第四章・誠実伯爵と藁の奇跡
「つまり……この借用書は、王都の法に照らせば“詐欺的契約”と断定できますわ」
応接間の静寂を破ったのは、エリザベスの凛とした声だった。
机上に並べられた金細工の帳簿や、借用書、契約証明書。
それを一枚一枚めくるエリザベスの白手袋が、まるで“王国の審判”そのもののように見えた。
「……本当、ですか?」
アルフレッドの声には、かすかな震えがあった。
彼は信じていたのだ。悪徳商人の「あなたの夢を叶えましょう」という甘い言葉を。
「信じたあなたは、罪ではありません。しかし……」
女王のような眼差しで、彼女は言う。
「これからは、“真の価値”を見る目を持ってくださいまし」
「姫様、ティータイムのご用意が整いました」
帰りのエリザベス号の中で、リリーは優雅な身のこなしで銀のトレイを運び、エリザベスの前に香り高い紅茶と、焼きたてのはちみつ菓子をそっと並べる。
柔らかな日差しが、窓から差し込む午後のサロン――そこはまるで雲上の離宮。
「ありがとう、リリー。さて……今日は“何か面白いお話”をしてくれないかしら。あのアルフレッド伯が参考にできそうな、前向きなものを」
「ふふ、それなら……“わらしべ長者”など、いかがでしょう?」
「まぁ。長者とは素晴らしい響きですわ。聞かせてちょうだい」
「かしこまりました――では、始めましょう」
リリーは一礼すると、まるで舞台に立つ女優のように目を閉じ、ゆっくりと語り始めた。
「昔々――ある貧しい男がいました。
持っているのは、何の変哲もない一本の藁。
けれど彼は、信じていたのです。“この藁が、幸運を呼ぶ鍵だ”と」
リリーの声色はやや低く、しっとりとした滑り出し。
まるで聴衆を物語の世界へ導く魔法の呪文のように。
「その藁に止まったのは、一匹のアブ。男はそれをそっと捕まえて、泣いている子どもに渡しました。
代わりに、子どもが持っていた蜜柑をもらいました」
彼女は袖をふわりと翻しながら、まるで実際に藁を掲げるような仕草をする。
「蜜柑は、喉が乾いて困っていた商人に差し上げて……代わりに、絹の反物が手に入ります。
絹は、落馬して困っていた武士の妻に渡り……すると、褒美に一頭の馬を授かるのです」
「ふふっ、なんだか“手練手管”みたいね」
エリザベスが楽しげに茶を啜る。
「いえいえ、違いますわ。すべては“思いやり”が始まりです」
リリーは微笑むと、そっと声を潜め、語調を変える。
「やがて、男はその馬を駆って、ある商家の屋敷へ。
商家は言いました。“娘の婿を探しているが、お前のような正直者なら安心だ”――
そうして、男は立派な家に迎えられ、田畑と人々と、そして愛を手に入れたのです」
エリザベスは静かに紅茶を置き、言った。
「つまり、“わら”とは、無価値に見える“誠実”や“希望”の象徴なのね」
「はい、姫様。誰もが見過ごす些細なものを、大切にすることから全ては始まるのです」
「……まるで、あの若き伯爵に重なりますわね。質素で、不器用だけれども、そこにある真心が、いずれ誰かの心を打つ。だからこそ――育ててあげなければ」
リリーは、ふっと微笑んだ。
「“一本の藁”さえも、宝となるのですから。彼の持つ“まっすぐな心”もまた、何よりの富ですわ」
雲の海の上で語られたその小さな物語は、やがて大きな運命の舵を切る、前奏曲となるのだった。
その数日後、王家直属の金融機関から正式な使節が訪れた。
全ての契約を見直し、正当な負債は“緊急再生融資”として借り換え。
王命を背景に、悪徳貴族らは逃げ隠れするように退場していった。
そして、立ち上がった新計画が――
《わらしべ交易プロジェクト》である。
「“しあわせハンス”が手放す物語なら、こちらは“掴み続ける”物語ですね」
リリーが柔らかく笑いながら語った。
それは、一見なんの価値もないものが、渡す相手と状況次第で、次々と価値を増していく――
まるで魔法のような民話、「わらしべ長者」の応用だった。
「この焼き菓子、素朴だが奥行きがある。王都では流行りそうだ」
「花弁の模様、なんて精緻な……これは調香師たちが欲しがるはず」
エリザベスの“お墨付き”がついた商品は、まるで魔法がかかったかのように価値を帯び始める。
彼女が主催する小規模なサロンで紹介された品々は、貴族夫人たちの間で話題となり、注文が殺到。
“辺境の菓子”は“王都の宝石”へと生まれ変わっていった。
一方、アルフレッドは、慣れないながらも商人の顔になっていた。
「この籠は、手編みです。一つひとつ、農民たちが丁寧に……!」
震える声で王都の市場に立ち、手で握るのは、ただの木製の籠。
だが、その籠に込められた時間と想いを、彼は語り続けた。
“わらしべ”のような小さな価値が、王都の誰かの心を動かし、次なる富へと変わっていく――
その繰り返しが、やがて領地全体の資産となっていく。
「伯爵様……変わられましたね」
リリーが、ふと漏らした。
「……変わったのではありません。ただ、ようやく“信じたいこと”と“やるべきこと”が重なっただけです」
アルフレッドは、泥のついた外套を脱ぎ、胸を張って言った。
かつての“器用貧乏”の青年は、今や、誠実さを武器に戦う男へと変わろうとしていた。
重厚な黒檀の机に、ゴブレットの赤ワインが鋭く打ち据えられた。
「……ふざけた真似を」
ローデヴァルト侯爵家当主、ジークベルト・ローデヴァルトは、鏡のように磨かれた窓の外――すでに黄昏色に染まったライエンバッハの山並みに目を細めた。
美しい。だが、それが彼のものにならなかったとあれば話は別だ。
「せっかくあの愚か者を借金漬けにして、領地を献上させる寸法だったというのに……。なんだ、あの女は」
彼の唇が、悔しげに歪む。
バルトローズ王国の“棘の姫君”――エリザベス・ローズ。
王族とはいえ、まだ若く、遠方の地など政治的に踏み込まないと思われていた彼女が、まさか――あのタイミングで“現地調査”にやって来るとは。
「しかも、アイツに目をかけた? ――滑稽だ。あんな甘っちょろい青二才が、国家の器などと」
彼は机に広げられた地図の上に、硬質の指でライエンバッハを叩いた。
「……潰すしかあるまいな」
ジークベルトはそう呟くと、壁際に控えていた黒衣の側近に小さく目配せする。
「“商人ギルド”と“交易組合”、それに“南方鉱山帯”の契約を洗え。やつの支えになりそうな供給元は、全て買収する。表沙汰にするな」
「御意」
「それと――姫君にも、手を回しておけ。“上流の舞台”に戻すのだ。政治の駒に過ぎないと、思い出させてやらねばな」
ワインを一口飲み干すと、ジークベルトはゆっくりと立ち上がる。
その背には、王国の“静かなる毒”と恐れられる男の冷たい影が落ちていた。
だが、彼の知らぬところで――
ライエンバッハの若き伯爵と、雲の上の姫君の“反撃”が、既に始まっていた。
「……なんだと?」
静かな声だった。だがその場の空気は一瞬で凍りついた。
ジークベルトは、目の前の文書を信じられぬ思いで睨みつけていた。
印された封蝋――それは、ミミローズ公爵家のものだった。
そしてその下には、はっきりとこう記されている。
《本状をもって、ライエンバッハ領はバルトローズ王国第一公爵家・ミミローズ家の飛地直轄地とし、統治権限は我が家の名代に移譲されるものとする》
「……ば、ばかな……ッ! この期に及んで……!」
机を拳で叩く音が部屋に響く。
だが、手元の報告はそれを容赦なく追い打つ。
「商人ギルド、交易組合、鉱山帯、すべてが協力拒否の意向を示しています。
すでに“名代”――つまりエリザベス殿下の名で、交易路や融資筋が再構築されており……今や、あの田舎領地には“王家直属の後ろ盾”があるも同然です」
「……ミミローズ家だと……」
ジークベルトは口元を引きつらせた。
王国に三つある大公爵家の一つ、ミミローズ。
その名代がエリザベスであることは、政治に通じる者なら誰もが知っていた。
だが彼は――甘く見ていたのだ。
(ただの“外交姫”だと……? “棘の姫君”の名は伊達ではなかった、か)
自らの策が、すべて遅すぎたと悟った瞬間だった。
「……おのれ、エリザベス……! その華やかな微笑みの下に、どれだけの毒を隠しているというのだ」
だが、その嘆きに対し、部屋の空気はただ静かに沈黙を返すのみだった。
侯爵の戦いは、まだ終わらない。
だが――この一局において、彼は確かに“敗北”を喫したのだった。
黄金に縁取られた格天井、香水のように漂う香木の薫り。
王国貴族の頂点たるヴァルクライン公爵家は、その空気すら他と一線を画していた。
「……失礼だが、我が家が関わる件ではないな」
グラシアス・ヴァルクライン――黒髪に冷ややかな灰銀の瞳を持つ若き当主は、ジークベルトを一瞥するなり、そう冷たく言い放った。
ジークベルトは顔をひきつらせる。
「グラシアス殿、それはどういう――」
「“公爵”だ、ローデヴァルト侯。分を弁えたまえ」
静かな一言に、室内の空気がピシリと張り詰める。
ジークベルトは拳を握りしめながらも、なんとか語調を抑えた。
「……わたしは貴公のお力添えを――我が長年の交誼を、忘れたとでも?」
「“交誼”とは、信義をもって結ばれるものだ。
――それが、他者の苦境を利用して金をむしり取るようなものであったなら?」
その一言に、ジークベルトの心臓が一瞬止まったように感じた。
「まさか……っ」
ちょうどそのとき、扉の外から小走りの足音が響き、彼の側近が息を切らして現れる。
「し、失礼を――お、侯爵様、大変なことに……!」
「なんだ、今は取り込み中だ!」
「し、しかし……っ、貴族通信網にて……!
『ローデヴァルト侯爵、借金漬けの貴族たちを操る“影の胴元”』として、名指しで情報が流れています! しかも、各方面からの“証言”付きで――!」
「――なに?」
「それだけではありません……。
“借金を肩代わりする代わりに娘を娼館に売らされた”、
“領地の宝を無理やり担保にさせられた”など、恐ろしい噂が“元被害者の声”として広まり――しかも、それがすべて、“姫君の側近の調査”によって明らかになったという体裁で……!」
「あの女か……!」
ジークベルトはその名を噛み殺すように吐き出した。
あの、姫君の侍女。優雅に微笑み、影のように彼女のそばにいるあの従者――
あれが、“情報の刃”だったというのか。
背筋を冷たいものが這い上がってくる。
(奴ら……はじめから、情報戦だったというのか……!)
目の前のグラシアスは、冷笑すら浮かべずに、ただ静かに言った。
「……貴族の世界は、金で築くものではない。
“信”で成り立つのだ、ローデヴァルト侯。君は、その根を焼いた」
その瞬間、ジークベルトはようやく悟った。
全てが“終わった”のだと。
《エリザベス号》・展望サロン――午後の紅茶の時間。
窓の外では、白い雲がゆるやかに流れていく。
静かな午後。陽差しが金糸のカーテンに優しく反射し、香り高い紅茶がテーブルに注がれる。
「――全て、想定通りでございます」
ティーポットを静かに置いたリリーが、微笑みながら報告した。
「ローデヴァルト侯の影響力は壊滅。商人ギルドも彼を完全に切り捨てました。
また、ヴァルクライン公爵家の“若”――グラシアス様の手勢も、財政面でいくつかの支柱を失いました」
「……まあ、想像より少し早かったくらいね」
カップを傾けながら、エリザベス・ローズは微笑んだ。
それは、冬の氷を融かす陽だまりのようでありながらも、芯には鋼鉄の意志が宿っていた。
「グラシアスは有能。でも、時に慢心しすぎるのが玉に瑕。
彼の囲っていた金融網の半分は、元をたどればローデヴァルト侯とつながっていたのですもの。
切り離されて当然よね」
「ええ。高利貸しの情報源から“被害者”を集めるのは少し大変でしたが……同情と小銭は集まりやすいものですわ」
リリーはそう言って、シュガースプーンで紅茶をかき混ぜる。音も、仕草も、完璧だった。
「それに、姫様の“直筆推薦”と“王家の後援”という一文を菓子箱に添えたことで……ライエンバッハの花菓子、すでに貴族婦人たちの間では“流行最先端”だとか」
「人は“贅沢”より“選ばれしもの”に弱いのよ。
だから私はあえて、あの質素な菓子を“特別”にしたの。
アルフレッド伯が信じた“誠実”が、正しい価値として流通するように――ね」
その瞳に浮かぶのは、ただの勝利ではない。
それは、“誰かの純粋さ”を守るために剣を振るった者の誇りだった。
「……全ては、バルトローズのため。そして、次代のために」
「姫様、相変わらず……」
リリーはわずかに肩をすくめ、ふふっと笑う。
「……冷徹で、高貴で、美しすぎますわ」
「それ、褒めてるのかしら?」
「もちろん、心から」
午後の光に照らされたサロンには、紅茶と共に、勝利の香りが満ちていた。
ライエンバッハ領・市の広場――秋風が香る午後
「はいはい、そこの花は踏まないでくださいね! その道具はもっと優しく扱って!」
麦藁帽子をかぶった青年が、広場の真ん中で声を張り上げていた。
日焼けした顔に、泥の跳ねた袖。――アルフレッド・フォン・ライエンバッハ、その人である。
かつて「若き伯爵」と呼ばれた彼は、もはや城の玉座にも、貴族の衣にも戻らない。
代わりにその背には、汗と笑顔、そして領民たちの信頼があった。
「アルフレッド様、あの果実酒の取引、南の市場で成立しましたよ!」
「本当か! じゃあ次は東の街道だな、例の乾燥花の取引も仕上げて……!」
彼は今、商人として、民の代表として、領の“顔”として――あらゆる場所に顔を出し、交渉を重ねていた。
貴族社会では「すべてを失った男」として扱われるかもしれない。
だが、領民にとって彼は「全てをくれた男」だった。
貴族の肩書などなくとも、人々は彼を“アルフレッド様”と呼び、微笑んでそばに寄ってくる。
どこか誇らしげに、どこか温かく。
まるで――
まるで、「しあわせハンス」と「わらしべ長者」の両方を生きた青年のように。
かつては何もかもを持ち、何も知らなかった彼。
今は、何もかもを知り、必要なものだけを手にしていた。
「……おかしいな。何か、失った気がしないや」
アルフレッドはそう呟きながら、笑った。
その手には、領民が贈ってくれた布袋――中には、市で売る予定の素朴な焼き菓子が詰まっていた。
それが、今の彼の“宝”だった。