第一章
大学に進学するうえで、理系選択とは、それすなわち罠である。絶対に選択してはならない。何度も聞かされていたというのに、なぜもっと真剣に考えなかったのだろうか。
「ジリジリジリジリジリジリ……」
鳴り響くアラームに手を振り下ろし、そんなことを考える。
“大学生活とは、怠惰に眠るボーナスステージだ”と考えていたわけではない。死ぬ気で食らいついた大学受験をやっとの思いで終えたのだ。
高校生に上がる妹を温かく見守りながら、のんびりと手に職をつけていく。その過程で、少し講義やらなんやらも入ってくるだろうが、それくらい構わない。友達とゆったりと充実した毎日を過ごす。そんな日々を想像していた。
「はぁぁぁぅうう……」
大きく欠伸をする。最近は夜何時に寝ても眠いのだから、人間の睡眠というのはわからないものである。カーテンから差し込む光を横目にリビングに向かう。
実は大学が近いのもあって、生活費を浮かすため実家通いをしている。正直一人暮らしへのあこがれも強かったが、家族からの強い要望に押されてしまった。
「あ、お兄ちゃん起きてたんだ? いいなぁ、ゆっくり寝れて」
「あぁ、そうだな」
心のない返事をする。なんだ、こいつ。人の苦労も知らずして。
「でも少し顔がやつれてるよ? 大丈夫? 昨日も夜遅くまでなんかやってたでしょ。ちゃんと寝ないとだめだぞっ」
そう言って、手で顔を挟んでくる。なんだ、この天使。我ながら良い妹を育てたものだ。
「ほらほら、もう行かないと遅刻するわよ」
「え! もう、そんな時間!? 今日はミサと待ち合わせしてんのに……もう! お兄ちゃんのせいだ!」
ちなみに横腹を殴られた。知らぬ間に成長してそれなりのパワーを得ていたようで、これがかなり効くのである。
「あら拓海、起きてたの。もうすぐご飯できるからね」
「うーい、どうも」
「これできたらもうお母さん行くから。洗い物と洗濯機の取り込みだけお願いできる?」
いつもこの調子だ。住み家をご提供いただいているのだから当然だが、こうも同じ調子だと流石にどこか狂ってしまう。
「ふっ、任せてくれ……そんな依頼、既に了解しているっ!」
「……」
こうしてまた、いつも通りの一日が始まった。
今日は一限から講義があるので、早速大学へと向かう。俺の所属する理工学部棟は、帝政大のキャンパスの中でも割と近い場所にあって楽だ。学部棟入り口はなかなかに年季が入っていて、良く言えば歴史を感じる。まあ、普通に汚い。
「よーっす、拓海」
「ん、おはよう石井」
同じく理工学部で友達の石井だ。初日の講義で席が後ろだった。おそらく教員の親切な計らいで席近グループを組まされたのだが、そこからは基本行動を共にしている。
「今日なんか提出あったっけ?」
「いや、試験近いし流石にないんじゃない? それより今日から研究室だな」
研究室。第一希望は楽卒の松尾研、第二はとりあえずでなんかかっこいい素粒子実験の研究室にいれて、第一希望がおちてしまった。確か、山本研とかだったはずだ。
「山本研かぁ……正直よく調べてないわ。どんな感じなんだろうな」
「実は俺も良く知らないんだよなぁ。なんかできたばっかりの研究室らしくて院生があまりいないってのと、筆頭の山本ってのが結構やばい人らしいんだよね」
ヤマモト。名前だけは聞いたことがあるが、実は彼女の授業を受けたことも、見たことすらない。飛び級で大学入学後、最速で博士号を取って准教授の地位に就いた、”物理狂人”だとかなんとか……
「あの最速博士号の准教授って人だろ?」
「なんでもすっごい美人らしいぞ……でも物理への愛が強すぎて、ちょっとやばいらしい」
「へぇー、そんなに美人なのか」
「全然教員には見えない感じで、まさに天使! って持ち上げていたやつもいたな」
「そこまで行くとなんかちょっと気になるな」
そんな風に、見たこともない“山本准教授”という人物の妄想を膨らませていたとき。
「最低……」
「へ?」
「女性の容姿のことを陰でこそこそと話すなんて」
ゴミを見るかのような視線が横を通り過ぎる。想定外のあまりに鋭い刃に俺の心は深くえぐられた。
「おっはよーう! 石井と西尾も!」
「よお藤堂。吉田も相変わらずだな」
「そうだよ、もえもえ~。あんまり西尾くんにばっかり突っかかってたら変に思われちゃうよ?」
「もう! その呼び方やめてって言ってるでしょ! あと西尾くんのはそういうのじゃないから。単純にキモイから」
なぜか流れ弾が飛んできた。完全にオーバーキルである。この吉田と藤堂も、初日のグループのメンバーだ。そして何度も暗殺を試みてくる“もえもえ”こと吉田萌香は、初日隣の席だった。
その日、彼女のスマホが机から落ちそうだなと気にしていたら、本当に落ちてしまったのでナイスキャッチをかましたのだ。そして、ふと彼女のスマホの壁紙が目に入り、割と好きだったマイナー深夜アニメの公式壁紙だったため、僕も好きである旨を添えて優しく手渡すと……それからずっとこの有様である。何をここまで嫌われているのか完全に不明だ。大学ではこういう問いの答えを教えてくれたらいいのに。
吉田は怒って先に一番前の席に行ってしまった。
「それはそうと、今日からついに研究室だな! 同じとこだろ?」
「ほんと奇跡だよね~。萌香も同じだからさ。西尾、良かったね!」
「どこがだよ……」
本心である。
「でも、萌香もちょっとやりすぎだよね~。あれじゃ完全にさ……」
「拓海はすぐ女を手玉に取るからなぁ、気を付けないと」
お前が言うなとはまさにこのことである。石井は決して“パリピ”ではないのだが、ガタイも良すぎず悪すぎず、コミュニケーション能力が非常に高い。友達として最高の男だが、別の意味でも最高の漢であることは周りの視線からひしひしと伝わってくる。
「それはお前だろ。てか、あれは本心で嫌われているよ。なぜなのかは帝政ミレニアム」
「本当、つれないなぁ」
すると、教室奥の扉がガラッと開いた。
「あーい、じゃあ始めるぞー」
みんなそそくさと席に着き始める。前の方の席を陣取った吉田の隣に藤堂、石井、そして俺と座った。
「今日は物理数学IIの最終授業の日ですね。試験も近いので、例によって今日は演習とします。なにかわからないところがあれば教卓まで来なさい」
物理学科の教員には、その天頂に太陽が住んでいるという傾向がある。この教員も例によらず、今日もまばゆく頭皮が光っている。やはりストレスが強いのだろうか。それとも物理に強い家系は、代々禿げる遺伝子を引き継ぐのだろうか。これも帝政ミレニアム問題のひとつとして知られている。
配布された演習を覗いてみる。割と予習復習はしっかりとしていたので、中盤辺りまではわかるが、あとは記号からさっぱりである。完全に忘れてしまっているようだ。
ふと、横を見る。さっきまで楽しそうに話していたのに、今は真剣に演習に取り組んでいる。これには、流石帝政の物理学科と言わざるを得ない。
「ねえねえ萌香、本当に気になっている人いないの?」
「うっさい。集中できないでしょ」
そうでもないみたいだ。そう思って、窓の外に目を移す。真っ青な空に2割くらい薄い雲がかかっている。久しぶりに良い天気だ。一、二限が終われば、あとは昼食休憩をはさんで初めての研究室訪問である。
でも、正直そこまで楽しみなわけでも、憂鬱なわけでもなかった。ずっとこんな適当な日常──適当に卒業して適当に就職する。現状から何も要素が増えない。恐らく、彼女も──が続くと思っていた。この時までは。