30-7「逃げそびれた昼休み」
「師匠! ちょっと見てきて良いですか」
言うが早いか、サノスは両手で持っていたトレイを作業机に置いた。置かれたトレイには、紅茶を淹れる仕度が見てとれた。
「イチノスさん、私も!」
ロザンナが堪えきれなくなったのか、サノスに追随してきた。
どうやら、サノスとロザンナは向かいの交番所にいる子猫のことが気になって仕方がないらしい。
「行ってこい、行ってこい」
「「直ぐに戻りま~す」」
元気な返事だけを残して、サノスとロザンナは二人揃って勢いよく作業場を飛び出していった。
バタバタ バタバタ
(どんな子猫かなぁ⋯)
カランコロン
急ぐ足音と期待する声と共に、店の入口の鐘が軽やかに鳴った。
まあ、サノスとロザンナのことだ、飽きたら帰ってくるだろう。
残された俺は、空腹を抱えながら考える。この時間なら、大衆食堂は既に昼営業で開いているはずだ。何だったら、バゲットサンドを買って戻って来て、昼食を済ませるのもありだな。
サノスとロザンナの分は⋯
紅茶の仕度をしていたくらいだから、おそらく弁当だろう。昼飯くらい、互いに好きなものをゆっくり食いたいところだな。
幸い、交番所を出る頃には雨も止んでいたようだし、今も窓から差し込む陽が明るくなっている。これなら昼食を求めて外出しても問題なさそうだ。
とにかく昼食を求めて外に行こうと決めた俺は、急いで2階の書斎の鍵を掛けに行った。
◆
カランコロン
店の入口の扉を押し開けて外へ出ると、雨はもう止んでいた。
あの霧みたいな雨も、ポツポツ落ちてた雫も、すっかりどこかに消えていて、代わりに薄い陽射しが雲の隙間から漏れている。
交番所の前には、サノスとロザンナ、それに女性街兵士が二人と、先程の青年街兵士が立っていた。なんというか、子猫一匹に対して強靭な陣容だろう。
俺はなるべく気配を消しながら、この子猫に集中している集団に後ろからそっと近づいてみた。
「じゃあ、班長さんが祖父に頼むんですね?」
ロザンナの声が聞こえる。どうやら子猫の扱いの話をしているらしい。
結局、この交番所で子猫を飼うことに関しては、班長だけでは決めかねるらしく、より権限のある副長であるイルデパンに判断を仰ぐという話らしい。まあ、妥当な線だな。
「その為にも、まずはこの子猫の状態を先生に確認して貰わないと⋯ あっ、イチノス殿」
青年街兵士が俺に気が付いたらしく、名前を呼んでくる。声が妙に大きいぞ。全員が俺を見てるじゃないか。
俺は仕方なくその集まりに加わり、注目を集める青年街兵士の手元、持ち手の着いた編みカゴに視線を移した。
編みカゴの中では、白いタオルに包まれた、先程の子猫がウニャウニャと身じろぎしていた。
俺は子猫を眺めながらも、それとなく女性街兵士の視線を探る。子猫の愛らしさからか、その瞳からは先程までの圧が綺麗に消えていた。
この子猫はイルデパンの判断次第では、交番所で飼われるのだ。既に二人の女性街兵士は、それを強く願って先程までの剣呑とした気配が消えたのだろう。
俺としても、この交番所で子猫が可愛がられる方が皆の幸せになると思えてきた。
もう俺の出番は無いな。
「サノス、ロザンナ。すまんが、昼飯に行ってくるから」
「「「「「は~い、いってらっしゃ~い」」」」」
集まっていた全員が、軽い敬礼で俺を見送るのが、不思議に暖かく感じた。
◆
結局、俺はバゲットサンドを選ばず、大衆食堂へ向けて歩き出した。
カバン屋の前で右に曲がり、歩道にテントを張り出した通りを歩いて行く。
元魔道具屋で今は交番所の前でも立番の街兵士へ軽い敬礼で挨拶を交わす。
そして少し進んだところで、雑貨屋が目に入ってきて足を止めた。
店の入口に着ける鐘を購入していないことを思い出しながら、軽く店内を覗けば、今日も女将さんが接客している姿が見える。
帰りにでも寄ろうと思っていると、大衆食堂の方から見覚えのある容姿が俺に向かって足早に歩いて来た。
「イチノス!」
大衆食堂の給仕頭の婆さんだ。
一瞬、バゲットサンドにしておけば良かったと無駄な後悔をしてしまったが、元々、この顔を見る予定だったのだと考え直した。
「婆さん、今、行こうと思ってたんだよ」
「そうかい。そりゃあ奇遇だね。もっと早く来てくれれば、オリビアに頼まなかったのに」
いやいや、婆さん何を言ってるの?
オリビアさんに頼むって何のことだよ?
「婆さん、店は良いのか?」
「だから、お前さんの店に行くんでオリビアに頼んで出てきたんだよ」
あぁ、そういうことか。
「さあ、行くよ」
そう言った婆さんが、何の遠慮もなく俺の腕を掴んできた。
◆
そのまま俺は給仕頭の婆さんに腕を掴まれ、逃げる間もなく大衆食堂へ引きずられていった。
大衆食堂へ入ると、先程まで降っていた雨の影響だろうか客はまばらな感じだ。
婆さんは常連たちの挨拶に軽く頷く程度で返し、俺もそれに倣っていると、いつも使う長机の席へ座るように促してきた。
「直ぐに出すから、座って待ってな」
それだけ言い残して、婆さんは厨房の方へ消えて行く。
しばらくすると、婆さんの言葉どおりに厨房からオリビアさんが皿を片手に現れた。
「イチノスさん、いらっしゃ〜い」
オリビアさんは片手で器用に運んできた皿を、俺の前へ置いてきた
「今日のランチよ」
目の前に置かれた皿の上には、どこか見覚えのある料理が載っていた。玉子の焼き色が美しい丸いタルトのようで、こんがりと焼かれた生地の香ばしさが鼻をくすぐる。
俺はすぐに気が付いた。これは昨日、シーラと一緒に食べたものと同じだ。
「これって⋯」
「あれ? もしかしてイチノスさん、この料理を知ってるの?」
「これって『キッシュ』だろ?」
俺の答えに、オリビアさんが少し驚いた顔を見せた後、笑顔で応じた。
「イチノスさんがこの料理を知ってるなんて意外ね(笑」
おいおい。その言葉の意味を問いたい気分になるぞ(笑
「実は、昨日、貴族街の手前の店で食べたんだよ」
「あぁ、あそこの店だね。氷屋が、その店のお土産だって持ってきてくれたんだよ。それでオリビアが真似て作ってみたんだ」
そう言いながらオリビアさんとの会話に割り込んできたのは、俺をここまで連行してきた給仕頭の婆さんだ。
「オリビアも気に入ったらしくて、『これなら作れる!』って言うんで、今日の朝から張り切って挑戦したんだよ」
確かに美味しそうだが、俺としては二日続けて同じ昼食になるとは思ってもいなかった⋯




