅茶を口に運びながら、リリーの語りを受け止める。


「ある夜、放浪の若き王子が現れます。名をカラフ。

 彼は王女に向かってこう言いました。“謎を解いて、貴女を妻にする”と」


「ふふ、命知らずね」


「そして王女は第一の謎を問いかけます。

 “闇夜に虹色に飛ぶ幻、全人類が求める幻影。だがそれは心の中に甦るため、夜毎に生まれ朝に死ぬ。それは何か?”」


「“希望”よ」

 エリザベスが即答する。


 リリーが小さく目を見開いた。


「第二の謎。“炎に似て炎ではなく、生命を失えば冷たくなり、征服を夢見れば燃え立ち、その色は夕陽のように赤く、その声も聞こえる。それは何か?”」


「“血潮”…かしら」

 またも即答。


「……ちょ、ちょっと待ってください、お嬢様。王子の立場が!」


「これは早押しゲームじゃなかったのかしら?」


 くすくすと笑うエリザベス。

 紅茶をひとくちすするその仕草は、どこか勝者の余裕に満ちていた。


 リリーは肩を落としながらも、最後の謎を口にする。


「“氷のように固く閉ざされ、触れれば火のように燃える。多くの男を虜にし、彼らを絶望へと突き落とす。さて、それは何か?”」


「“トゥーラ姫”ね」

 エリザベスが静かに答えると、リリーは拍手した。


「完全勝利でございます、お嬢様。王子、立場なしですね」


「ふふ。謎を出すつもりなら、私相手には覚悟して挑まないと」


 静かに笑い合うふたり。

 部屋には紅茶の香りと、優雅な勝負の余韻だけが残っていた。


「さて――今度は、王子が姫に謎を出す番です」


 リリーが物語の続きを語り始める。

 エリザベスは新たに注がれた紅茶を手にしながら、耳を傾けた。


「“私の名を言い当てよ。夜明けまでに答えられなければ、貴女は私の妻となる”

 ……そう告げて、王子は立ち去りました」


「名を、ね……」

 エリザベスはカップをくるりと回す。

「王女は?」


「動揺しました。王子の名を探るため、家臣を各地に派遣し、使用人に金を握らせ、あまつさえ王子の側近に毒を盛ろうとまでしました」


「ずいぶん激しいわね……」


「それでも分からなかったのです。

 そして夜明け、姫は自ら王子の前に立ちました。

 “……あなたの名は、カラフ”」


 エリザベスはしばし黙り込み、窓の外へと視線を流す。


「……まるで、自分を見ているようだわ」


 リリーがそっと視線を送る。


「見透かそうとして、力を尽くして……でも、分からないものは分からないのよね」


「それでも最後には、姫は名を言ったのです。

 自分の誇りよりも、王子の心を受け止めることを選んで」


 エリザベスは小さくため息をついた。


「もし……私にもそこまで情熱的な人が現れたら」

 一呼吸置いて、やや冗談めかすように微笑む。

「結婚してあげても、いいかもしれないわね」


 リリーが目を丸くした。


「……まあ。それは、世紀の大事件になりそうです」


「ふふ、そうかもしれないわね。でも安心して。

 トゥーラ姫にはならないように、ちゃんと気をつけるつもりよ」


 リリーはカップを持ち直しながら、柔らかく頷いた。


「お嬢様なら、きっとご自分の名を大切にしてくれる方を選ばれることでしょう」


 エリザベスはその言葉に、ほんの少し頬を緩めた。

 窓の外では、陽が傾き始め、薔薇の影が静かに揺れていた。

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