30-15「伝令無き黄昏」
ロザンナの描いた『水出しの魔法円』で出した水を飲んだ。
それは確かに感動の一杯だったが、3時のお茶につづいてそれだけ水分を摂取すれば出るものもある。
俺はふたりに『二階にいる』とだけ告げて作業場を離れた。
カランコロン
「「は~い いらっしゃいませ~」」
用を済ませて台所で手を洗っていると、入口の戸が軽やかに揺れる音がして、いつもの条件反射の声が聞こえた。
どうやら客が来たらしい。
あるいは、いよいよアイザックが母さんの伝令を届けに来たのかもしれない。
タオルで手を拭き、作業場を覗くとサノスしかおらず、ロザンナが店舗で接客をしているようだ。
「では、『水出しの魔法円』がご希望なんですね?」
ロザンナの声が聞こえる。
「そうだな。こう、持ち歩ける小さいやつがあると聞いてな。それを見せてもらえたら助かる」
聞き覚えの無い声だ。どうやら、『水出しの魔法円』を目当てに来た客のようだ。
新たにこのリアルデイルの街へ来た冒険者の誰かが、雨も上がったので水出しを求めて店に来てくれたのだろう。
店舗での接客は、サノスかロザンナのどちらか一方が担当し、もう一方は控えに回る体制だ。今はロザンナが接客に回り、サノスが控えているんだな。
何かあれば俺を呼ぶだろうから、問題は無いな。
「サノス」
「はい?」
ロザンナの描いた『水出しの魔法円』を眺めていたサノスが振り返り、少し驚いたように答えた。
「二階にいるから、何かあったら呼んでくれ」
「わかりました」
その返事を聞いたとき、ふと思い出したことがあった。俺はサノスに歩み寄り、少し声を落として話しかける。
「そうだ、サノス」
「はい?」
「今日、仕事が終わってからでいい。少し、サノスにだけ話したいことがあるんだ。残ってくれるか?」
「私にだけ、ですか?」
「ああ。難しい話じゃあないよ。まあ、少しだけな」
サノスは一瞬きょとんとした後、素直に頷く。
「わかりました。大丈夫です」
「じゃあ、頼むな」
俺はそう言い残して、階段を上がっていく。
カチン
魔法鍵の解ける鈍い音が書斎の扉を震わせる。
俺は扉を押し開け、いつもと変わらぬ沈黙の中に足を踏み入れ、待ち構えている椅子にゆっくりと腰を下ろした。
椅子の背に寄りかかると、肺の奥から息が抜けてゆき、思考も呼吸もようやく落ち着きを取り戻すのを感じた。
昼前、街兵士の班長から『魔石シンジケート』の件で事情聴取を受け、その後、腹を満たすために向かった大衆食堂では、正式に『製氷の魔法円』の注文を受けた。
昼食を済ませ店へ戻ると、ロザンナが『水出しの魔法円』の試行を願い、その成果を目の当たりにした。
そういえば、子猫を飼うか飼わぬかの騒動もあったな(笑
時計の文字盤に視線を投じれば、短針は五を越え、長針は一を指している。
窓辺にかかるカーテンの隙間から差し込む光は、既にいつか見知った夕暮れの傾きに変貌していた。
日が落ちる、その一言では足りぬ、何かが静かに、しかし容赦なく、此の街を包み込みつつある気配があった。
帳が、まるで霧のように、街並の上空から降りてきた。
窓の向こうには、陽の余熱のような朱のかすれと、藍の気配が、わずかずつ混じり合っている。
それはさながら、夜と昼との和解の儀式であり、また交替の口付けにも似ていた。
そうした静寂に沈む空気のなか、気にかかるのは、母さんからの伝令が届かないということだ。
懲罰を科すと明言されたのは、たしか六月八日の木曜日だ。
今日は六月十日の土曜日。
この二日間の空白は、時に言葉よりも饒舌に感じてくる。
あの時、母さんは、たしかに言った。明日か明後日には処罰の内容を伝えると。
その『明後日』を越えようとする今、俺は己の静けさにすら不穏さを覚えている。
書斎机の引き出しを引く。中には便箋が一枚、たしかにそこにある。
俺はそっと取り出し、目を通した。
数日前、母さんに宛てて綴った手紙だ。
俺は各人種の名が冠された『魔石』、そしてその各人種における『勇者』の定義について、独自に調査を始めた。
人間、獣人、ドワーフ、リュウジン、各種族へ向けて調査に協力を願う文をしたため、回答をもらえそうな人物宛に発送している。
それに伴い、そうしたことを始めたと報せる手紙を、母さんにも送った。
そしてそのとき、実はもう一通、母さん宛ての手紙を綴っていたのだ。
発送せずに手元に残したこの母さん宛の手紙には、既に送った手紙よりも、さらに踏み込んだ内容が書かれている。
母さんの父親=祖父について直接訊ける人物は、母さんしかいない。だからこそ、この問いは母さん宛てとなった。
母さんの父親、俺の祖父。
すなわち『エルフの長』に関する問いを記したのだ。
『エルフの長』という存在に対して、俺が強く関心を抱いていることを、決して婉曲ではなく、はっきりと書いた。
『エルフの長』とは何か。それは単なる血縁か、称号か、それともこの王国の建国のような勇者的な存在と関わりがあるのか。
もし『エルフの長』が『エルフの勇者』に通じるなら、そこに何らかの因果が編まれている気がしてならなかったのだ。
そしてなぜかこの手紙は、他の手紙のように冒険者ギルドから伝令として出そうとは思えなかった。
先に冒険者ギルドから発送した他の手紙については、仮に何かの事故で他者に中身を見られたとしても、問題ないと思えた。だが、この手紙だけは、そうは行かない。
万が一、手紙の中身を誰かに見られると、母さんの素性を明かしかねないと感じたのだ。
この手紙を書き上げた時点では、母さんからの懲罰を記した伝令は、アイザックかコンラッド――俺が信頼を寄せる個人――が直接届けに来ると考え、そのどちらかが届けに来た際に、折り返しで託すことで考えていた。
ふう〜 いかんな。
今の母さんと俺では、明らかに幾多の面で立場に違いがある。
リアルデイルの街の領主代行に就いた母さんの忙しさに比べたら、俺の方が圧倒的に穏やかな日々を過ごしている。
一方的に、期限だから俺に科す懲罰が何かを教えて欲しいと母さんに求めても、それは懲罰を催促しているように受け取られてしまいそうだ。
今の俺に出来ることなんて、何もない。せめて、科される懲罰が軽いものであるよう願うしかない。
少しずつ眠気が滲みはじめ、椅子のリクライニングを効かせて体を預けると、自然に目を瞑っていた。
(カランコロン)
(ありがとうございました~)
遠くで鳴ったような鐘の音と、ロザンナが客を見送る声が、まどろみの中に微かに揺らいだ気がした。




