おかえり、近くて遠い世界
これまで色んな異世界の話を読んできました。心躍るものや、悲しみに触れるもの、感情を揺り動かすもの、みんな楽しく面白く読ませていただきました。
この小説はそんな僕がこんな異世界もあったら面白いかもしれないと筆を執った物語です。皆さんと一緒にこの異世界にじっくり肩まで浸れたら嬉しいなと思います。
轟轟と響く電車の走行音だけが、宇津保 聰〈うつぼ さとし〉の耳に届いていた。
車窓に映る景色は、都会の喧騒から離れるにつれて、緑が増えていく。
「もう駄目かもしれない…。」
聰は、窓に映る自分の顔を見つめながら、そう呟いた。
やつれた頬、虚ろな瞳。
そこに映っていたのは、かつての輝きを失った、見知らぬ男の姿だった。
頭の中は、そんなことばかりで埋め尽くされているようだった。
何が駄目なんだと言われれば、これといった原因が思い当たらない。
仕事で大きな失敗をしたわけでもない。
人間関係でトラブルを抱えているわけでもない。
ただ、毎日を生きる気力が、少しずつ失われていくのを感じていた。
まるで、深い霧の中に迷い込んだように。
出口の見えない不安が、聰の心を蝕んでいた。
「これからどうしようかな…。」
聰は誰に話すでもなく、ポツリと呟く。
言葉は、空っぽの車内に吸い込まれ、どこかへと消える。
その行為を良しとしたのは、自分を慰めることに繋がるからだろうか。
今の自分は、実感の伴わない行為に身を委ねるしか無いのだ。
(どうせ、何を考えたって、答えは出ない)
心が、重い鉛のように沈んでいく。何をやっても、どこへ行っても、この疲労感は簡単に消える気がしなかった。
そんな自問自答を何度繰り返しただろう。しかし、繰り返したところで状況は変わらない。少しでも気分を変えようと、聰は違うことを考えようと努力した。
「そろそろ着くかな」
後10分もすれば実家の最寄り駅だ。しばらく帰っていなかったのだが、親から、駅舎が新築されると聞いていた。聰の故郷、葉境市は人口5万人弱。何年か前に市町村合併をしたものの、依然として過疎化が進む典型的な地方都市で、駅舎の新築は町おこし事業の一環らしい。そういう場所なものだから、その話を聞いた時は、今の時代に豪勢なことだと、どこか他人事のように感じたことを思い出し、聰は小さく息を吐いた。
(新しい駅舎か…)
想像の中では、新しくなった駅舎は、都会的で洗練されたデザインのはずだ。しかし、聰の心は、なぜか不安に揺れていた。
新しくなる駅舎は、多くの人の人生と交わる場所になるだろう。それは、これから新しくこの土地で生活を始める、新住民の人生とも。
(…俺は、その新しい流れに乗っていけるのだろうか…。)
ふと浮かんだ不安を振り払おうと、聰は「よくない、よくない」と小さく声に出して首を振った。これが近頃の口癖だ。その時だった。電車の速度が落ち始める。
ガタンゴトン、ガタンゴトンと、規則正しく響いていた電車の走行音が、徐々にその間隔を広げ、音を低くしていく。電車は、目的の葉境町駅に到着しようとしていた。
「やれやれ…。どうにか着いた」
必要最低限の物だけを入れたスカスカのボストンバッグを手に、ホームへと降りた。
辺りを見回してみる。視界に入ってきたのは、色鮮やかなポスターだった。
「緑葉祭…」
大きな文字と共に、浴衣姿の男女が楽しそうに踊っているイラストが描かれている。中央には、大きく「5月開催」の文字。
(まだやってたんだな…)
緑葉祭。
それは、毎年5月に行われるこの地域のお祭りだ。
都会に出てからは参加したことはなかったが、ポスターには近々開催されると告知されている。
(…今は、祭りを楽しむような気分じゃないな…)
複雑な気持ちを抱えながら、聰はホームを下りていく。どうやら、新駅舎の工事はまだ始まっていないようで、懐かしい木造の駅舎が、そこに変わらぬ姿で静かに佇んでいた。
ポツリポツリとベンチに腰掛ける人影。数人の駅員が、所在なさげに立っている。見慣れた田舎の、ありふれた日常の光景。だが、聰にとって、慣れ親しんだ光景だ。
都会での生活が長かった聰は、いつしか車の必要性を感じなくなり、運転免許を持っていなかった。今日は、父の徹が車で迎えに来てくれることになっている。久しぶりに息子が帰って来るということで、わざわざ休みまで取ってくれたらしい。
父は、この時代には珍しく、携帯電話を持たない主義を貫いていた。「流行り物に流されるのは性に合わん」というのが、その理由らしい。聰が子どもの頃、携帯電話が出始めた時、父は周りの人間が我先にと、新製品の携帯電話を買い求める様子を冷ややかに見ていた。それから何年経っても、父は、頑なに携帯電話を持とうとはしなかった。
そのため、父と連絡を取る時は、いつも実家の固定電話だった。今日のことも、事前に電話をして、電車の到着時刻を伝えてある。しかし、時間通りに来てくれるかどうか、一抹の不安が残る。
(連絡が取れないっていうのは、不便だな…)
「…ちゃんと、来てくれてると良いけど…」
思わず、そんな独り言が漏れる。
このことで母の小百合から、以前、釘を刺されたことがあった。父の携帯嫌いが原因で、職場の同僚に迷惑をかけているらしいのだ。しかし、父本人は、まったく気にしていないようで、小百合は、そのことで頭を悩ませていた。
『聰、お父さん頑固で困るのよ~。せっかく帰ってくるんだから、あなたからも携帯を持つように説得してくれない?』
昨日も電話口で母が困り果てた声でそう言っていたのを思い出す。
「はは…、こっちは平和で良いよな…。まぁ大した仕事でもないし、しばらく厄介になるんなら、それくらいは解決してやるか」
聰は苦笑いを浮かべ、改札を抜けた。
帰郷した時には、父は決まって駅の北口のロータリーに車を停める。
そちらへ向かって歩みを進めるのだが、何だかこういう時は妙に緊張してしまう。
今日は普段の帰郷とは違う。もう、あの場所に戻れるのかどうかわからないのだ。
駅舎を出て、ロータリーを見渡す。すぐに、見覚えのある車が見つかった。トヨタのカローラ。父は昔から決まって、この車種しか乗らない。古くなった車を買い替える時も、必ずカローラを選んでいた。どうやら、今回も買い替えてはいないようだ。足早に車に近づく。
父の車に乗り込む時は決まって後部座席に座る。車内には、父がいつもかけている、古いジャズのCDが流れていた。
「ただいま。迎え、ありがとう。」
「長旅ご苦労さん」
直接話すのは久しぶりなこともあって、何だかこそばゆい気持ちになる。
「どこか寄るところあるか?」
「いや、特に無いよ。飲み物とかは家にあるでしょ?」
「どうだったかな…。まぁ何かしらはあるだろう。」
「それならまっすぐ帰って貰って良いよ。俺の用事で連れ回すのも悪いしね」
「迎えに寄越させてるだけで十分手間は発生してるぞ」
「ごめんごめん」
「そうじゃなくて、父さんが言いたいのは、子供はそんなことを気にしなくても良いってことだ。…まぁ良い。なら帰るか。」
「…うん」
ロータリーから出た車は見慣れた風景を辿っていく。
実家は最寄り駅から山を一つ越えたところだが、車であればそれほど遠くはない。
久しぶりの風景は、以前帰った時と比べても目新しい建物は無く、それほど変わらないように見えた。
「前に帰って来た時とあんまり変わらないね。何年ぶりだっけ?」
「そうだな。特別新しいものは無いな。お前は仕事でしばらく帰れなかったから、5年以上前じゃないか?」
「え、そんなに経つ?」
「確かお前の友達が同窓会を企画したとかで帰ってきたっきりだったろう」
なるほど。確かに同窓会に出席した覚えがある。
聰は、自分の認識とのずれに、軽い衝撃を受けた。ついこの間まで学生だったような気がしていたのに、もう5年も経ってしまったのだ。
「マジかぁ…」
自分と世界の時間の進み方に違いがあるのでは無いだろうか。そう思わせられるほどで、何だか罪悪感にも似た気持ちを覚えた。
「聰、時間なんてのは人生に付いてくるオマケみたいなもんだ。それを忘れられるってことは、一生懸命に生きてるってことだぞ。あまり気にするな」
「あぁ…うん。そうだね」
心の内を見透かされたようで、少しドキリとした。
車は、いつの間にか、山道へと差し掛かっていた。これから、峠を越えるのだ。この道は、通勤や通学で使う人も多く、普段から交通量がある場所だ。しかし、今は前にも後ろにも、車は一台も見えない。
「…やけに、静かだな」
聰がそう呟くと、父は、ルームミラー越しに、ちらりと聰を見た。
「そうだな。…まあ、こんな日もあるさ」
時刻はお昼の12時半を回ったところだったが、この時間に後続車も対向車もいないことは、あまり経験したことがない。
聰は珍しいことがあるものだ、と思ったものの、特別気には留めなかった。
やがて、車は長いトンネルへと入っていった。
このトンネルは、聰が子供の頃にできた、比較的新しいトンネルだ。隣には、それまで使われていた古いトンネルが、今はもう使われていない。そのことから、地元の人たちからは「双子トンネル」と呼ばれていた。
聰は、学生時代、自転車で学校に通っていた。毎朝毎晩、このトンネルを通った。そんな、懐かしい思い出が詰まったトンネルだ。
「懐かしいな…」
思わず、そう呟いた、その時だった。
不意に、強烈な眠気が、聰を襲った。
(…なんだ…?急に…)
まるで、深い眠りの底に、一瞬で引きずり込まれるような、そんな感覚。
しかし、トンネルを抜けたら実家はすぐだ。
自分を揺り戻すように、慌てて頭を振る。
「移動で疲れちゃったかな」
どうせなら帰ってから寝たいなどと考えている内に、車がトンネルを抜ける。
そこには、昔見た風景が広がっていた。
青々とした山々、木々を揺らす風が、おかえりと言ってくれているような気持ちになった。
ふと、あのことを思い出した。
母から、父に携帯電話を持つように説得してくれという話だ。
あぁ、それがあった。
どうやって言いくるめたものかと思案を始めたのだが、向けた視線の先に何やら違和感があった。
助手席に、スマートフォンが置いてあるのだ。
新品同様の、真新しいスマートフォンが。