第三章
「遅れてしまいすみません……もう皆さん揃っていますかね」
そこに現れたのは、噂から想像していた通りの山本准教授……ではなく。綺麗系というよりかは可愛い系で。笑顔が眩しく、口調からその優しさがにじみ出ている。そう言われないと、まさか大学教員だとは認識できないほど若々しい女性がそこにはいた。
「はい、ドラマティックな物理の道を選択してくれた皆さん。山本研究室へようこそ! 私は皆さんの指導教員を務めさせていただく、准教授の山本香織と申します。今年一年だけの方もいらっしゃると思いますが、どうぞよろしくお願いします」
そう丁寧に話すと、山本は深々とお辞儀をした。大きく予想を裏切られたことに皆が呆然とする中、藤堂がその沈黙を破った。
「山本先生……すごくお綺麗なんですね!! 全然教員の方に見えない……大学生、高校生にも……」
少し失礼の域に入ってしまったと気づいたのか、慌てて口を紡ぐ藤堂。
「ありがとうございます。学生さんにそんなことを言っていただけると嬉しいですね」
想像の何倍も若々しく、それでいて落ち着いていて、なにより噂の“物理狂人”なんかには決して見えない。
山本は皆のテーブルに近づくと、いわゆる誕生日席についた。皆と肩を並んで座る様子を見て実感したが、やはり頭がまだ山本先生を教員だと認識していない。
「それでは今日は初めての集まりなので、楽しくいきましょう! まずは顔と名前を一致させるのも兼ねて、皆さんに自己紹介からしていただきましょうか」
恐らく名簿がクリップされているボードに目を落とした後、山本は石井の方に軽く視線を合わせた。
「えーとそれじゃあ、君から時計回りでお願いできますか?」
「あっ、はい! えーと、3年の石井彰です。趣味はスノボで、今年も先々月滑ってきました。好きな食べ物は焼肉です。よろしくお願いします」
「同じく3年の藤堂梨絵です。趣味はショッピングで、好きな食べ物は……パンケーキです。仲良くしてもらえると嬉しいです! よろしくお願いします!」
「3年の小野遥です。趣味はジブリ映画を見ることで、好きな食べ物はプリンです。よろしくお願いします」
プッ〇ンプリンなのか、高価そうなプリンなのかでまた色々と雰囲気違うなと想像しながら、もう自分の番が回ってくることを思い出した。趣味は読書で切り抜けるつもりだが、こういう時に石井のようにうまいこと提示できるのは正直うらやましい。自分に大した趣味などないということをこういう時にふと意識してしまうのが、思いのほか辛かったりする。そうは言っても今は答えるだけだと、話始めた……が。
「3年の西尾拓海です。趣味はSF小説を読んだりすることで、好きな食べ物……」
「……ガチャッッ」
勢いよく目の前のドアが開いて、荒い呼吸音が聞こえてきた。
「すみません……委員会が……あって……少し遅れてしまいま…………げっ」
遅れてきた学生、吉田が俺の顔をとらえた瞬間、さも苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、完全に動作をストップしてしまった。
「ラーメンが好きです……よろしくお願いします」
そう言って、取り残された俺も席に着く。
「あれ、言ってなかったっけ……?」と言わんばかりの藤堂が、少しにやりとした表情で吉田のほうを向く。その表情からは「どっきり大成功!てへ」と子供らしい雰囲気がにじみ出ていた。
なんとなく状況を理解した吉田は、席が空いている俺の方の側に来ると、俺と一つ席を空けて座ろうとした。が、そこで初めて教員の存在を認識したのだろう。恐らく瞬時に繰り広げられた葛藤の末、不自然ではあったが吉田は俺の隣の席に座りなおした。
「なんであんたがいんのよ?」
「別にいいだろ。石井もみんないるんだし」
「別に嫌ってわけじゃないけど……」
声にならない声でやり取りを交わす。
「えーっと……吉田萌香さんですかね。大丈夫ですよ。ちょうど今そこにいる彼の自己紹介が終わったので、早速ですが吉田さん、お願いできますか?」
吉田は「はい」ときっぱり立ち上がる。立ちあがり方ひとつで彼女が真面目であることがよく伝わってくる。
「吉田萌香です。物理学科3年です。あ、好きな食べ物は…………うどんです。あと、昔からピアノをやっていたので、多少弾けます。よろしくお願いします」
少しだけぎこちない自己紹介で恥ずかしくなったのか、下を向いてストンと座ってしまった。
「はい、それでは皆さん自己紹介ありがとうございました! 皆さんそれぞれの趣味も知ることができて、とても楽しかったです。あ、そういえば吉田さんにはご紹介ができていませんでしたね。指導教官を務めさせていただきます、准教授の山本香織と申します。何か困ったことがあれば気軽に相談してください。よろしくお願いします」
ここにきて吉田も山本先生の“やばさ”に気づいたらしく、ポカンとした顔をしていた。ついさっきまで皆がしていた表情と全く同じだ。
「今後の話なのですが、ひとまず期末試験が終わるまでは本格的に活動することは考えていません。そして、それまでは試験対策用の演習だったりを用意しますので、ぜひ取り組んでみてください。何か質問があればいつでも受け付けます!」
山本は立ち上がると、ちらっと壁にかかった時計に目を配った。
「それではプリントを持ってきますので、ちょっと待っていてください」
自然と皆の顔がテーブル中央に寄っていた。とにかく話がしたいと、石井は身を乗り出す。
「めっちゃ当たりじゃね?」
「超良い人だよね山本さん! この時期に試験対策は本当にありがたいし!」
「しかも西尾、めちゃくちゃ可愛くない?」
石井、その言葉は少しまずいかもしれない。恐る恐る横を見てみると、想像通りの景色が広がっていた。
「も、もしかしたら、そうなのかもしれないな」
「だよな! 噂とは違って普通に優しい人っぽいし。あれで准教授って……」
「もえもえ~ちょっと危ないんじゃない~?」
「何が?」
「いや~別に~」
こうして先生との初対面は、想定外に明るい雰囲気で経過していった。
「うーん、やっぱり……かなり、かなりまずいな」
奥の準備室から電磁気学と統計力学の演習を運んでくると、山本は奥の研究机に腰を下ろした。相談しあって考えても良いとのことだったので、演習に皆で取り組み始めたわけだが……
「やばいよ……途中からまず何聞かれているのか全然わかんない!」
「おーけー、オジが授業で言ってたナンタラ分布ってのはとりあえず……でもこんな条件どうやって扱うんだよぉ」
最初の方の基礎的な計算問題は皆何とかできている。しかし、よくわからない文字と数式の羅列の末、「……示せ.」と突き放されても非常に困るのである。
「なあ、吉田?」
「…………なによ」
「この4番以降の問題も大体わかってるのか?」
「あったり前でしょ。全部授業でやった話をちょっとひねっているだけじゃない」
さも「解けて当然でしょ?」と言わんばかりに答える吉田。確かに用語がわからないとか、問題の意味がわからないとかそこまで深刻なわけではないものの、なんとなく方針が立たない。
「んー……」
大きく伸びをして、そのまま石井にアイコンタクトをとる。石井はちょっぴり微笑むと、首を横に振った。やはり吉田以外、皆苦戦中とのこと。
「うーん、ノート確認すっかぁ……あれ、藤堂ここんとこのデータで持ってたっけ?」
「あーもち。ばっちし」
にやりと笑うと、藤堂はそばに置いていたカバンからタブレットを取り出して確認し始めた。
「このテーマだから……あ、ここらへんか」
電子端末というだけでノートであることには変わりないはずだが、章立てがうまくできているからか、タイトルをタップするだけで見たいページのトップに移動した。なんとも便利そうなシステムだけれど、使いこなすってのもかなり難しいんだろう。
もう少し、条件整理を根気良くしてみるか……
「ねえねえ、西尾くん」
急に小声で語りかけられ、ぴくっと反応してしまった。小野は小声で続ける。
「どうした?」
「先生になにか質問しにいってみたら?」
「いいけど、どうして?」
そういえば、「質問大募集!」みたいなことをさっき言っていた気はするが。
「ほら、見てみてよ。先生書類書いてるっぽいけど、なんかちらちらこっち見てくるよ」
「え……?」
そういわれて振り向くと、確かに作業をしながらチラッ、チラッとこちらを覗いてくるのが見える。一見集中して作業に取り組んでいるように見えるが、よくよく観察してみると餌待ちの子犬のような落ち着きのなさだ。向き直って、小野の目に視線を合わせる。
「だよね……? なんか、そうだよね?」
「そう、っぽいかも……しれないな」
問題を前に立ち止まる戦士と、その解法を知る大賢者。相性は抜群だろう。よし、それじゃあどの部分で詰まっているのか確定させるか。そういう風に考えてみると、止まっていた脳が動き方を理解して、案外ペンが進んだりもするのだ。
石井たちの議論も割と進んでいたらしい。
「え、だからこの部分がイミフなんじゃない?」
「だよな。このグランドポテンシャルの部分までは何とか出せてるわ。ここからどうやって持っていくか……」
石井が先生の方を確認してから、再度藤堂に向き直る。
「そうだね、聞いてみよっか」
すると、石井はおもむろに立ち上がって、先生のいる机に向かう。
「あっすみませ……」
「お! 質問ですか! いいですね~感心です! えーと、どの辺かな?」
「この(3)のところなんですけど……」
そうして、石井が疑問点を補足しようとしたが、もはや彼にはそうする余裕など残されていなかった。
「おぉ、グランドカノニカル分布のところですね! 良いですね~! 問としては粒子数の期待値のお話をされていますかね。この分布で言えばあまり詳しく触れられなかったりもするのですが、カノニカル分布と同値な結果を示すんですよね。例えば、特定の物理系におけるエントロピーが………」
「…………!?」
遠目から見守っていた俺は、その衝撃で開いた口がふさがらなかった。ついさっきまで、愛らしく、若々しく、それでいてすごく落ち着いていて、まるで完璧超人かのようにみえていた先生が……なんか急にすごい勢いで話し始めた。先生を除いて、その場にいる全員があっけにとられていた。
山本は、いつの間にか立ち上がって黒板にもいろいろと書き始めた。内容を見る限り、明らかに話は脱線しているし、もちろん石井などではついていけるはずもなく、ただ定期的にうなずく機械と化していた。
「……大分配関数に注目しながら、グランドポテンシャルまでは出ているんですよね。あとは粒子数の期待値の式を立ててあげて……こんな感じで根気よく微分していけばエネルギーも得られますね! さっきお話しした新しい定義と、この関係も……」
「なるほど、なるほど! そうやって順序だててやるんでですね! ありがとうございました!」
恐らく何一つ吸収できなかった石井も、15分ぐらい続いていたの(一方的な)アカデミックディスカッションを終了することに成功したようである。
「……大丈夫そうですかね? 理解できたのなら良かったです! この辺りは本当に面白いと思うのですが、かなり複雑なところがあるのでまた何か詰まってしまったら!」
山本はその笑顔をより輝かせると、テーブルの方を向いて続けた。
「皆さんも、何かちょっとでもわからないところがあれば、いつでも来てくださいね!」
「あ、ありがとうございます……」
満足げな表情で机に戻る山本。少しの間動けずにいた石井の顔は、今まで見た彼のどんな表情よりも滑稽だった。
藤堂、小野と顔を見合わせる。“物理狂人”と呼ばれる彼女の内側を覗いて、何か見てはいけないものを見てしまったような気分だ。それと同時に、落ち着いているようにしながらも、無邪気に好きなものに没頭する。そんな山本先生を意識してしまったのもまた事実である。
でもひとまず俺は、質問しようとまとめていた計画を白紙に戻して次の問題に足を進めた。