29-9「曇り空に香る予感」
商工会ギルドを出ると、空は依然として薄曇りであった。灰色に染まる空を見上げれば、今夜の天気も明日の空模様も、晴れ間など望めそうにはないと感じる。
そんな空の下を俺とシーラは並んで歩き、貴族街手前の『カフェ』へと向かっていた。歩調を揃えながら交わす会話は、取り立てて深みのあるものではない。
それにしても、こうしてシーラと二人であの『カフェ』に向かって歩くことが、妙に現実離れしている気がしてならなかった。
確かについ最近、シーラと共に商工会ギルドからカレー屋経由で冒険者ギルドへ向かった記憶は新しい。
それでも、かつて王都の魔法学校で一緒に過ごしただけの関係で、こんな風に肩を並べて歩きながら、昼食を求めて『カフェ』に向かうことが、どうしても現実感が薄れてしまう。
それに、あの『カフェ』の雰囲気も相まって、どこか不自然な気持ちが拭えない。
「食事としては、キッシュがあるって隣の窓口の女性が言ってたけど、イチノス君はその『カフェ』には行ったことがあるの?」
そんなシーラの問いかけに、俺はつい数日前の記憶を引き寄せる。領主別邸へ行く途中、偶然目に留めた『カフェ』はその雰囲気が素晴らしかった。
そこで昼食に『キッシュ』が得られると言ったのは、ナタリアさんの隣の窓口の座っていたオバサン職員だった。
色々なことが重なってポンコツ気味になったナタリアさんに代わって、『カフェ』での昼食の経験があるオバサン職員が口を挟んできたのだ。
「一昨日かな? 領主別邸へ行く用事があって、その途中で見かけたんだが、さすがに入ってないな」
そう答えながら、ふと苦笑が漏れそうになる。まさか、シーラとこうして昼食を求めて新たな店へ向かう日が来るとは思わなかった。
王都の魔法学校時代、確かにシーラと共に過ごした時間は多かった。だが、それはあくまでも校内という限られた空間の中での話に過ぎない。
王都の街並みを、今のように肩を並べて歩きながら散策することなどありえなかった。
「王都にも、カフェはあったよね? イチノス君は研究所にいた時に行ったりしてたの?」
シーラはそう言いながら、少し問い掛ける感じで俺の顔を覗き込む。
「う~ん どうだったかな⋯」
そう答えて、薄ぼんやりとした記憶が浮かんでくる。
貴族街の外れか手前か、曖昧ではあるが、『カフェ』と呼ばれる店があった。そこは貴族に仕えるメイドたちや、その相手をする騎士たち、そうした男女で想いを寄せ合うひと時を過ごす場で、どこか浮世離れした空気が漂っていた。
そんな場所に俺自身が足を踏み入れたことはほとんどなかったが、通りがかりに目にした店の雰囲気は今でも記憶に残っている。
特に印象に残っているのは、静かに言葉を交わす男女の姿だ。
二人掛けの席に身を寄せ合い、互いの存在を確かめるようにカップを傾けながら視線を絡めあっていた。
何か特別な関係でなければ、ああした時間を男女で過ごすことはないだろう。
研究所の同僚の何人かは、気になる相手をそうしたカフェに誘うものだと言っていた。
今の俺とシーラのように昼食を求め、気軽に訪れる場所ではなく、むしろ男女で踏み込めば自然とお互いを意識せざるを得なくなる、そんな場所だったのだろう。
だからこそ、こんな風にシーラと肩を並べて、あの『カフェ』に向かうことが妙に不自然に感じてしまう。
王都のあの『カフェ』はただの喫茶を楽しむ場所ではなく、想いを寄せ合う男女が密やかなひとときを過ごすような場所だったから、二人で訪れるには少し場違いな気がしてならなかった。
ナタリアさんからの紹介とシーラの興味、そして俺の空腹が重なって、選んだだけのはずなのに、どこか場違いな所へ向かっているような、どこか落ち着かない感覚が胸に広がった。
そんな場所に、果たして俺とシーラが二人で足を踏み入れても良いものか。疑問が芽生えるのを抑えきれなかった。
そんな俺の胸中を知るはずもなく、シーラは変わらず柔らかな口調で言葉を重ねる。
「紅茶が美味しいお店だと嬉しいよね」
その何気ない一言には、王都にいた頃の思い出が少し滲んでいるようにも思えた。魔法学校時代、俺たちは限られた空間で過ごすことが多く、校外の洒落た『カフェ』に行く機会はほとんどなかった。
もしかしたら、シーラにとっても、こうした店は少し特別な憧れような物があるのかもしれない。
目的の『カフェ』が見え始めたころ、隣を歩くシーラの様子が少しだけ変わった気がした。
それまでのシーラは、歩くたびに軽く俺へ目を向けては、たわいない話を投げかけてきた。
それがいつの間にか消え、代わりに視線は前方のある一点へと据えられている。
ここまで落ち着いた足取りだったのが、気持ち早くなり、瞳がきらきらと輝き始めている気がする。
俺もつられるように目を向ける。視線の先には、領主別邸へ向かう折に見つけた『カフェ』があった。
店の全貌が露わになると、シーラの足が止まった。以前に目にした時も洒落た店だと思ったが、こうして改めて正面から見ると、さらにその印象は強まっている。
曇り空の下、くすんだ街並みに沈む周囲とは違って、そこだけが奇妙に光を集めているように思えた。白木のテーブルと椅子が、微妙な間隔なのに何処か整然と並び、大きな日除けが穏やかに影を落としていた。
そんな情景を醸し出すこの庭園が、まるで人を迎える温もりにも感じてしまう。
風を受けて揺れる日除けの陰に、一組の男女がいた。男は騎士服を纏い、女は派手な帽子を目深に被っている。
二人は互いに顔を寄せ、何事かを囁き交わしていた。その間にあるティーカップからは、淡く湯気が立ちのぼっている。
やはりリアルデイルの『カフェ』も王都の『カフェ』と同じだったか。だとすれば、サノスやロザンナにこの『カフェ』の話をしたのは間違いだったか。
そう思った時、風が吹いた。その風に乗って鼻をかすめたのは、どこか懐かしい珈琲の香りだった。
香りを確かめた瞬間、シーラが大きく目を見開いたのが、俺にははっきりとわかった。
「凄く いい感じがするんだけど!」
弾けるような声が耳に届くや否や、シーラは勢いよく俺の左腕を掴む。そこにあったのは、普段見せることのない無邪気さだった。いや、あまりにも無邪気すぎる幼い顔だったと言った方が正確かもしれない。
俺は肩をすくめ、再び『カフェ』へと視線を向ける。
たしかに、悪くない。領主別邸の東屋で飲んだ紅茶も上等なものだったが、こういう風情のある場所で味わう一杯には、また別の趣があるのだろう。
シーラが先に動く。迷うふうでもなく、黒い三角看板の脇を抜けまっすぐ小道へ足を踏み入れた。
俺の左腕を掴んだままだから、当然、俺も後に続くほかなかった。
数歩進んだ途端、香りが強くなる。珈琲の深い香りに、紅茶の微かな甘さが混じっている。この鼻をくすぐる柑橘類のような香りは、最近どこかで出会った覚えがある。
それがどこだったのかは思い出せない。ただ、単なる飲み物の香りではないという確信が、ゆっくりと胸の奥に広がっていく。
きっと、ここで味わう一杯の紅茶は、ただの紅茶ではない。根拠もなく、そう思わずにはいられなかった。
■イチノスがカフェを見つけたお話しは
27-4「街の変遷と静かなひととき」




