再会【1】
光莉が去って、いくつかの季節が過ぎたけど、そのどれも、どうやって過ごしてきたかを思い出す事ができない。
けれど、光莉がいなくなった直後の事は、昨日の事のようにリアルに思い出して、胸が苦しくなる。
光莉がある日突然マンションからいなくなり、音信不通になった。共通の友人に連絡したが、誰も事情も行き先も連絡先も知らなかった。
翌日出社してみたら、退職の辞令が出ていた。
人事に詰め寄っても、当然何も教えてくれなかったが、僕が社長室まで押しかけようとする様子に慌てて、1ヶ月以上前に退職届は出されていて、通常の手続きを踏んだものだという事だけ教えてくれた。
そんなに前から準備を進めていたのに、全く気づかなかったのか…と絶望した。
確かに事情があってここ数ヶ月、出張や休日出勤や残業が多く、すれ違いの生活だった。大きい取引をいくつも掛け持ちしていて、本当に余裕がなかった。ここまで必死になったのは生まれて初めてだった。
最後の日の朝、光莉はどんな顔して見送ってくれていただろうか。最後に抱いた夜、光莉はどんな表情を浮かべていた?最後に家で夕食を食べた時は…最後に出かけた時は…。
必死で記憶を辿るが、別れに近くなればなる程、光莉の顔は霞かかったように朧げになるのだ。
それなのに、桜を見れば光莉と花見をしたことを思い出し、クーラーをつければ、光莉は寒がりだから設定温度を上げてあげなければと思う。
その次の瞬間、どうしようもない喪失感に苦しむと分かっていても、僕の脳は、心は、いつだって光莉とともにあるのだ。
仕事にとにかく没頭する。光莉のことを考える隙を、自分に与えない為に。
上司の環さんは、僕のプライベートに踏み込もうとしたから然るべき手を打った。
元々上司と部下にしては距離が近すぎると思っていて、周囲にある事ない事噂されることにも辟易していたからちょうどよかった。
マーケティング部も営業部も、光莉がいなくなって改めて彼女の存在の大きさに気づいたようだ。
光莉が退職後しばらく、マーケの資料の質が落ちたとクレームが相次ぎ、取引もいくつか落としたらしい。中には僕に、何で光莉が辞めるのを止めなかったんだと文句を言ってくる奴もいて、屍になっていた僕も、その時ばかりは「何も知らないくせにふざけるな!」と怒鳴ってしまった。
しばらく社内の人間関係が気まずくなったが、そんなの知った事か。
今日も来週の戦略会議の資料に手を入れつつメール処理をしていく。
適度に忙しいのは、落ち込む時間が減るからありがたい。
「おーい、これから台風が都内直撃するらしいから、残ってる奴、速やかに帰る事ー!」
統括がフロアに入るなり声を張った。
この人、こういう時は異様に仕事早いよなって、小声で囁きながら、各々帰り支度をする。
チームリーダーという立場上、メンバーが帰るのを見届けてから退社する決まりだ。明日も交通機関が乱れる事が予想されるため、リモートワークの準備をしながらメンバーを見送る。
「さて、そろそろ帰るか…」
残り数人になったフロアは端まで見渡せるため、無意識にマーケティング部のデスクを見る。
光莉がいる訳もないのに。
学習しないな、僕も…と頭を数回横に振りながら思う。
エレベーターを降り、エントランスを出て、オフィスがあるビルの地下から駅に向かう。
「JR線、強風で線路に木が倒れた影響で、運転を見合わせております。地下鉄東京メトロへの振替輸送をご利用下さい」
ごったがえす駅構内。
これは早々に離脱しないと身動きが取れないやつだと判断して、地下鉄改札へ急ぐ。
遠回りにはなるが、乗り換えれば最寄り駅まで1時間もかからず到着できる。
帰宅ラッシュはとうに過ぎた時間だが、同じようにJRから流れてきた乗客で既に満員だ。
ビジネスリュックを前にかけて、左手で吊革を持ち、右手のスマホ画面を見たその時。
パッと、艶やかな黒髪が視界に入った。
目の前に座っている女性から目が離せない。
とっさに左手首を確認する。
シルバーの時計をつけている。僕はその時計を知っている。
外して裏を返せばある文字が刻印されている時計だという事を、知っている。
心臓の音がうるさい。
息がうまく吸えない。
変な汗も出てきた気がする。
信じられないことに、スローモーションのようにゆっくりと、艶やかな黒髪の小さな頭が動いた。
長いまつ毛が瞬き、ゆっくりと、とても慎重に、僕の足元から視線が上がる。
そして透き通った、少し潤みがちな黒目が僕を捉えて、一際大きく見開かれる。
「…っ!」
喘ぐようにして、絞り出すようにして呼ぶ。
その名前を。
「ひか…り…」