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第一章・桃と智謀と外交の果実

 ここは異世界、バルトローズ王国。


 澄みきった海と豊かな港を抱く、美しき王国──それがバルトローズ。

 その王家の血を遠くに引く名門、ミミローズ公爵家。そこに生まれた一輪の華こそ、エリザベス・アウローラ・ミミローズ、通称エリザベス・ローズである。

 彼女は18歳という若さにして、外交の最前線に立つ才媛。

 麗しき赤糸の髪と冷ややかに輝く瞳を持つその姿は、まさに“氷の薔薇”。

 その容姿端麗、頭脳明晰な才色兼備ぶりと、時に冷酷とも評される判断力から、彼女にはある異名がつけられていた。


 ──『棘の姫君:プリンセス・ソーン』


 けれど、そんな彼女にも、ひとときだけ少女に戻る時間がある。

 それが、静かに淹れた紅茶を嗜むティータイムのひととき。


 今、エリザベスは自身の名を冠した飛空艇《エリザベス号》に乗り、隣国ニーオ王国との交渉のため、空を翔けていた。

 雲の海を裂いて進むその優雅な艦内でも、彼女の手にはいつもの紅茶と、僅かな微笑みが浮かんでいた──。



 エリザベスには、もうひとつ──密かな楽しみがある。


 それは、侍女リリーが語る“異世界の物語”を聞くこと。

 優雅なティータイムの傍らで、凛とした声が紡ぎ出す奇想天外な冒険譚や、異世界の風変わりな文化、常識外れの魔法や機械たち……そのすべてが、彼女の心を静かにときめかせるのだ。


 リリーはただの侍女ではない。エリザベスの護衛も兼ねる、影のようにして仕える凄腕のアサシン。

 そしてさらに、彼女にはひとつの特異な力があった。


 ──“異世界の書に記された知識”を読み取り、まるで自身の記憶のように語ることができる、希少なる異能力。


 それゆえ、彼女の語る物語はどれも生きた言葉で彩られており、まるで実際にその世界を旅してきた者のような臨場感を持っていた。

 エリザベスはそれを、ひとつの宝物のように大切にしていた。


 気高く、冷徹とすら称される“棘の姫君”が唯一見せる、少女らしい横顔。

 それは、誰よりも静かな物語を愛する彼女だけの秘密だった──。



「さて──ニーオに赴く前に、ひとつ異世界の面白い物語を聞かせていただけるかしら?」


 エリザベスはそう言うと、完璧な淹れ加減で香り立つ紅茶の湯気にそっと目を細めた。

 その優雅な所作の裏には、知的好奇心に火がついた“棘の姫君”の、ほんの少し素顔が覗いていた。


「お任せください、姫様。では、こんなお話はいかがでしょう──

 異世界の物語にて、“モモタロウ”と呼ばれる英雄譚がございます」


「まあ、英雄譚? 興味深いですわね。子ども向けであっても、学ぶべきものは多いもの。特に……外交の前には」


「ええ。実は今回の遠征──ニーオ王国との交渉において、示唆となる点もあるかと。そう思い、選ばせていただきました」


「ふふ、あなたの選書に期待していますわ。お願いするわ、リリー」


 そう言って、エリザベスは紅茶をひとくち、上品に口に運んだ。

 静寂の中、物語の幕がゆっくりと上がっていく──



「──これは、遥かなる異世界に語り継がれる、勇者“モモタロウ”の物語でございます」


 リリーがそう語り始めたとき、エリザベスは紅茶を手に取り、薄く微笑んだ。


「その地には、川辺の村に暮らす老夫婦がございまして……

 ある日、老女が川で洗濯をしておりました折、上流より巨大な桃がどんぶらこっこ、らっこっこと流れて参ります」


「……桃が、川から?そのどんぶらなんたらとは一体どのような流れ方なのかしら……?」


 エリザベスが眉をひそめる。


「ええ、まるで運命に導かれるように。それは見事なまでに瑞々しく、輝きを放つ大きな桃でございました」


「そもそも、どういう流通経路ですの? その桃……。地形を知りたくなりますわ」


「姫様、それは言わぬが華というものでございます」


「ふふっ、ならば目を瞑りましょう。で、老女が桃を拾い上げて……?」


「はい。家に持ち帰り、老爺と共に割ろうとした瞬間──中からひとりの男児が現れます」


「……ええと、物理的にですか?」


「物語上は、その通りでございます」


「ずいぶん剛健な誕生ですわね……なるほど、“桃”とは神からの恵みを揶揄表現なのでしょうね。その子がモモタロウ?」


「はい。“神からの授かりもの”として育てられた彼は、たちまち健やかに成長し、ある日、鬼たちが人々を苦しめていると聞くや──」


「ええ、まさかとは思いますが、彼、単独で向かうつもりでは?」


「……まさかではなく、まさにその通りでございます。勇気ある少年は、己の力で鬼ヶ島へ向かうことを決意します」


「ええ……一国の軍でも尻込みしそうな任務ですのに、単独とは。見上げた胆力ね……無謀にもほどがありますけれど」


「そこが英雄たる所以にございます」


「では装備は? 軍資金は? 援軍は? 何もないのなら、せめて戦略くらい立ててから──」


「その代わり、彼は“きびだんご”という菓子を持って参ります。そして、道中で出会う犬・猿・雉を従者とするのです」


「……菓子で忠誠を買うスタイル?」


「“美味しきもの”は時に言葉以上に力を持つ、とのことで」


「侮れませんわね……特に空腹時には。にしても、犬・猿・雉……なぜその三種族なのかしら。知略なの? 偶然なの?」


「詳細は語られておりませぬが、それぞれに特技あり。犬は力、猿は器用さ、雉は空を翔ける目となります」


「ふむ……確かに、編成としては理に適ってはいる。けれど……いまだ戦術的な裏付けは感じられませんわ」


「姫様、それでも彼は鬼退治に向かいます。忠義の三獣を従え、桃から生まれし少年は、いざ鬼ヶ島へと旅立ったのです──」


 エリザベスは紅茶を一口。

 湯気の向こうに広がる“異世界”の物語に、知らず口元をほころばせていた。


「……まったく、理屈では説明できない。でも、どうしようもなく心が躍るわね、こういうのって」


「物語とは、理ではなく“情”で読むもの──でございます」


 エリザベスは目を細めた。

 飛空艇は、静かに雲を切り裂きながら、ニーオ王国へ向かい続けていた。


「──そして、ついに彼らは鬼ヶ島に到着いたしました」


「ちょっと待って、リリー。あまりに到着が早すぎませんこと? 物語というもの、道中こそ醍醐味なのでは?」


 紅茶のカップを置きながら、エリザベスは冷静に指摘した。


「その点につきましては……異世界の物語における“都合”というものがございまして」


「便利な言葉ですわね、“都合”。まあいいわ、続きを聞かせて」


「かしこまりました──」


 リリーの声色が一段低くなる。空気が張り詰めた。

 そこから彼女の語りは一変し、まるで舞台劇のような迫力をもって展開していく。


「鬼たちは山のような体躯に、爛々と輝く目。その牙は鋼鉄をも噛み砕き、棍棒は地を割る。まさに地獄の使者──!」


「おぉ……」


 エリザベスが、無意識に紅茶のカップを持つ手を止めた。


「一行は恐れず立ち向かう! 犬が飛びかかり、猿が背からよじ登り、雉が目を射貫く! きびだんごの絆が、今ここに試される──!」


「リリー、声が……劇場ですわね。まるで観客席で聞いてるみたい」


「続きます!」


「ええ、お願い」


 リリーは身振りすら加える勢いで語る。


「激闘の末、ついにモモタロウが叫ぶ──『おのれ、鬼ども! 覚悟!』と。そして渾身の一撃で……鬼の頭目を叩き伏せました!」


「……え、今ので終わり?」


「ええ。鬼たちはすべて白旗を上げ、宝物を差し出し、降伏いたしました」


「……急展開すぎて紅茶が喉を通りませんわ」


 エリザベスは、固まったままゆっくり紅茶を口に運んだが、どこか拍子抜けした顔をしていた。


「せっかく高まった緊張感が……。でも、それが異世界の物語の醍醐味ですのね。想定外、という名の展開力」


「はい。異世界の物語には、“結論に向かう加速”という独特のリズムがございます」


「まったく……でも面白かったわ。あの鬼のくだり、明日の交渉の緊張をほぐすには最適ね」


「それは光栄にございます、姫様」


 エリザベスは肩の力を抜き、ほっと息を吐いた。

 飛空艇はまもなくニーオ王国の空域へと差しかかる。


 物語の終わりは、現実の幕開けを告げる合図でもあった──。



「……きびだんご、ね」


 モモタロウの物語が終わった後も、エリザベスは静かに紅茶のカップを揺らしていた。紅茶の波紋が、彼女の中に浮かび上がった新たな“戦略”を象徴するかのように。


「姫様……何かお考えに?」


 リリーがそっと問いかけると、エリザベスは目を伏せて微笑んだ。


「ええ。今の物語──滑稽であっても、実に示唆に富んでいたわ。力ではなく、心を掴んだ者こそが真に人を動かせる。まるで外交そのものね」


「……まさか、“きびだんご戦術”を?」


「ふふ、いい名前ね。それ、いただくわ」


 エリザベスは席を立ち、窓の外、遠くに見え始めたニーオ王国の空を見つめた。


「ニーオの周辺には、三つの独立勢力がある。獣人たちの自治国、世界樹の下に生きるハーピーの天空国家、そして荒野の戦鬼ベルセルクたちの部族連合」


「いずれも、ニーオとは一線を画している勢力。手を出せば、下手をすれば火種に……」


「でも、共通点がある。彼らは常に“食糧”に困っているのよ。長年ニーオに食糧という弱みを握られ辛酸を舐めてきた国たち。そして、私たちバルトローズは港を持ち、物流において優位にある」


「まさか、彼らに――」


「ええ。きびだんご、ではなく“食糧支援”を条件に友好を築くの。

 その信頼と協定があれば、今、独占的にニーオが握っている交易権を揺さぶることができるわ。支援したところで、こちらの懐としては軍事増強費と考えるととても経済的。それに選択肢が増える交渉に、こちらが不利になることはない」


 エリザベスは、ティーテーブルの上に置かれた銀のスプーンをひとつ指先で弾いた。小さく澄んだ音が響く。


「犬、猿、雉。……モモタロウの役割を、私たちが果たしてもいいのかもしれないわね。共に鬼ヶ島へ渡る“仲間”として」


 リリーは恭しく頭を下げた。


「さすが、姫様。異世界の物語をここまで昇華されるとは」


「異世界も、この世界も、心を動かすのは同じ。利害だけではないわ。尊厳、信頼、そして……ほんの少しの面白さ」


 エリザベスは、カップの最後の一滴を静かに飲み干した。


「さあ、ニーオ王国に参りましょう。ティータイムは、ここまでよ」


 飛空艇《エリザベス号》は、雲を切り裂きながら、次なる交渉の舞台へと降下していく。


 ──外交という名の戦いが、今、幕を開ける。



 数日後──バルトローズ王都・政庁内


 重厚な石造りの政庁。その会議室に響くのは、ざわめきと驚愕の声だった。


「……なんと、交渉があのニーオとの間で、ここまで有利にまとまったと?」


 執政官の一人が書簡を読みながら、目を見開いた。


「まさか、獣人たちとの連携を交渉のカードに使うとは……しかも、世界樹の国とまで接触を?」


「短期間で三国と通じるなど、常人のなせる業ではない」


「うむむ……姫様は“棘の姫君”などと呼ばれていたが……これはもはや、“外交の女帝”とでも……」


 官僚たちは呆然とした面持ちで書類を手にしていた。


 その陰で、ひときわ険しい表情を浮かべる人物がいた。


 バルトローズ王家と遠縁にあたる名門、三大公爵家の一つ、ヴァルクライン公爵家の若き当主・グラシアス。


 エリザベスに政敵心を抱いていた彼は、今回のニーオ交渉に密かに“罠”を仕込んでいた張本人だった。


「……ふん、たかが十八の小娘。いずれ口車に乗り、ニーオの毒饅頭を食らうと思っていたのだが……」


 グラシアスは歯噛みした。


 彼の手の者が流した情報──

「獣人は人間との交渉に応じない」「ハーピーたちは高慢」「ベルセルクは理屈が通じぬ」

 そのような状況をニーオを使って影で長年工作してきたのが、まさしくヴァルクライン公爵家だった。


 ミミローズ公爵家は四面楚歌の状況であったはずなのに、すべて、エリザベスの前には無意味だった。


 むしろ彼女は、それらの国の“困窮”を察し、物資・物流・港湾特権というカードで信頼を勝ち取った。

 しかも、彼らを「交易による緩衝国」として配置し、ニーオに対して睨みを利かせる構図まで作り上げたというのだ。


「むむ……プリンセス・ソーン……甘く見すぎていたか……」


 憎悪とも羨望ともつかぬ感情が、ニーオという一つのカードを失ったグラシアスの胸中を渦巻いた。



 一方その頃──飛空艇《エリザベス号》帰還途中


 窓の外に王都の塔が見え始めた頃、エリザベスは窓際に立っていた。


「思ったより早く片づきましたわね」


「はい。やはり、“きびだんご戦術”は有効でした」


 リリーはにこりと笑った。


「……しかし、裏で情報を操作しようとしていた者がいたわ。交渉中、妙な嘘情報が先に伝わっていた節がある」


「……嗅ぎつけていたのですね」


「当然よ。敵の手の内を知っている交渉ほど、楽なものはないわ」


 そう言って、エリザベスは紅茶のカップを口にした。


「私は“棘の姫君”。触れれば痛い、でも──正しく使えば、護ることもできるのですわ」

 飛空艇は王都の空港へと降下し始める。

 その背には、バルトローズを揺るがす新たな政治の風が──確かに、吹き始めていた。

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