プロローグ
「……この物質波がどのように伝わるのかを決定するのが、シュレディンガー方程式というわけです」
物理学科三年の必修である量子力学Ⅰ。多くの大学生はこなす必要のない、暑苦しく、どんよりとした空間での授業。
「この方程式を見てもらえれば簡単にわかると思うのですが、先ほどご紹介したハミルトニアンを用いて……」
巷でささやかれる、“物理学科は男が9割”という神話は統計上決して誤りではない。そんな中……
「このような波動方程式で表すことができるのです! 可愛いですよねっ!」
一部の男子学生しかついていくことのできないノリで教鞭に立つ、一人の女性。
帝政大学理工学部物理学科准教授・山本香織。26歳という若さで日本における物理学研究の最前線を走る、若き天才だ。
「はい。この子が何をできるのか、まだ魅力を全然お伝えしきれていませんが、今日の授業はここまでとなります。それでは次回の授業もよろしくお願いします」
丁寧に礼をすると、両手で一つのクリーナーをがっちりと掴んで、黒板を消し始めた。最初、黒板には綺麗な文字が連ねられていたが、授業が進むにつれてそれは乱雑なメモのようになっていった。学生の「まだ消さないで!」という悲鳴は聞こえてこない。
「ちょ、山本今日もやばかったな……正直、後半何言ってるのかさっぱりだったわ。簡単にわかるとか、簡単に言ってくれるがよぉ」
「そうだよなそうだよな! 今日もやばかったよな山本先生! やっぱり俺らには山本しかいないわ……」
「なんか、微妙に食い違っている気がするんだが」
物理学教室4。収容されている15人ほどの学生が各々ノートを閉じて、ため息をつく声が教室の外にまで聞こえてくる。山本は上下式黒板の隅々までをきれいにしようと奮闘していた。
「まあでも、そりゃそうだよな……確か飛び級して大学入って、最速で博士号とったんだもんな。解釈一致すぎる」
「それがいい! 完全に俺らだけのアイドルって感じがしてさぁ」
「お前、ちょっとキモイぞ」
確かに山本は可愛い。平均より少し低い身長、抜群のスタイル、少し可愛い寄りの整った顔立ち。それに加えて(普段の)言動はまるで謙虚なお嬢様のようである。そんな山本なら当然人気はすごいものとなるだろう。そう、普段なら……
黒板を新品なようにまで綺麗にし終えて、満足げに向き直る。
「なにか今日の講義で分からない点があれば、今のうちにどんどん質問に来てください! 物理のご相談ならなんでも受け付けます」
山本は笑顔で教卓前の椅子に座った。そのテンションの高さはまるで推しの握手会待ちのようである。帰ろうとしていた学生はみな互いに顔を見合わせる。誰か、誰でもいいから何か質問を……
「先生。ちょっとここの部分が……」
一人の学生がおもむろに立ち上がり、ノートを片手に教卓へ進みだす。
教室中の学生が安堵の息を漏らす。まさしく、救世主の表れである。
「お! 質問ですか! 勉強熱心で良いですね~」
山本の顔が一気に晴れあがる。山本と二人で議論しても、わからない謎がより深まるだけだというのに。
「なるほど、式(4.12)のところ。えぇとね、この理論はね……」
こうしてまた一人捕まってしまった。山本の講義はたいてい人気だ。オジサンだらけのカリキュラム表に華が添えられるのだから、人気になるのも当然だろう。しかし、そのあまりに強い物理愛を目の当たりにすると、大抵の生徒は慄きあまり近づくまいと考えるようになる。彼女は決して普通の人間ではない。
いうなれば、物理に憑りつかれた“物理狂人”である。