26-13「紅茶と魔法の水」
「アリシャさん、ごちそうさまでした。とても美味しかったです。下げ物は⋯ どうすれば良いですか?」
「はいはい、シーラさん、大丈夫よ。気にせず出してね」
出されたカレーを食べ終え、ラッシーも飲み干したシーラは、下げ物の扱いに一瞬迷ったが、アリシャさんの言葉に甘えることにした。
俺もアリシャさんの言葉に甘えて下げ物を出すと、カウンターの向こうで待ち構えていたアリシャさんが、慣れた手つきでそれをさっと受け取った。
「イチノスさん、次は約束の水出しね。ちょっと待ってね、水瓶を持ってくるから」
水瓶を持ってくるって?
「いや、アリシャさん、ちょっと待ってください」
「えっ?!」
「水瓶の大きさにもよりますが、水を溜めたら重くて運べないんじゃないですか?」
「あっ!」
「どうします? 私が厨房へ入って直接、水瓶に水を出しましょうか?」
「ダメっ! それは絶対にダメ!」
アリシャさんは強く否定して俺を見つめた後、少し落ち着いてから説明を始めた。
「あのね、厨房に人を入れると、カレーの作り方が⋯」
「あぁ、そういうことですね。わかりました。それじゃあ、鍋か何かがあれば、それに水を出しますんで、何回か運ぶことになりますが、それでお願いできますか?」
「そうね、それなら助かるわ。ジュリア~ 空いてる鍋があるわよね~」
そう言いながら、アリシャさんはカウンターの向こう側で下げ物を手にして、厨房へと消えていった。
「イチノス君、そう言うことだったのね(笑」
「ん?」
「なんでイチノス君が水出しを持ち歩いてるのか疑問だったんだけど、ここで水を出すためだったんだね(笑」
アリシャさんが厨房へ消えたところで、シーラが聞いてきた。
「ククク 実はそうなんだ。アリシャさんが紅茶に使うために水出しが欲しいって店へ来てくれたんだが、値段が高額だと分かって、カレーと交換で水を出す約束をしたんだよ(笑」
「紅茶かぁ⋯ 確かに水出しで出す水は軟水だから、井戸から汲む水より紅茶に合ってるね」
シーラが納得したような返事を返してきた。
俺としては、紅茶を楽しむために水出しを求めるアリシャさんの姿勢には少しだけ賛同できる。
もしかして、シーラも同じ考えなのだろうか?
そんなことを思っていると、さっそく、アリシャさんが小振りな両手鍋を手に戻ってきた。
「イチノスさん、まずはこの鍋でお願いね」
それから、アリシャさんとジュリアさんが交互に鍋を持ってくるたびに、俺は『水出しの魔法円』を使って次々と水を出し続けた。
何度目か分からないほど水を出したところで、厨房の方からジュリアさんの声が聞こえてきた。
「マミィ それで最後だね」
その声に続いて、ジュリアさんが厨房から戻ってくると、俺とシーラに向かってアリシャさんが感謝の言葉を告げた。
「イチノスさん、シーラさん、今日はありがとうございました。これで美味しいカレーと紅茶をお客さんにお出しできます」
「いえいえ、こちらこそカレーをご馳走していただいて感謝しています」
俺が礼を述べるとシーラも感謝の気持ちを伝えて行く。
「アリシャさん、私までご馳走していただいて、本当にありがとうございます」
「いいのよぉ~ 気にしないでぇ~」
アリシャさんの返答を聞いたところで、シーラが問い掛けた。
「カレーをご馳走してもらった身ですが、少しお聞きしても良いですか?」
「はい? 何でしょう?」
「少し変な質問かもしれませんが、もしかしてイチノス君が出した水でカレーを作るんですか?」
「あら、もしかしてシーラさんは気になるの?」
「はい、少し気になる点がありまして⋯」
「???」
「アリシャさんが水にこだわりを持っていると伺ったのでお話ししますが、イチノス君が出した水、つまり『水出しの魔法円』で出した水は、かなりの軟水なんです」
「シーラさん、もしかして、硬水と軟水の違いがわかるの?」
シーラの言葉にアリシャさんが前のめりになった。
「正確な硬度まではわかりませんが、それなりに違いは感じます。特に紅茶を淹れるときは、水の硬度にこだわったことがあるんです」
「えっ! シーラさん、紅茶を楽しめる方なの?!」
シーラの言葉は、アリシャさんの興味を十分にくすぐるものだった。
だが、アリシャさんの斜め後ろで話を聞いていたジュリアさんは違った。
半歩後ろに下がり、背を向けたのだ。
これは、アリシャさんとシーラの話が長くなると察しての行動だろう。
「えぇ、例えばダージリンは軟水で淹れると、繊細な香りや味を引き立たせてくれます。アッサムはしっかりしたコクを引き出すために、少し硬度が高い水が向いているので、先ほどの水出しの水と井戸の水を混ぜたのが良いと思うんです」
「ちょっと待ってシーラさん! もしかしてシーラさんはダージリンとアッサムで水を変えるのまで知ってるの?!」
「ええ、知ってますけど⋯」
「じゃあ、セイロンはどう?」
「セイロンは、爽やかで柑橘系の香りが特徴ですが、軽い渋みも捨てがたいので、同じ様に井戸水と混ぜて硬度を調整して香りと味のバランスを引き出すのもアリだと思うんです」
「凄いわ! シーラさん凄いわよ!」
このアリシャさんの言葉で二人が加速してしまった。
「アリシャさん、そんなに褒められると、恥ずかしいです(笑」
「シーラさん、恥ずかしがることじゃないのよ。紅茶の茶葉に合わせて水の硬度で味わいが変わるのを知ってるなんて、本当にすごいことなのよ」
「あの⋯ それでカレーの話に戻っても良いですか?」
「そうね、そうよね。それが一番大事よね。イチノスさんが出してくれた水、シーラさんはやっぱりカレーには向いてないと思うの?」
やっぱり?
アリシャさんは、俺が『水出しの魔法円』で出した水はカレー作りに向いていないと知っていて、シーラと話していたのか?
「正直に言いますけど、あの水では灰汁が出にくいと私は思います。アリシャさんが作るカレーは、肉も野菜もしっかりと灰汁が取れてますよね?」
「ふふふ、そうよ。シーラさんはそこにも気が付いているのね?」
「はい。これだけ丁寧に灰汁を取って、これだけ丁寧に野菜の旨味を出した料理は、本当に素晴らしいと思います」
「あら、嬉しい褒め言葉ね~(笑」
シーラとアリシャさんの会話が一段落した時、待ちきれなくなったのか、ジュリアさんが動き出した。
棚から何かのメモを手に取り、アリシャさんに声をかけた。
「マミィ そんなにシーラさんとお話ししたいなら、日曜日のこれにお誘いしたら? さあ、明日の仕込みを始めるんでしょ」
その後、アリシャさんは明日の仕込みのためか、渋々ながらジュリアさんに連れられて厨房へと消えていった。
俺とシーラはそんな二人に再びカレーのお礼を告げ、共に店を出た。
カランコロン
店を出て気が付いたのだが、既に出入口には閉店を示す札が外に向けられている。
どうやら、俺とシーラはランチ営業の終了間際に店に来ていたようだ。
外へ出ると、この季節にしては温かな風が頬を撫で、少しだけ心が軽くなる。
店の出入口に繋がる数段の階段を降りて行くと、シーラがカレーの感想を述べてきた。
「カレーって本当に美味しい料理ね。見た目は刺激的だけど(笑」
「ククク、確かに刺激的だな。一緒に出てきたラッシーはどうだった?」
「あれってヨーグルトの牛乳割りよね。使ってる甘味は蜂蜜な気がする。カレーと良く合っていて美味しかったわ」
カランコロン
サノスと同じ感想だなと思ったその時、後ろでカレー屋の扉が開く音がした。
振り返ると、アリシャさんが店の扉を開けてこちらを見ていた。
「シーラさ~ん、日曜日は必ず来てね~」
「はいはい。マミィは、明日の仕込みを済ませようね」
カランコロン
ジュリアさんの声が聞こえたと思ったら、アリシャさんが店内に引き込まれ、それと同時にカレー屋の扉が閉まる鐘の音が耳へ届いた。