第三章・誠実な伯爵としあわせのハンス
飛空艇《エリザベス号》は、雲を裂くように空を進む。
その船首に立ち、遥か遠くの大地を見つめる一人の令嬢。紅の髪に金の装飾が揺れる。
「……もうすぐですね、ライエンバッハ領」
エリザベス・ローズ。
バルトローズ王国が誇る“棘の姫君”は、今やその異名よりも“微笑みの外交官”として名を馳せていた。
だが今回の訪問は外交ではない。
王命による調査任務。
北部に広がる豊かな地、ライエンバッハ領。その若き伯爵、アルフレッドの統治に“重大な懸念”があるというのだ。
「領地も家柄も申し分ないのに……借金、ですか」
隣に控える侍女、リリーが手元の資料をめくりながら、エリザベスに静かに囁く。
「ええ。先代が亡くなってから三年。遺された財政はすでに破綻寸前。
にもかかわらず、アルフレッド伯爵は“なぜか”贅を尽くした宮廷を維持しているそうです」
「ふうん……お金の動きというのは、面白いわね。
誰が何に価値を見ているかが、如実に現れるのだから」
果たして、若き伯爵アルフレッドは、無能か、隠れた策士か。
あるいは――何かを背負っているのか。
《エリザベス号》は、謎に満ちた地に降り立とうとしていた。
ライエンバッハ領の朝は早い。
まだ霧が田畑に残る頃、ひとりの若き伯爵が農道を歩いていた。
「この畝の土、昨日の雨で締まりすぎてますね。排水路の調整をしましょう。ルドルフ、職人を三人ほど回せますか?」
「はい、すぐに!」
整った顔立ちに、くたびれた作業着。
――アルフレッド・フォン・ライエンバッハ。
噂で聞いた「浪費家の貴族」の面影など、そこには一片もなかった。
むしろ彼は、領民たちと汗を分かち合う勤勉な若者だった。
一方その頃、遠くから様子を見ていたエリザベスは、珍しく眉をひそめていた。
「……これは、どういうことでしょう。噂とまるで違いますわね」
「ええ、姫様。浪費癖どころか、倹約家すぎて心配になるほどです」
「これは、何かしら情報操作があるようです。引き続き、ライエンバッハ領の調査を行うように」
「御意」
そういうと、リリーは他の潜入員たちに魔法の札で指示を送った。
エリザベス号で姫は日に日に集まる情報に目を通す。
完璧で誠実そうに見えるアルフレッド伯爵には、ひとつだけ大きな弱点があった。
――人を疑うことを知らないのだ。
誠実であるがゆえに、悪意に対して無防備だった。
領地には、昔から高利貸しが暗躍していた。困窮する農民たちに法外な利子で金を貸し、その苦境に乗じて私腹を肥やしていたのだ。アルフレッドは、そんな高利貸しの甘言を信じ、領地の改良資金として多額の借金を負ってしまった。
「伯爵様のために」と語る者たちの裏にある意図に、彼は気づけなかった。
また、隣接する領主たちの中には、ライエンバッハの肥沃な大地を虎視眈々と狙う者もいた。彼らは、若き伯爵の純粋さを利用し、不利益な条件での取引を巧妙に持ちかけた。アルフレッドは彼らの言葉を信じ、貴重な資源を安価で譲ってしまったこともあった。
その結果、領地の財政は少しずつ蝕まれていった。
それでも彼は、誰を責めることもせず、ただ民のために働き続けている。
「――まったく、どうしてこうも素直なのかしら。あれでは、“無能”と誤解されても仕方ありませんわね」
資料を読み終えたエリザベスは、窓の外に広がる田園風景を見つめながら、そっと息をついた。
真の敵は、無知や無力ではない。
誠実を食い物にする、偽りの“善意”なのかもしれない。
「リリー、ティータイムにいたしましょうか」
エリザベスは手を軽く二度叩きながら声をかけた。
その仕草に応じるように、控えていた侍女リリーが優雅な足取りで現れる。
まるで予知していたかのようなタイミングで、彼女は見事な手つきでティーセットを整え、香り高い紅茶と花模様の美しい菓子を卓上に並べていく。
「まあ……このお菓子、見たことがありませんわ。どちらの品かしら?」
繊細な花びらが描かれたような小さな菓子をつまみ、エリザベスが興味深げに問う。
「ライエンバッハ領の名産でございます。こちらもアルフレッド伯が自ら企画したとか」
「……あの方、どこまでも器用ですこと。けれど、その才能を正しく使わなければ、ただの“器用貧乏”で終わってしまいますわね」
エリザベスは紅茶を一口含み、香りと味わいに目を細める。
そして、ふと思い出したように、リリーに声をかけた。
「リリー、写書記憶〈ブックリーダー〉で何か、彼に通じそうな物語を聞かせてくださらないかしら。おとぎ話でも構わなくてよ」
「お任せくださいませ」
リリーは軽く頷くと、少し思案し、やがて静かに口を開いた。
「“グリム童話”の中にございます、『しあわせのハンス』など、いかがでしょう。少々のんびりしておりますが、心優しき青年の物語です」
「ふふ、なんだか彼に重なるところがありそうですわね。お願いするわ」
そう言って、エリザベスは紅茶の湯気に目を細めながら、微笑んだ。
その優雅なティータイムの裏で、彼女の中ではすでにひとつの“策略”が動き始めていた――。
「では、姫様――“しあわせのハンス”を、お話しいたします」
リリーは深く一礼すると、その場で一転、語り部の顔になる。
声色は落ち着いていながらも感情に満ち、手振りも大きくなる。
「ハンスは、七年の奉公を終えて、主人から“金の塊”をもらいました。たいそう喜んだ彼は、家に向かって歩き出します。――しかし!」
「ふむ、しかし?」
「途中で馬に乗った男と出会い、“歩くより乗ったほうが楽ですぞ”という言葉に、金と馬を交換してしまいます」
「金と馬を? ええと、それは……経済観念が失踪していません?」
「ですが姫様、彼は言うのです。“これで早く家に帰れる!”と」
「それは、早く帰ることに全力を注ぎすぎではなくて? 未来の投資とか、視野が狭――いえ、続けて」
リリーは少し笑みを浮かべて、物語を続けた。
「その後、馬は言うことを聞かず暴れ、彼は牛と交換します。牛は乳も出るし素晴らしい、と。けれど、牛は病気で、水も飲まず――仕方なく彼は、豚と交換します」
「ふむ。馬、牛、豚。これはもはや“経済破綻の歴史”の縮図のようですわね……」
「さらに、豚は盗まれたものだと疑われ、今度はガチョウと交換。最終的にはそのガチョウすらも砥石と交換してしまいます」
「石……! ついに何も生み出さない石になってしまいましたわ」
「ええ、最後にその砥石も井戸に落とし、何もかも失ったハンスはこう言いました。“ああ、今や何ひとつ重荷がない。こんなに幸せなことはない”」
リリーは胸に手を当て、静かに目を閉じた。
――まるで、何かを悟ったような、慈愛に満ちた表情。
「……まさに“空”の境地。ですが、姫様。これは決して愚かさの物語ではございません。彼は、常に“今この瞬間”を肯定して生きていたのです。損得ではなく、幸福の感覚で動く人間だったのです」
「……なるほど。ですがリリー、現実では“今を肯定”してばかりでは領地も国も立ち行かなくなりますわ」
エリザベスは紅茶を一口。優雅にカップを置き、細い指でリムをなぞるように撫でた。
「けれど……そう、“幸せのハンス”に似た誰かが、現実と向き合いながらも、あの精神を保てるなら――それは、とても強い人間かもしれませんわね」
「アルフレッド伯に、重なると思われますか?」
「ええ、愚かで、優しくて、強い。そんな矛盾のような男……放っておけませんわね」
窓の向こう、霧の晴れゆくライエンバッハの地を見つめながら、エリザベスはふっと微笑んだ。
それは、慈しみと好奇心の入り混じる、貴族の女狐のような笑みだった。
数日後、ライエンバッハ領に突如として舞い込んだ報せが、辺境の地を震わせた。
――バルトローズ王国が誇る“棘の姫君”、エリザベス・ローズがこの地に降り立つというのだ。
「……本当、なんですか?」
報せを聞いた瞬間、アルフレッド・フォン・ライエンバッハの顔から血の気が引いた。
農具の手入れをしていた手が止まり、工具が床にカツンと落ちる。
「エリザベス様が……ここに? なぜ、わざわざこの辺境に……」
使用人たちは右往左往し、城内では急遽掃除と整備が始まっていたが――
当の伯爵は、胸を押さえて崩れ落ちそうになっていた。
(まさか……王都に知られたのか? 僕の、無能さを)
ライエンバッハ領の財政は、正直に言えば、もはや綱渡りだった。
表面上は何とか維持しているように見えても、それはすべて彼が昼夜働き、貯蔵品を売り、時に自分の家宝を質に入れてまで支えてきた綱の上。
(見抜かれた……いや、見抜かれて当然か。高利貸しのことも、隣領主たちに騙されたことも。愚かだったのは僕だ)
かつて、王命を受けて地方を監察する存在がいるという噂を聞いたことがある。
その筆頭が、“棘の姫君”エリザベス・ローズ。
彼女は華やかな微笑みの裏で、王国に仇なす者や腐敗した貴族たちを冷ややかに排除してきたという――まさに王の刃。
(僕も……切られる、ということか)
領民を守るために、何でもする覚悟だった。
けれどその結果、かえって領地は傾き、人々に苦労を強いてしまったのかもしれない。
アルフレッドは、薄暗い執務室で静かに一人、決意を固めた。
「迎えよう。恥を晒すことになっても……王都の断罪を受けるとしても、せめて、正面から頭を下げよう」
彼の目には、もはや迷いはなかった。
自らの失敗の責任を取り、潔く身を差し出す覚悟。
――だが、その“棘の姫君”が、彼の持つ覚悟とはまるで別の評価を胸に、城へと足を踏み入れようとしていることを、アルフレッドはまだ知らなかった。
《エリザベス号》が城門前に降り立ったとき、ライエンバッハ城の空気はぴんと張りつめていた。
衛兵たちの姿勢は硬く、使用人たちは息を詰め、そして――
「……来たのか」
アルフレッド・フォン・ライエンバッハは、城の正門に立ち尽くしていた。
かつてないほど正装に身を包みながらも、その掌はじっとりと汗ばみ、喉が異様に乾いていた。
そして、タラップを下りてきた彼女を見た瞬間――世界が、ほんの一拍、静止した。
風が舞い、雲間から光が差し込む。
紅の髪に揺れる金の装飾が、陽にきらめいた。
その姿はまさに、女神――
(……なんて、美しい)
口に出すまでもなく、心の奥底から漏れ出た溜息。
だが次の瞬間、彼は自分を叱るように肩を震わせた。
(違う、見とれている場合じゃない。これは“裁き”だ。彼女は微笑みながら人を切る、“棘の姫君”。今こそ……男として、伯爵として、責任を果たさねば)
深く頭を下げ、声を張る。
「ようこそお越しくださいました、エリザベス・ローズ殿下!
……至らぬ点ばかりの領地ではございますが、精一杯おもてなしさせていただきます」
頭を上げると、そこにいたのは――
(……優しい、笑み?)
エリザベスはまるで、花が綻ぶように微笑んでいた。
その瞳に刺すような鋭さはなく、むしろ水面のように穏やかで澄んでいる。
「お招きいただき、ありがとう存じますわ、アルフレッド伯。まずは、この美しい城と、よく整えられた庭園に感服いたしました」
「え……は、はい」
拍子抜けして声が裏返りそうになったのを、かろうじて踏みとどまる。
「そして……何より、領民たちが、あなたのことを“我らの伯爵様”と親しげに呼んでいたこと。
――それが、何よりの証ですわね。あなたが、真に人を思う統治者であることの」
その言葉に、アルフレッドの胸が締めつけられた。
責められると思っていた。裁かれると思っていた。
だが与えられたのは、優しさと――尊重。
(……ああ、危うく……泣くところだった)
「もったいないお言葉です。……ですが、私は……決して、立派な領主などでは……」
「それは、これから私が判断いたしますわ。
どうか、あなたの“真実”を、私に見せてくださいませ」
その一言に、アルフレッドは――心の中に差していた曇天が、静かに晴れてゆくのを感じていた。
エリザベスを迎えたあと、アルフレッドは自ら彼女を応接間へと案内した。
豪奢な絨毯も、煌びやかな装飾もない。城にある多くの宝飾品は、すでに幾度もの借金返済のため手放していた。
だがその部屋は、どこまでも清潔で、手入れが行き届いていた。
磨かれた木の床は艶やかに光り、窓辺には季節の野花が小さな花瓶に飾られている。
「……お見苦しい点も多いかと存じますが、現在の領地の実情を考え、過度な贅沢は控えております。どうか……ご容赦ください」
アルフレッドは頭を下げ、しかしその姿勢には卑屈さではなく、どこか凛とした誠実さがあった。
エリザベスは、静かに室内を見回した。
王都の貴族たちが見栄を張って並べるような偽りの豪華さは、ここには一切ない。
だがこの空間には、確かに“生きた暮らし”と“主の心”が宿っていた。
「……いいお部屋ですわね」
「……は?」
「質素、というのは、時に“誠実”の裏返しです。
贅を尽くした部屋より、こうして丁寧に手入れされた空間の方が、ずっと心が落ち着きますわ」
アルフレッドは、目を見開いたまま、しばらく言葉を失った。
(――理解された。こんなにも、あっさりと)
自らの価値観が、王都から来た高貴な姫に、否定されるどころか肯定された――
その事実は、彼の胸に温かく染み入るものだった。
「……ありがとうございます。姫様のそのお言葉が、どれほど励みになるか……」
エリザベスは、ふっと微笑みを浮かべて椅子に腰を下ろす。
「では、アルフレッド伯。ここからは、あなたとこの領地が歩んできた物語を――紅茶でもいただきながら、ゆっくりお聞かせ願えますか?」
そうして、二人の静かな“本当の対話”が、始まった。
紅茶の香りが静かに漂う応接間。
柔らかな会話の後、ふとエリザベスの瞳が深く鋭くなった。
「……では、ここからは少々、耳が痛くなるお話をいたしましょうか」
アルフレッドは、背筋を伸ばし、目の前の姫君を見つめた。
その眼差しは、まるで薄氷を裂く風――噂に違わぬ“棘の姫君”のそれだった。
「あなたの努力、勤勉さ、そして領民を思う心。それらは確かに、本国の記録以上に立派なものでした。
ですが、残念ながらそれだけでは“国は守れません”。」
エリザベスは、傍らの資料を指でなぞる。
「歳入に対して歳出が追いつかず、領地の資金繰りは常に火の車。
重税を避けているのは美徳ですが、その結果あなたが個人で背負った負担は限界を超えています。
“なるべく領民に迷惑をかけまい”――ええ、気持ちは尊いわ。でもそれでは、共倒れです」
アルフレッドは言葉を詰まらせる。彼自身、痛いほどわかっていた事実を突きつけられたのだから。
「……それでも、自分が我慢すればと思って……」
「その我慢で、領地が潰れたら意味がありません」
一瞬、空気が鋭く凍った。
だがそれは、相手を切るための刃ではなかった。
覚醒を促す“導きの棘”――エリザベスの本質が、そこにあった。
「あなたは優しすぎるのです、アルフレッド伯。人を信じすぎて、疑うべき相手にすら心を開いてしまう。
それが、この借金の根源である“近隣貴族の罠”を招いた」
「……やはり、そうでしたか」
「ええ。いくつかの契約書、すでに写書記憶〈ブックリーダー〉にて確認しました。
土地の評価額を過小に見積もられ、不当な担保にされている。
それも複数箇所、悪意ある条項を巧妙に紛れ込ませて」
アルフレッドは、拳を握りしめた。
怒りではない。己の甘さへの悔しさが、胸を締めつけていた。
「……私は、何も見えていなかったのですね」
「ならば今、見るのです。あなたには見るべきものがある。守るべきものがある。
それができる才も、信も、すでに揃っている。
だから私は、あなたを“国家の資産”と判断いたします」
その言葉は、誉め言葉ではない。
覚悟を試す――“任命”のようなものだった。
「アルフレッド伯。ここからが、本当の戦いです。
あなた自身の意志で、この罠を断ち切り、領地を守る覚悟は――ありますか?」
静かな問いかけに、アルフレッドは一瞬目を閉じ、深く、深く頭を垂れた。
「……はい。どうか、導いてください。姫様」
エリザベスはふっと唇を弧にし、まるで薔薇の棘が花を包むような微笑みを浮かべた。