27-5「貴族街の扉」
ようやく貴族街を囲む壁が見えてきた。
背丈を超えるその壁の内側には、貴族とその従者たちが暮らす『貴族街』が広がっている。
今、この『貴族街』には、俺の母親が身を寄せているウィリアム叔父さんの領主別邸があり、ほかにはリアルデイル南方のストークス領を治めるストークス家の領主別邸がある。また、かつてリアルデイルの北部を治めていた旧男爵家の別邸も存在している。
この旧男爵家は、『旧』と付くことから察するに、既に爵位を返上したのだろう。
コンラッドによれば、先ほど通ってきた東町北に並ぶ大きな商家や商会、さらに豪農と旧男爵家にはいくつかの関係があったらしい。
以前に来た時は、就任式だったから、あれから1週間が過ぎているのか。
あの時は迎えの馬車できたので、苦にはならなかった。今日は、ここまで休まずに歩いてこれた自分を少し誇らしく思っても良いよな?
いやいや、店を開く前は週に一度は歩いて通ったんだ⋯
昨日、貸出馬車を頼むのが正解だったのだろうか?
そんなことを考えながら外周通りを渡り、貴族街入口の検問所へ向かうと、二人の衛兵が立っていた。
俺は片手を上げてその二人へ軽く挨拶をすると、二人の衛兵の視線が俺に向かった。
「イチノス様!」
年配の衛兵が声を出すと、互いに顔を見合わせて頷きあった。
◆
「では、イチノス様の先触れに行ってまいります」
「おう、すまないな。コンラッド殿かエルミア殿に知らせてくれ」
二人の衛兵に王国式の敬礼で挨拶を済ませた後、今日の訪問に先触れを出していないことについて話が及んだ。結果として、若い方の衛兵が領主別邸へ先触れに行くことになり、『貴族街』の奥へと姿を消していった。
残った顔馴染みの衛兵に俺は話しかける。
「どうですか? 最近は忙しいですか?」
「いやいや、今朝で一段落しましたよ」
年配の衛兵と世間話を交わすと、彼から『今朝で一段落』という微妙な言葉が返ってきた。
「そうですか、今朝の出立だったんですね」
「!!」
俺がそれとなくウィリアム叔父さんが今朝の出立なのかを問い返すと、年配の衛兵は少し動揺した様子を見せた。
それ以上に動揺が続かぬよう、俺は手で落ち着くように合図を送ると、年配の衛兵は周囲に聞かれぬよう小声で続けた。
(イチノス様のお察しのとおりで、本日の朝一番に出発されました。すれ違いになってしまいましたね)
その言葉で、俺はすべてを理解した。今日の朝一番で、ウィリアム叔父さんはリアルデイルの領主別邸を出発したのだ。多分、ウィリアム領の領都であるダマサイルへ戻ったのだろう。
これ以上ウィリアム叔父さんの行き先について具体的に掘り下げるのは、この口を滑らせた衛兵を責めることになる。ここは口調を合わせておこう。
「ここ数日は忙しくて来れなかったんですよ。まあ、また会えるさ。そんなに気にしないでくれ」
「ありがとうございます。それでは今日は?」
「あぁ、母とコンラッドに用事があって来たんだよ」
「歩いてこられたんですか?」
「前はいつも歩いてただろ?(笑」
「そうでしたね。これは失礼しました(笑」
◆
その後、年配の衛兵とリアルデイルの街の様子や、シーラが領主別邸を出た話などをして時間を潰していると、先ほど先触れに向かった若い衛兵が小走りに戻ってきた。
「はぁはぁ、イチノス様。エルミア殿へ到着の伝達を願いました」
息を半分切らせながら、若い衛兵が軽めの敬礼で伝えてくる。
「ありがとう。走らせてしまってすまなかったな」
「いえ、とんでもありません」
「では、イチノス様、お通りください。道案内は不要ですよね?(笑」
俺と若い衛兵のやり取りを聞き終えた年配の衛兵が、検問所の入口を開けて俺を中へ通すと、面白い冗談を言ってきた。
「あぁ、まだ忘れてないよ(笑」
半笑いで冗談に答えて、俺は『貴族街』の奥にある領主別邸へと足を進めた。
そういえば、あの年配の衛兵は以前にも、時折、冗談を口にしていたな。
あの年配の衛兵は、朝も晩も風の強い日も検問所にいた記憶がある。俺が領主別邸に住む母を頼った一年前には、既にあの検問所に立っていた気がするな。
きっと、俺が店を開いた雪の積もった日も、あの検問所に詰めていたのだろう。
この貴族街に住む住人を守るために立ち続けるのが衛兵の仕事なのだと言われればそれまでだが、俺にはできない仕事だな。考えてみれば、店の前の交番所に勤める女性街兵士たちも、あの衛兵と同じで俺と店の周辺の治安を担ってくれているのだ。もっと感謝するべきだな。
そんなことを考えながら歩く貴族街の道は綺麗に整備されていると共に、ゴミが一つも落ちていない。以前にも思ったが、とにかくこの貴族街は市井の一般庶民が足を踏み入れることはなく、とても清潔で静かな場所だ。
さらに貴族街の奥へと足を進めると、やがて目的の領主別邸が視界に入ってきた。
相変わらず敷地の外から続く石畳は、その隙間から所々で芝生が顔を覗かせながら、ここまで続いていた。
今日も周囲には丁寧に整えられた花壇に色とりどりの花々が鮮やかに彩っている。
ここに身を寄せていた頃から感じていたが、この場所はまるで時間がゆっくりと流れる幻想的な空間として、訪れる者の心を魅了しているようだ。
そうした風景に似合っているのか似合っていないのか微妙に理解できない調和を見せるのが、領主別邸本館入口の重厚な扉だ。
今日はその重厚な扉の前にエルミアと、若そうなメイドが立っていた。どうやら俺を出迎えてくれているようだ。
「イチノス様、おかえりなさいませ」
エルミアが実に美しい姿勢で頭を下げてくる。その隣で若いメイドも、なかなかの姿勢で丁寧に頭を下げていた。
「エルミア ただいま」
そう応えながら、俺はこの若いメイドの名前を知らないことに気が付いた。未だに頭を下げている若いメイドに目をやると、それに気づいたエルミアが口を開く。
「イチノス様、未だに若い者に名乗る機会を与えられず申し訳ありません」
エルミアの声に促され、若いメイドが顔を上げた。
「イチノス様、本日のお世話をさせていただきます、アナスタと申します。私から名乗りますこと、どうかご容赦願います」
それだけ告げると、アナスタと名乗ったメイドは再び頭を下げた。
その顔で記憶を辿ると、彼女は就任式の際、東屋で俺とシーラの世話をしてくれた若いメイドであることに気づいた。
「アナスタさん、イチノス・タハ・ケユールです。今日はお世話になります」
そう挨拶すると、エルミアは胸を張った姿勢で告げてきた。
「イチノス様、アナスタは本日が初めてのお客様専属の世話係を勤めます。ご無礼がございましたら、このエルミアまでお申し付けください」
「エルミア、ありがとう。そしてアナスタさん、よろしくお願いします」
そう告げて軽く会釈すると、ようやくアナスタが頭を上げてなぜか紅潮した顔を見せてきた。
■就任式での領主別邸
19-14 ローズマリー先生とのお話し