29-1「朝の静寂と魔素の流れ」
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王国歴622年6月10日(金)
・店はお休み
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バタン
台所から裏庭へ出る扉が閉まる音で目が覚めた。
薄ぼんやりとした頭の中で、階下に誰がいるのかを考える。
階下から聞こえる足音は静かで、一人分の気配しか感じられない。
そうか、ロザンナが水やりに来たんだろう。
カーテン越しの外光は、それほど強くなく、曇っているのか、それともまだ朝早いのか。
いや、ロザンナが来ているなら、いつもの時間だろう。
そう思って時計を見れば、いつもの8時前だった。
今日は店が休みだから、ロザンナも起こしには来ないだろう。
そう勝手に考えて、俺は布団の中で目をつむり、昨夜の出来事を思い返した。
風呂屋の湯気。大衆食堂の騒がしさ。そして、リザードマンを『リュウジン』と呼ぶ件での給仕頭の婆さんとの会話が脳裏をよぎる。
『さすがに私も、リザードマンとは会話したことはないね』
何気ない問いかけだった。だが、婆さんは俺の言葉に少し眉をひそめていた。
『そうかい。リザードマンって言い方は、あの人らにとっちゃ、よくないんだね』
〉よくない
俺はその言葉を昨夜から何度も反芻している。
種族としての呼び方について、当の種族が意見を持つのは当然だ。
だが、それをどう受け止めるべきなのか。
俺は自分のことを『ハーフエルフ』と称しているが、それが適切な呼び方なのか、考えたこともなかった。
単なる言葉の問題なのだろうか、それとも種族としての誇りに関わる何かと考えるべきか⋯
布団の中で掘り下げて考えそうになったが、強い尿意が俺を階下へと急がせる。
俺は適当に着替えを済ませ、階段を降りて行った。
◆
「イチノスさん、おはようございます」
用を済ませて台所で手を洗っていると、俺の背後からロザンナが朝の挨拶をしてきた。
「おう。おはよう、ロザンナ」
「朝の御茶を淹れますか?」
「頼んでいいのか?」
「はい、直ぐに淹れますね」
そう告げて、ロザンナが俺のマグカップを手にする。
今日は店としては休みだから、従業員として雇ったロザンナにそうしたことは頼みがたいが、ここは任せよう。
ロザンナと作業場へ向かうと、既に作業机の上には『水出しの魔法円』と『湯沸かしの魔法円』、それに薄緑色のティーポットとロザンナの空のマグカップが置かれていた。
俺はロザンナと向かい合って静かに朝の御茶を啜った。
朝の御茶は澄んだ香りを立ち昇らせ、無言のまま喉を潤す。なぜ無言かと言えば、ロザンナと二人で過ごす時間は稀だからだ。
よくよく考えてみれば、こうしてロザンナと二人で過ごすのは初めてじゃないだろうか。ふと、そんな思いが胸をよぎる。
「イチノスさん」
ロザンナが口を開いた。
静寂を破るその声は、まるで水面に落ちた小石のように、朝の空気にさざ波を広げる。
「昨日の帰りがけに渡された手紙は、きちんと祖母と祖父に渡しました」
俺は頷きながらマグカップを置く。
ロザンナも話題に困ったかのように、昨日頼んだ手紙の件を持ち出したのだろう。
「おう、頼んで悪かったな。何か言ってたか?」
ロザンナは少し目を伏せ、考えるように間を置いた。そして、落ち着いた声で言葉を紡ぐ。
「祖母から、イチノスさんのいうことをきちんと聞くように言われました。それと、魔石を貸してくれたお礼はきちんと伝えるように言われました」
「魔石の件は気にするな。店で働くには必要な物だからな」
そう答えて、ロザンナへ目をやれば、胸元に手を置いていた。そんなロザンナの横顔を、朝の光が窓から差し込み、淡く照らしている。今もその胸元に魔石を下げているのだろう。
魔素を見えるようにする件は⋯
「もしかして、今朝も先生からやってもらったのか?」
「いえ、毎日はダメだといわれてます。様子を見ながら、週に一度ぐらいが良いだろうと言われました」
どうやら、先生は魔法学校時代と同じ手順で、ロザンナに処置をしていくようだ。
「そうだな。『魔法円』を描いて、毎日魔素の通りを確認していれば、先生からの処置は週に一度で十分だろうな」
「イチノスさん、それって、もしかして魔法学校でもそうだったんですか?」
「そうだな。今でも思い出すよ。魔素が見えていない生徒に、先生が処置するのは週に一度だったな」
「それで、結局、最後は見えるようになるんですよね?」
「そこは安心して良いぞ。先生の処置のおかげで、全員が見えていたな。今もロザンナは、それなりに見えてるんだろ?」
「はい、この『水出しの魔法円』で水を出す時に集中すると、うっすらとですが、どんな風に魔素が流れているのか、なんとなくですが見えてる気がします」
「そうか、だいぶ見えて来てるんだな」
「それで、ですねイチノスさん⋯」
「ん?」
「この湯沸かしだと、水出しほど魔素が見えなくて⋯」
「あぁ、それは気にしない方が良いぞ」
「?? 気にしない方が良いんですか?」
「ロザンナは、水出しで見えた魔素が、湯沸かしではそれほど見えなかったんだろ?」
「はい、そうなんです。これって、私は本当に魔素が見えているのか気になったんです」
「そこは気にしなくて良いぞ。むしろ水出しで魔素が見えていることの方が、そうした技能が身に付いていると考えられないか?」
「⋯⋯」
ロザンナが黙って俺の話に耳を傾けているが、その姿には既視感があるな。これは、ロザンナが考えを深めた時の黙する癖が出ているのだろう。
「ロザンナ、落ち着いて聞いてくれるか?」
「はい、イチノスさんの話はきちんと聞いてます」
はいはい、先生にも言われてるんですよね(笑
「ロザンナは水出しを描いて魔素の通りを確認して、魔素が見えてきた。けれども、湯沸かしだと魔素の流れが見えづらいんだよな?」
「はい、そのとおりです」
「それなら、次に湯沸かしを描いて、同じように魔素の通りを確認するのを経験すれば、湯沸かしでも魔素の流れが見えてくると思わないか?」
「そ、そう言うものなんですか?」
「そう言うのを重ねていけば、段々と魔素が見えてくるんだよ」
「あの⋯ イチノスさん、センパイから言われたんですが、魔素を見る時に、魔石から取り出した魔素を目に集めようとするとよく見えるって聞いたんですけど⋯」
ロザンナが言わんとしているのは、サノスが魔素を見るためにやっている行為のことだろう。
「あれって、身体強化ですよね?」
「まあ、そうだな」
そこまで答えて、ロザンナが何を言わんとしているのかがわかってきた気がした。
「ロザンナ、もしかしてサノスと同じ方法を試したいのか?」
「それで見えるようになるなら⋯」
「ロザンナ、それは急ぎすぎじゃないか?」
「急ぎすぎ? ですか?」
「ロザンナは、身体強化を使えるのか?」
ロザンナは首をブンブンと横に振る。
「サノスの場合は、多分だが、自分で集中すると見えると言っていたから、その方法を昔から使って練習を重ねていたんだろう。それで独自に身体強化を覚えた可能性があるな」
「⋯⋯」
「今のロザンナは水出しで経験を積んで見えてきたんだ。次に湯沸かしも経験すれば、それなりに湯沸かしでも魔素が見えるようになるぞ。その点については俺が保証するから」
できることなら、ここまでの説明でロザンナには理解してほしいのだが、まだ難しいかもしれないな⋯