第二章
「ふーおなかすいたぁ……萌香は何にするの?」
「んー私はやっぱりラーメンで、今日は……豚骨かな」
「好きだねぇ、たまには違うのにしてみたら?」
「そういう梨絵は何にするのよ」
「私は日替わり定食だから!」
「それなんかずるくない……?」
筋は通っていないが、なんだか理解できてしまう主張である。毎日違うものを食べていると主張しながら頭では何も考えておらず、まさに思考停止の選択だ。
「うーん、俺はこの“ヴィーガン=ミートソーススパゲッティ”ってのにしてみようかな!」
「なかなかにチャレンジングだねぇ~」
「なあ、拓海もヴィーガンシリーズ挑戦してみないか? この“ヴィーガン=豚カツ”とか」
「それってもはやミートソースでも豚カツでもないんじゃ……まあ俺はラーメンでいいよ」
「へぇ……それじゃあ私席とっとくね。注文お願い!」
「ほーい」
帝政の学生食堂はとにかくメニューの多さが特徴だ。よくわからないヴィーガンシリーズを筆頭にして、多くのよくわからないメニューが導入されている。そんなことをする予算があるなら物理科前の和式トイレを何とかしてほしい。
「あ、やばい忘れてた。今日昼、私委員会じゃん」
「そっか……じゃあ飯は厳しそうだな」
吉田は学祭なんかの委員会にも所属しているタイプの奴だ。給料もないのに、どこから活動のモチベーションが出てくるのかは大きな謎である。
「うん、ちょっと食べといて。戻れなかったらまた帰るとき合流しよ。梨絵にも伝えてくる」
「了解。じゃあ、また」
「……」
都合よく一人の声だけシャットダウンできる小型イヤホンがあるなら、ぜひ見てみたいものだ。最近のノイズキャンセリング機能はすごいらしいから、本当にあるのかもしれないけど。
「俺なんかレポートと試験勉強だけで手いっぱいなのにすごいよなぁ」
「本当。俺には絶対無理」
「そういうところがまじめで良いよな」
そういうものだろうか。個人的にはもう少しのんびりしている子の方が魅力的に感じる。
「まあ、そうなのかもね」
「お! ついに拓海も……」
「早く買わないと時間なくなるぞ」
石井曰く、“ヴィーガン=ミートソーススパゲティ”はなかなかにいけるらしい。正直それは想定の範囲内だが、豚カツはかなり怪しそうな雰囲気がする。吉田は戻れそうにないとのことだったので、ランチ休憩を切り上げて石井と藤堂とともに研究室に向かう。
物理学科の研究室は、理工学部棟の教室の中でもかなり奥のほうに隔離されている。その中でも所属する物理学第七研究室は最上階にある教室で、これはある意味外れだなと、そんなことを考えながら階段を上る。
「山本研。どんな感じなのかな……やっぱりやばい感じなのかな」
藤堂が期待半分、不安半分というトーンで尋ねる。
「正直、楽しみだけどちょっと怖くね?」
「わかる。とにかく普通の優しい先生であってほしい!」
しばらくすると、“物理学第七研究室”と書かれた札と、重苦しい扉が目の前に現れた。
「じゃあ、開けるぞ……」
「うん……」
さっきまで何とも思っていなかったが、こうも直前になると少し緊張してくる。3人の鼓動が高まる音が聞こえる。石井の手の隙間から覗くドアノブは、きらりと輝いていた。
「失礼、しまぁ……す」
中を覗きこむと真っ先に、鎮座する物理実験器具の空気感に圧倒されてしまった。
「おぉ……なんともって感じだね」
部屋を照らすのは、寒色系の弱いライトと窓から差し込む日光のみだ。お世辞にも開放的とは言い難い。
「ん? でもまだ先生は……」
「山本先生はまだいらっしゃってないよ」
「……!?」
みんなで一斉に声が下方向へ振り向く。部屋の設備に気を取られて全く存在を認識できずにいた。それとも気配が完全に消えていたのか。声の主は目の前のテーブルの端に座っていた。
「あ、急にごめんね。私も今日が初めてなんだ……小野です。よろしくね」
「う、うん。よろしく、西尾です。で、こっちが石井で、そっちが藤堂」
物理学科では珍しいからか、女子を発見してハイテンションになる藤堂。
「小野さん、はじめまして……だよね? よろしくね! 初めてってことは同じ3年だよね?」
「うん、3年だよ」
「おっけー! あと、遅れて萌香って子も来るんだけど、その子もよろしくね! あだ名はもえもえ!」
勝手になんともなあだ名を浸透させられる吉田。これには流石の俺も同情せざるを得ない。
「もえもえさん……わかった。後から来るんだ?」
「なんか委員会の集まりがあるらしいんだよね。頑張り屋さんだから」
「すごい子なんだね。あ、どうぞ、どうぞ。座りなよ」
小野がほんの少し立ち上がって自分の椅子を浮かせると、微妙に端っこのほうに席をずらした。
「ほかにも誰かいんのかな?」
耳打ちするように石井がこそこそと尋ねる。
「さあね、吉田が来たらそれで全部なんじゃないか」
小野の右に藤堂、石井と並んだので、反対側に回って小野の正面に座る。よく見る座面に穴が開いているタイプのパイプ椅子だ。
「ねえねえ、小野さんって下の名前なに? 私は梨絵っていうんだけど……」
「えーと、遥だよ」
「良いねめっちゃ可愛い! はるはる……うーん、良い感じだけどそのままが可愛いかな……」
やっぱり、藤堂にはなんでもかんでも少し変なあだ名をつけようとする癖があるようだ。それでも、もうかなり小野さんとの距離を縮めてきているのだからすごい。
「小野さんはどうしてこの研究室にしたの?」
「うーん、私はなんとなくかなぁ。今のところ院進するつもりもないし」
小野の口ぶりからは、ちゃんと研究室資料をじっくり確認したうえで、適当に選んだのだろうという雰囲気が伝わってくる。
「俺は西尾と同じ希望出してたんだけど、第一は仲良く落ちちゃったからなー」
「え、そうなの? じゃあ割と一緒の研究室になったのって奇跡?」
「実はそうなんだよね」
「え、それって結構本当に奇跡じゃない!?」
盛り上がる中、俺は奥に見える物理実験器具を眺めていた。高校の理科室にもあったような気がするものから、もう少し大掛かりな装置まで揃っている。
実験スペースと議論スペースはなんとなく区切られているようである。集まっている机のすぐそばには、少し大きめなホワイトボードが設置されている。インクは全て消されてはいるものの、たくさん数式を書いてきたんだろうなという跡が年輪のように積み重なっていた。
「ねえねえ、西尾くん?」
「……?」
急に名前を呼ばれて、前に体を向き直す。
「西尾くん、前に会ったことあるよね……?」
「え、そうかな……? どこでとか覚えてる?」
「えーと、ほら、あの電磁気学の授業の時に」
恐らく二年の時の話だ。必死に記憶をほじくり返す。街中で知らないおばさんに「大きくなったねぇ」と長話されるときほどの緊張感はないが、覚えていないのもばつが悪い。
「あぁ……! あの時の隣だった!」
確かほんの少し遅刻をしてしまって、教員にばれないように一番後ろの席に忍び込んだときの人だろう。
「そう、やっぱり忘れられてるよね。私にはあの記憶のイメージがすごい強く残ってるから……研究室でもよろしくね」
「ははは…………うん、よろしく」
嫌なイメージがついてしまっているようだ。本当は、もっとしっかりとした真面目人間だということを一年かけて伝えていかなくては。
「え? なになに! そこの二人知り合いなの?」
「まあ、授業でちょっとだけね」
そんなことを話していると、急に奥の方の扉が動きだした。古くていくらか立て付けが悪いのだろう、キュイーと甲高い音を立てながら開いて、白衣の袖が顔を見せた……