第二章・祈りと誇り、そして太陽と風
飛空艇《エリザベス号》は、秋風に乗って北へと向かっていた。
眼下に広がるのは、金色に染まった大地。
それはまるで、太陽の恵みをそのまま結晶化したかのような、豊穣の海だった。
だが――その美しさとは裏腹に、土地の奥底には解けぬままの火種が眠っていた。
禁じられた信仰。ジャブール教。
かつて独立国家だったトルビート地区では、今なお密かに信仰され続けているという。
統合から百年。
ローズ王国は“剣と鉄”で抑え込むことを選んできた。
だがその結果、人々の心には根深い不信と反発だけが残った。
「さて、面白いお話はありますかしら? リリー」
エリザベスはいつものように、窓辺のティーセットに手を伸ばす。
紅茶は芳しく、空は高く澄んでいた。
飛空艇《エリザベス号》の船室には、今日も紅茶の香りと穏やかな風が流れていた。
「では、姫様。今回は“異世界の寓話”を一つ。
その名も『北風と太陽』──強き者と優しき者、どちらが旅人の心を動かすかという物語でございます」
リリーがゆったりと語り始める。
「あるところに、旅人がおりました。彼は分厚いマントを身にまとい、風の強い山道を進んでおりました」
「ふふ、マント……旅人にしては重装備ですわね。でも、その土地ではそれが常識なのでしょう」
エリザベスはカップを揺らしながら、微笑む。
「そこへ、北風と太陽が現れます。どちらが旅人のマントを脱がせられるか、勝負をしたのです」
「……あら。暴力と誘惑の勝負、というわけですわね。興味深い構図ですわ」
リリーが静かに頷く。
「では、姫様。今日の物語は“北風と太陽”──」
そう前置きしたリリーが、スッと紅茶を置く。
その瞳が静かに光を帯びた瞬間――
彼女の声が、空気を変えた。
「まずは、北風!」
突然、リリーの声が低く唸るように響き渡った。
彼女の袖が風をはらんだように広がり、まるでそこに大嵐が巻き起こるかのような迫真の動き。
「旅人よ、貴様のマントを吹き飛ばしてやろうぞォォォォッ!!」
ドン、とテーブルの脚が軽く揺れる。
ティーカップがカチャリと鳴った。
「……ちょ、ちょっとリリー?それは演出として少々過剰ではなくて?」
エリザベスは苦笑しつつも、その目は楽しげだ。
だが、リリーは止まらない。
「吹けども吹けども、旅人は牙を食いしばり、マントをぎゅううっと巻きつけるぅ!
“ぐっ……寒い!風が強い!でもこのマントだけは離せぬ!”」
低音から高音まで、声を巧みに操るその技量はまるで舞台役者。
いや、もはや観客は一人なのに“劇団”の様相である。
「……だが! 旅人はマントを脱がない!」
リリーの声が鋭く響いた瞬間、空気がピリリと張り詰めた。
まるで演目の第二幕、転調の瞬間。エリザベスがカップを口に運ぼうとして、ふと動きを止める。
「強風吹き荒れる峠道──北風は吠える!『脱げええええッ!!』と!」
その迫力たるや、まるで舞台の主役が鬼気迫る声で叫ぶが如く。
「だが旅人はこう言うのですッ!!」
リリーは姿勢を低くし、まるで実際に背を丸める旅人のようにうめく。
『ひぃぃ〜!無理無理無理!マントは命!マントは私の心のバリアァァ!』」
「……いえ、それはさすがに守りすぎではなくて?どこの旅人ですの、それは?」
エリザベスはくすくすと笑いながらも、紅茶を飲み干すのを忘れていた。
しかし、リリーは止まらない。
「北風、苛立ち!怒り!狂気と化す!!」
ぐわっと腕を振り上げ、荒ぶる神のように叫ぶ。
「『このマントを引き剥がしてやる!』──その風、ついには木々をなぎ倒し、山肌を削り、山羊すら飛ぶ!」
「……山羊が!? そこまで風が強くてマントが取れないのなら、もうそれは呪いですわよ」
エリザベスが冷静に突っ込むが、その表情は楽しげだった。
「――が!マントはなお、脱げない! 北風、敗北を悟る!
そして……太陽が、微笑む」
今度のリリーは一転、優雅な口調と表情。ふわりと手を広げると、空に光が差すような所作。
「ぽかぽか、ぽかぽか……『おや、少し暑くなってきましたね?』と旅人。
額をぬぐい、マントの留め具に指をかける……そして!」
バッ!
リリーが実際に自分のスカーフを放り投げた。
「ぬ、脱いだあぁあああああッッ!!」
その一声が、船室にこだました。
エリザベスは、ティーカップをそっと置いた。そして静かに拍手を送る。
「リリー……今の演技、あなたの中で何かが覚醒したのではありませんこと?」
「……はい。旅人が脱がなかった瞬間、語り部としての意地に火がつきました」
リリーは真顔でそう言った。
エリザベスは少しだけ目を見開き、そして笑った。
「勝者は太陽。力ではなく、温もりが人を動かしたのです……」
静かに、彼女は深く一礼した。
一瞬の沈黙。
それを破ったのは、エリザベスの小さな拍手だった。
「……お見事ですわ、リリー。まるで宮廷劇でも観ているかのようでした。いえ、それ以上かもしれません」
彼女の紅茶は冷めかけていた。けれど心は、どこか温まっていた。
「強く吹けば吹くほど、人は守りを固める。でも、心を溶かす陽の光は……無理なく、自然に心をほどく。
ええ、まさに今の私たちに必要な示唆ですわ」
そして、窓の向こうにはトルビートの大地が広がり始めていた。
「私も、そろそろ“太陽”のような交渉を心がけてみましょうか。ふふふ、少し恥ずかしいですけれど」
リリーは微笑んで、深く一礼する。
「そのお姿こそが、民の心を照らす光にございます」
飛空艇の船体がゆるやかに傾き、着陸の準備が始まった。
エリザベスの目はまっすぐ前を見据えていた――まるで、次なる舞台を見据える役者のように。
トルビート、かつてジャブール王国と呼ばれた土地の中心。
石造りの古い大聖堂。その奥、かつての王座の間に、ジャブール教の最高位、枢機卿サレム・バルテウスが待ち構えていた。
「――ローズの使者が、我らの聖域に足を踏み入れるとはな」
枢機卿の声は静かだが、その語尾には棘があった。
彼の両脇には、黒い法衣に身を包んだ僧兵たちが整列している。
その眼差しは鋭く、冷たい。まるで刃のように、訪問者を試していた。
そして、その空間に一歩を踏み出したのは――
「……ごきげんよう、枢機卿。エリザベス・ローズ、参りました」
エリザベス・ローズ。
その身はあくまで優雅に、まるで舞踏会にでも向かうかのような所作。
青銀の刺繍がほどこされたドレスに、淡く光るブローチ。微笑みは気高く、凛とした気配が空気を変える。
サレムの眉がわずかに動く。敵意が一段階、鋭くなる。
「余裕だな。貴女の王国が我らの教えを“邪教”と罵ってきた歴史を忘れたとは思えんが」
「ええ、忘れてなどおりませんわ。だからこそ、来たのです」
エリザベスは一歩進む。背後のリリーも無音で従う。
僧兵の列をすり抜けるとき、そのうちの一人の青年が、ほんの一瞬、手に力を込めた。
――殺気。
まるで野犬のような、それは本能的な一撃の予兆だった。
が――次の瞬間。
「……やめておきなさい」
それは、風のない空間に落ちる氷の一滴のような声だった。
リリー。
彼女の紅い瞳が、わずかに動いた。
その瞳が僧兵の青年を射抜いた瞬間――
「っ……!」
青年の全身から血の気が引いた。
その場で膝をつきそうになるのを、歯を食いしばってこらえる。
「おぉ……今の、なんですか?」
枢機卿の近くにいた神官が小さく呟くが、誰も答えなかった。
エリザベスは、紅茶でも飲んでいるかのように悠然と微笑む。
「ご安心ください。私は争いを望んでおりません。
本日はただ、未来のことを話し合いたくてまいりましたの」
彼女の瞳が、まっすぐにサレムを見据える。
その笑顔は氷のように冷たく、しかし確かな信念の灯を宿していた。
枢機卿は、わずかに視線を細めた。
「……ほう。では聞こう。ローズの棘は、どれほど“甘い蜜”を隠しているのか……その舌で示してみせよ、姫君」
トルビートの中心、大聖堂の玉座の間。
重苦しい空気の中で始まった交渉は、冷ややかな探り合いのまま、数時間が過ぎていた。
「……なるほど。ローズ王国は我らを“文化”と見なして、生かすつもりだと」
エリザベスの言葉に、枢機卿サレムが低く笑った。
「貴女のような若輩が、いくら弁が立とうと、我らの誇りは買えぬ。祈りとは、そんな軽いものではない」
僧兵たちの眼差しが、再び鋭くなる。
リリーの気配が静かに高まったが、エリザベスは微笑を崩さず、静かに一歩踏み出した。
「――枢機卿。ジャブール教の祈祷詩に、こんな一節がありましたわ」
彼女は、澄んだ声で語り始めた。
『暗き冬、刃を捨て 肩寄せし者よ
炎なき炉辺にて 光を乞うた日
我らはただ、天に在すものを――名を越えて、信じた』
その瞬間、大聖堂の空気が変わった。
一人の老いた神官が、目を見開く。
「……それは……私の、祖母が口ずさんでいた……」
サレムの眉が僅かに動く。
エリザベスは、静かに続ける。
「百年前、ここが飢饉に見舞われた冬。食料も薪も尽きた村で、誰かがその祈りを記録に残しました。
民は天の名を問わず、ただ“誰か”にすがった。
その姿は、私には……とても、強く、美しく思えましたの」
エリザベスの瞳が、まっすぐサレムを見つめる。
「だから私は、戦うのではなく、あなた方の“祈る姿”を、未来に残したい。
ローズの民として。誇りをもって、生きていただきたいのです」
ざわめく神官たち。嗚咽を漏らす信徒のひとり。
サレムは目を伏せ、重々しく口を開いた。
「……ローズの者に、かような言葉を投げかけられようとは。
我らの神は、試練を与える者だ……ならば今、我が身をもって答えよう」
静かに立ち上がる枢機卿。その背筋は、かつての王のように威厳に満ちていた。
「――よかろう。ローズの太陽よ。
我らは、その光に焼かれてみせよう。だが、それで萎むことはない。
焼かれ、鍛えられ、いつかこの国に“根”を張る。そんな未来が、あってもよい」
跪いた彼の背に、エリザベスは近づき、そっと手を差し出した。
「共に、咲きましょう。祈りと誇りの花を」
――トルビート、大聖堂交渉。
それは、刃ではなく言葉で血を流さず終わった、百年ぶりの和解だった。
数日後、トルビートの街では、“秋の祈り祭”が開催された。
ジャブールの祈りは、今や「地域の誇りある文化」として、民に息づいている。
風の強いこの地に、黄金の実りと、静かな灯が、確かに残されたのだった。
トルビートの大地に、秋の実りがまばゆく広がる。
風は少し冷たいが、それすらも豊穣の気配を孕んでいるようだった。
街の広場では、かつて禁じられていた祈りの詩が、今は子どもたちの合唱として高らかに響いている。
黄金の果実が並ぶ市、民族衣装を纏った踊り子たち、祈りを込めた手作りの菓子。
その中心で、ひときわ人々の歓声が集まる一角があった。
「姫様だ!」「あれがローズの太陽…!」
民の間を、たおやかに微笑んで馬車に乗る一人の令嬢。
紅と金の装束に、薔薇を思わせる繊細な意匠。
――エリザベス・ローズ。
“棘の姫君”と恐れられたその姿に、今や民衆はまるで太陽の女神を見るように祈りの手を向けていた。
「……まるで、伝承に出てくる聖女みたいだ……」
誰かが呟いた言葉が、静かに街の空気を変えていく。
――だがそのとき。
裏路地に潜む、武装した数人の男たち。
「やはり…この流れはまずい。
ローズのやり方に染められれば、我らが百年守ってきた“信仰の誇り”は潰える。
今、止めねばならん」
彼らは元ジャブールの僧兵――改革に反対する“最後の強硬派”。
手にした短剣には毒。
狙うはただ一つ、民の中にあるあの紅い花。
だがその瞬間。
風が舞った。
何が起きたのか。誰も理解できなかった。
気づけば、路地には倒れ伏す男たちの影。
呻く声すら許されず、呻こうとした口には白布が巻かれている。
その中央に、立つ一人の女。
黒衣。
銀糸の刺繍。
背筋を凛と伸ばし、殺気を一滴も漏らさず、ただそこに“在る”。
「……御役御免。これにて幕引きといたしましょうか」
リリー・ナイツフォール。
エリザベスの侍女にして、ミミローズ家が裏で放つ最強の影。
すでに気配で察知していた。
民を笑顔で振り向かせるエリザベスの背を守るために、誰にも気づかせず、誰一人近づけさせなかった。
敵はただ、理解した。
“太陽”には、“風”が仕えている”と。
――そして、祝祭の喧騒のなか、何事もなかったように、
リリーは静かに服の乱れを整え、エリザベスのそばへ戻るのだった。
「おかえりなさい、リリー。お茶、淹れなおしてくださる?」
「はい、姫様。少々、風が吹いたものですから」
紅茶の香りがふわりと漂う。
その瞬間、広場にいた子どもたちが声を上げた。
「姫様!太陽の姫様ー!」
その声に、エリザベスはにこやかに手を振る。
だが――彼女の後ろに立つ影。
“一辻の風”リリーは、誰よりも静かに、そして確かに、民の平和を見つめていた。