30-17「言えなかった感謝」
あれから、台所の氷冷蔵庫に俺がどんな改造を施したのかの話になりかけたが、すぐに話題を変えた。
それに、もうサノスを帰すべき時間なので、そのことをたてに、氷冷蔵庫の話は一度切り上げた。
サノスは不満そうだったが、今すぐに学んだところで、台所の氷冷蔵庫と同じものを作れるわけではない。
「まずは、サノスが氷冷蔵庫の仕組みを理解しないと、教えても意味がない。それに、どんな改造が効果があるのか、わからないだろ?」
そう諭したところで、渋々ながらもサノスは頷いた。
「じゃあ、気を付けて帰るんだぞ」
「はい、氷冷蔵庫の件は、日を改めて、きちんと教えてくださいね」
「わかったわかった。ほら、陽が残ってるうちに帰れよ」
「じゃあ、お先にしつれいしまーす」
カランコロン
サノスが店を出て、作業場に一人となった俺は、沈んだ夕陽の残照にほんのり染まる景色の中で、母さんと、今は亡き父さんの顔を思い浮かべていた。
先ほどのサノスとオリビアさん、そしてワイアットのような、家族としての繋がりは、俺の記憶にはなかった。
魔法研究所に入所して得た給金も、俺はすべてを自分のために使っていた。
父さんが魔王討伐戦に向かう直前、王都の別邸に顔を見せたとき、母さんは俺を呼び出し、そろって暖かく迎えてくれた記憶はある。
けれども、そうした時間は短く、サノスのように日々を共にしながら、言葉や想いを交わす家族としての会話や繋がりは、俺にはなかった気がする。
あの頃の俺は、父さんや母さんに対して、素直な言葉を掛けることさえできなかった。
口に出すことのない感謝は、今も胸の中に残っているのだろうか。
なぜあの時に父さんと母さんに感謝の言葉を口に出来なかったのか、なぜ言えなかったのか。
分からないまま、ただ時だけが流れ、今の俺がここにいる。
窓から差し込む夕陽が赤く揺れて、俺の影を長く引き伸ばしている。
俺はそっと息を吐いた。
いかんな⋯
こうしてひとり静かにしていると、胸の奥から、言葉にできなかった思いばかりが湧いてきてしまう。
カランコロン
いかん、このままでは余計なことばかり考えてしまう──そう思い、少しでも気分を変えたくて俺は店を出て風呂屋へ向かった。
店の扉に魔法鍵を施し、ゆっくりと石畳を踏みしめる。
夜風は肌を撫でる程度で、それほど冷たくはなかったが、それでも湯の温もりが恋しいとさえ思えた。
通りを挟んだ向かいの交番所では、既に勤務の交代を終えたらしく、立っていたのは二人の男性街兵士だった。
軽く片手を上げて挨拶を送ると、二人とも、いかにも慣れているといった様子で、無言のまま小さく敬礼を返してきた。
日中に見かける女性街兵士の姿はなく、立っていた二人の男性街兵士にも顔に見覚えはなかった。以前にも立っていた可能性はあるが、俺の記憶には引っかかってこない。
それでも、交わされた小さな敬意のやり取りに、ほんの僅かだが、気持ちが和らいだ気がした。
カバン屋の角を曲がった通りは、歩道に張り出されていたテントがすべて片付けられていた。
静かな夜の空気の中、ガス灯の明かりだけが、ぼんやりと等間隔に並んでいた。
そのガス灯の列のなかで、ひときわ目を引くのは、かつては魔道具屋で、今は交番所の前に灯る一本だった。他の灯りとは違う、どこか明るさの質が異なるような光を放っていた。
俺は歩みを緩め、その明かりの下に立つ三人の街兵士に視線を送った。
二人は男性だと分かったが、もう一人はやや距離があるにもかかわらず、立ち姿や体格から女性のように思えた。
ふと振り返った、その女性街兵士と目が合った瞬間に、俺は自分の行動を軽く悔やんだ。
金髪のショートカットに、他の男性街兵士と変わらぬ長身。そして、管理職らしき制服姿。
東町街兵士副長のパトリシアさんだ。
ここでパトリシアさんに絡まれるのは、少し面倒臭い気がするぞ。
他の男性街兵士達も、俺に気付いたらしく直立不動で、王国式の敬礼を繰り出してきた。
それに俺は、半分仕方ない気持ちで軽い敬礼で応え、交番所の前へ進むと、軽めの敬礼で応えたパトリシアさんが言葉を掛けてきた。
「イチノス殿ではないか!」
はい。私がイチノスです。
「この時間に外出とは、どうされたのだ?」
パトリシアさん、それって職務上の質問か何かでしょうか?
「風呂屋へ行って、大衆食堂で夕食にしようと思って出てきたんですよ」
「そうか、風呂屋か。イチノス殿はフェリス様と同じで清潔好きなのだな(笑」
((ククク))
パトリシアさん、その例えは理解できないというか、後ろの街兵士さん達が笑いを堪えていますよ。
俺は話の流れを変える為に、逆に問い掛けた。
「パトリシアさんこそ、こんな時間に、どうされたんですか?」
「う~ん 実はな⋯」
「副長! ありました!」
パトリシアさんの答えを遮るように、交番所の中から声が響く。
「おう! 見つかったのだな!」
パトリシアさんもその声に応え、俺との視線を切り、交番所の中へ顔を向けたかと思うと、直ぐに向き直った。
「イチノス殿、申し訳ないが、また後程にしていただけるか」
パトリシアさんはそう応えるなり、交番所の中へ向かうと、途端に二人の男性街兵士が交番所の中を見せないように、俺の前に立ち視線を遮って来た。
これは何かあって、パトリシアさんが出向いて来ている気がする。
だとすると、ここで俺が変に掘り下げると何かに巻き込まれるかもしれない。
これは早々に退散した方がよさそうだ。
俺は再び軽い敬礼で二人の男性街兵士に挨拶を済ませて、風呂屋への道のりに戻ることにした。
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王国歴622年6月11日(土)はこれで終わりです。申し訳ありませんが、ここで一旦書き溜めに入ります。書き溜めが終わり次第、投稿します。
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