26-12「曼荼羅とスパイスの記憶」
ジュリアさんから受け取った黒い名刺を手にしながら、俺とシーラは互いに名乗りを済ませた。
俺たち以外に客のいない静かなカレー屋で、スパイスの香りが漂う中、初対面同士の少し緊張した雰囲気が流れた。
その名乗りの中で、俺とシーラの職業の話になり、特に隠すこともなく『魔導師』であることを伝えた。
「イチノスさんが魔導師だっていう話は、母から聞いていたけど、本当にそうだったんですね。しかも、同じ魔導師のシーラさんまで一緒に来てくださるなんて光栄だわ」
ジュリアさんの言葉から、アリシャさんとジュリアさんが親娘だということを知ることができた。
アリシャさんとの親娘関係を口にしたジュリアさんは、シーラへ向かって小さく身を乗り出している。
これは、ジュリアさんがシーラに対する興味を深めている証拠だ。
「シーラさんも魔導師ってことは、魔法使いさんよね?」
そう告げたジュリアさんは、俺とシーラを交互に見ながら言葉を続けた。
「やっぱり、いろんな魔法が使えるの?」
「⋯⋯」
「まあ、それなりですね」
ジュリアさんの期待に満ちた視線を受けて、答えを選ぶシーラに代わり、俺が軽く肩をすくめて曖昧に返事をした。
魔導師の流儀として、こうした興味本位な問い掛けには、どんな魔法が使えるかを自分から具体的には口にしない。
シーラの視線を感じて目をやると、少し作られた笑顔で俺を見返してきた。
「ジュリアさんは、どんな魔法が希望なんですか?」
シーラが笑顔を添えてジュリアさんへ問い返した。
これも魔導師としての定番な返しだな。
「そうねぇ、幸せになれる魔法が良いかなぁ(笑」
ジュリアさんは優しく微笑み、少し照れくさそうな返しをした。これはある意味で面白い返答だ。
時に『金貨が100枚出る魔法』とか『両手いっぱいの宝石が出る魔法』とか、そんな己の欲望を全開にした返答はよく聞く。
そんな時には、『そんな魔法があったら、私はここにはいないですよ』と答えるのが魔導師の常だ。
ジュリアさんの返事は抽象的だが、それでも今の自分が何を求めているかを『魔法』に絡めて素直に表現している。
そんなことを思いながら、俺はシーラと共に軽く笑ってしまった。
「ジュリア、イチノスさんとシーラさんにランチを二つお願いね」
突然、アリシャさんの声が響いた。
彼女は会計の後処理をしているらしく、店の出入口近くのレジから動かずにジュリアさんに指示を出している。
ジュリアさんは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐにお仕事モードに切り替えた。
「は~い」
彼女は慣れた手つきでエプロンのポケットから伝票を取り出し、俺たちに向き直った。
「シーラさんもイチノスさんも、辛いのは大丈夫?」
「私はこれで三度目ですけど、シーラは今回が初めてですね」
「うんうん」
「シーラさんは、カレーは初めてなのね。香辛料は平気?」
「香辛料? コショウくらいなら大丈夫です」
「じゃあ、たぶん大丈夫ね(笑」
このやり取りに、なんとなく既視感を感じる(笑
「ランチの飲み物はどうする? コーヒー? 紅茶? それともラッシー?」
「ラッシー?」
シーラが不思議そうに首をかしげた。
「そうだね、シーラさんは知らないよね。ラッシーはヨーグルトと牛乳に少し甘みを加えた飲み物よ」
「イチノス君は何にする?」
ジュリアさんの説明を聞いたシーラが、俺の顔を見ながら尋ねてきた。
「俺はラッシーだな」
「じゃあ、私もラッシーにします」
「二人ともラッシーね。ちょっと待っててね」
そう告げて、ジュリアさんはカウンターの向こう側で厨房に姿を消した。
隣に座ったシーラは、興味深そうに店内をぐるりと見渡している。
初めて入る場所だから、彼女の目を引くものが多いのだろう。狭いながらも落ち着いた雰囲気の店内に、独特の異国情緒が漂っている。
やがて、シーラの目が壁に掛けられた一枚の絵に留まった。それは、俺が初めてこのカレー屋に来たときに目を引かれ、思わず席を立って近寄って見たものだ。
「あの絵⋯」
シーラが小さな声でつぶやく。
そのとき、いつのまにかカウンターの向こう側に戻ってきたアリシャさんが、シーラへ問いかけた。
「シーラさん、曼荼羅に興味があるの?」
「えっ?! いや、興味というか⋯ 何だろうと思って気になったんです」
シーラが戸惑いながらも正直に答える。
「そうよね。王国の人たちは、曼荼羅を見る機会はあまりないかもしれないわね」
「この絵、曼荼羅っていうんですか? どんな意味というか、何を表現している絵なんですか?」
「これはね、輪廻転生を表現しているの」
「輪廻転生?」
シーラはアリシャさんの言葉に首をかしげた。
一方の俺はここ数日の出来事を思い返していた。確か、コンラッドの助言で教会を訪ねたとき、教会長のベルザッコさんやシスターから聞いた話に『輪廻転生』があったはずだ。
そうだ、あの日、初めてこのカレー屋を訪れる前だった。教会で『輪廻転生』という言葉が出てきたのだ。この言葉が『賢者』の成り立ちに大きく関わっているという話だった。
他の世界で培った知識と経験をそのまま持って生まれ変わる者、つまり転生者が、この世界で『賢者』になるのだと説明を受けたのだ。
「そう、人が生まれて、この世界で生きて、そして亡くなってからどうなるかを描いた宗教画なのよ」
「宗教画⋯⋯」
シーラが小さくつぶやきながら、再び絵をじっと見つめた。
そこまで話したアリシャさんが、急ぎ足でカウンターの内側から出てきて、壁に掛けられた話題の絵を指差して説明を始めた。
「一番上に『天』の文字があるでしょ。あれが神様や、神様が住む天域を表現しているの。そしてその右側にある『人』が、私たちのような人や、人が住む人域を示しているの」
シーラと俺は、黙ってその説明を聞きながら、絵に描かれた象徴的な文字をじっと見つめた。
「そして、その下の『畜』が、家畜とかの人以外の動物たちを表しているのよ」
「『天』と『人』⋯ 『畜』⋯ それに続く⋯」
シーラが椅子から降りて、アリシャさんの隣で絵を指差しながら問い掛けた。
「は~い、まずは飲み物のラッシーねぇ~。すぐにカレーも出すわよ~」
その時、絶妙なタイミングでカウンターの向こう側から、ジュリアさんがラッシーを出しながら声を掛けてきた。
◆
曼荼羅の説明よりも、カレーを楽しんでもらいたいというアリシャさんの気遣いから、シーラは椅子に戻った。
しかし、先程から彼女は出されたカレーをじっと見つめている。
俺は食べ始めようとしたが、シーラはまだ手をつけず、カレーをじっと凝視している。
うん、この光景は以前、サノスと一緒に来た時にも見たな(笑
「イチノス君、これを食べるの?」
ついにシーラが、ためらいがちに俺に尋ねてきた。
「あぁ、美味いぞ。まずはこのチャパティを千切って、それに少しだけカレーを乗せて食べてみようか?」
「そうだね。イチノス君もお姉さまも食べたんだし⋯」
シーラは意を決したようにチャパティを千切り、スプーンでカレーを掬ってそれを乗せると、口へ運んだ。
「んん~」
ククク やっぱりサノスと同じ反応だな(笑
俺は何も問い掛けずに、自分のカレーとチャパティを食べ進める。やっぱりアリシャさんのカレーは美味い。
そう思った瞬間、シーラが呟いた。
「辛くて『刺激的な見た目』と味わい⋯ お姉さまの言葉の意味がわかったわ」
シーラはスプーンでカレーを掬い、そのまま口へ運んでいた。
─曼陀羅の図─
上
『天』
『修』 『人』
『餓』 『畜』
『地』
下