29-14「回復魔法と誤解の間で」
「イチノス君 あれってなんなの?」
シーラが呟いた。声のトーンは控えめだけど、その緑色の瞳の目線にはしっかりとした興味がにじみ出ている。
視線の先には、開け放たれた応接室の扉。さっきメリッサさんとレオナさんが慌てて出て行った応接室の扉だ。
「ククク なんだろうな(笑」
いや、答えられないんじゃない。答えたくないだけだ。詳しく話しても想定の域を出ないし、ややこしくなるだけだ。
「もしかしてメリッサさんって意外と迂闊なところがあるの?(笑」
「それは否定できないな(笑」
そういう話なら、大いに同意する。俺が笑えば、シーラもつられて笑う。
うん、笑ってごまかす。それが平和への第一歩ってやつだ。
多分だが、シーラの言葉に応えてメリッサさんが口を滑らせたことが原因だろう。その事にはシーラも気がついているだろう。
やれやれ、人の失敗で盛り上がるのは悪趣味だって分かってるけど、これはもう仕方ない。
「メリッサさんも、このところの業務で疲れが出てるんじゃないのか?(笑」
「フフフ そうよね(笑」
まあ、何がどうしてあんなことになったのかなんて、俺には知る由もない。
むしろ知りたくもない。
ここで下手に首を突っ込んだら、俺やシーラにも何らかの形で余波が返ってくる可能性が高い。
命知らずの馬鹿じゃあるまいし、そんなリスクは犯さない。
俺は、自分の判断が正しかった筈だと密かに誇りながら、シーラの笑顔を見つめていた。
正直、何がどうなってああなったのか、だいたいの想像はできる。
製氷業者から始まって、精肉業者、さらに魔道具を使っている幾多の業者や商会に魔石壺が広がっているのだろう。
その魔石壺の広がりは、以前の魔道具屋の老夫婦が、何年もかけてリアルデイルの街に根付かせ、広めたものだろう。
捕まった元魔道具屋は、所詮はそれを引き継いで魔石壺を使った商売をしていただけだろう。
シーラもその辺を感じ取って指摘したんだろうが、その言葉を聞いたメリッサさんがつい口を滑らせ、レオナさんは顔色を変えた。
理由はわからないが、多分、レオナさんはその広がりがあまり表沙汰になるのを望んでいなかったのだろう。
事前の打ち合わせか何かでメリッサさんも同意していたはずだが、今この場でその一端が明るみに出てしまったことで、ああいう反応になったのだろう。
まあ、ここまでは俺の推測に過ぎないけど、それがこれからどう影響するのかは、正直、俺にはわからない。
「まあ、この後の氷室建設の話に影響がないことを願うだけだな(笑」
「そうよね。その話がまだだったわね」
俺の呟きのような問い掛けに、シーラが素直な返事を返してくれた。
シーラも、この先の氷室建設の話を円滑に進めたいと思っているのが、伝わってくる返事だ。
さすがにこれが原因で話し合いがこじれたら、笑い話にもならない。
いや、俺たちは笑うかもしれないけど。
「そうよね。それよりイチノス君は、製氷業者との保守契約が進まないのは気にしないんだね?(笑」
「それはさほど気にならないな。むしろ自分達で魔石を交換してくれる方がありがたいぐらいかな(笑」
確かに、魔石の交換だけで金銭が得られるのは、良い点が多いかもしれない。
だが、それに魔道具の保守契約という形の縛りが付いてくるのは、自由を犠牲にしている気がする。
それに、やはり、あの元魔道具屋の尻拭いは抵抗がある。
「まあ、自分達で魔石交換が出来るなら、その方が良いのもわかるけどね」
どうやら、シーラも俺の考えをそれなりに理解してくれたようだ。
コンコンコン
控えめなノックの音が応接室に響く。
「はい、どうぞ」
「失礼します」
シーラがノックに応えて声を上げると、開け放たれた扉からワゴンを押したナタリアさんが入ってきた。
「紅茶をお持ちしました」
その声を聞いた瞬間、シーラが脇に置いていたコサッシュを手にしてサッと立ち上がる。
「イチノス君、ちょっと席を外すね」
「わかった、先に進めてるよ」
どうやらシーラは用を済ませたかったらしく、足早に応接室を出て行く。そのまま壁の時計に目をやると、3時を過ぎていた。
そして応接室に残ったのは俺とナタリアさんだけ。
しばしの沈黙の中、なんとなく視線を感じる。俺を窺うような視線の主は、明らかにナタリアさんだ。
もしかして、昼食前にシーラに施した回復魔法のことが今でも気になっているのだろうか?
「イチノスさん⋯」
「ん?」
視界の端で、紅茶を淹れる手を止めたナタリアさんが、何か言いたげに口を開く。
「カフェはいかがでした?」
「あぁ、なかなか良いところだったよ。あいにくの天気だったけど、晴れた日ならもっと良かっただろうね。隣の窓口の職員さんお勧めのキッシュも美味しくて、少し値段が高めだけど、静かで落ち着ける店だったよ。ナタリアさんは⋯」
「私はまだ行ったことがないんです。やっぱりお高めなんですか?」
「そうだね、それなりのお値段だったけど、その価値はあったかな」
「あの⋯」
「ん?」
「イチノスさんの回復魔法よりも高いんですか?」
その言葉に改めてナタリアさんをよく見ると、耳まで真っ赤になっているのがわかる。その姿に、思わず笑いが込み上げてきそうになった。
◆
「力を抜いてくださいね。特に腕と肩の力は抜いてくださいね」
近くに置かれていた丸椅子にナタリアさんを座らせ、肩凝りを治すために回復魔法を施すことになった。
このところ残業続きで肩が凝ってると愚痴をこぼすナタリアさん。
例の保守契約絡みで製氷業者の納税を調べ直したり、俺の発言が発端で開催することになった説明会の準備で忙しくなって、残業続きだと愚痴を聞かされては、労うしかないだろう。
ナタリアさんも最初はちょっと躊躇っていたが、丸椅子に座って俺からの回復魔法を受け入れることにした。
まあ、ナタリアさんの体型だと、肩凝りの原因は別にあるんだろうけど、そんなことを口にしても仕方ない。
俺はその点には触れず、両肩に手を添えて軽めの回復魔法を施していく。
「えっ、えぇ⋯」
回復魔法をかけた途端、ナタリアさんが変な声を漏らした。
驚いたような、少し戸惑ったような、その声。
いや、まあ、なんとなく予想はしてたけど、まさかここまでとは。
俺がシーラに回復魔法をかけたことで抱いたであろう勘違いが、これで解けるだろうと思ったのだが、こんな反応が返ってくるとは、少し予想外だ。
「こ、こんなに気持ちいいんですか⋯ あぁ⋯」
ナタリアさんが漏らす声。いや、ちょっと待て。
これ、誰かに聞かれたら更に誤解が広がって、面倒なことになりそうだ。
「うぅ⋯ん」
いやいや、その声は少し抑えてくれよ。俺も焦るじゃないか。
なんだか妙な空気になってきて、正直、ちょっと頭が痛くなってきた。だが、俺が回復魔法を施すことで、ナタリアさんの肩凝りが少しでも楽になるなら、誤解が解けるならそれでいい。
だけど、これを誰かに聞かれたら、また余計な誤解を生むのか?
「どう、ナタリアさん、気持ちいいでしょ?」
不意に聞こえたシーラの声で、俺は回復魔法を止めた。
シーラのその声は、開け放たれた扉から聞こえ、そこには横を向いたレオナさんと、少しだけ顔を赤らめながらも目を見開いたメリッサさんが立っていた。




