36 さらさら長髪は必要悪
大きな窓と、全体的に明るめの白を基調としたインテリアのおかげで、談話室の中は他の部屋よりも明るさに満ちている。
窓から差し込む光を受けたその人の表情はやや愁いを帯びていたが、それすらも一幅の絵画のように見えた。
その光景のあまりの美しさに、一瞬時間が止まったような錯覚さえ覚える。
――え、どういうこと? 神々しくない?
何でシドニア先生の髪が短くなっているの?
髪が短い先生なんて、シドニア先生じゃなくてリュカ兄様みたいに見えるじゃない!!
あ、いや、それで間違いないんだけれども!
少なくとも昨日までのシドニア先生はさらさらロングヘアーだったはずよ? ということはさっき切られたってことよね? え、そこまでする?
……一番の問題は、私の好みどストライクな見た目になっているっていうところよ。談話室に入った瞬間奇声を上げそうになったわ。
談話室に入るなり固まった私に、お母様は目を細めた。
多分あれ、扇で隠した口元がにんまりと笑んでいるはずだ。私のストライクゾーンを分かっていて、そちらに寄せてきた犯人はお母様なんでしょうね……。
それを分かっているのかいないのか、お父様が座っていたソファから立ち上がって私の方へ歩み寄ってくる。
「私の天使! いや、今日のユディは天使というよりも花の妖精だね。ああ、この美しさはもしかしたら本当に妖精なのかもしれないな!」
「あら、でしたら私は妖精の取り替え子ですね」
「もしそうだったら取り替えられた私の美しい娘がもう一人いることになるね。その子が我が家に帰ってきたら、ユディの部屋の隣をその子のために整えないといけないな。壁紙は何色が好きだと思う?」
ぽ、ポジティブ~!
この流れるような切り返し。お父様は今日も絶好調ね。
そこの先生、ドン引きした顔をするのは修行が足りませんわよ。
でも通常運転のハイテンションお父様のおかげで、私の脳内には若干の余裕が戻ってきたわ。
心を無にして、私は優雅に一礼する。気を抜くと顔がにやけそうなのよ。
「大変お待たせしてしまい申し訳ありませんでした、シドニア先生。馬車の準備も整っているとのことですので、少し早めですが出発しましょう。パーティーが始まる前にエルダと話をしておきたいのです」
「ああ、分かった」
きっと先生も早くここから立ち去りたかったのだろう。私が声をかけるとすぐに席を立ってお父様とお母様にお辞儀をした。
「それではお嬢様をお預かりいたします」
「ええ、よろしくお願いしますね」
「リュカ君、くれぐれも娘から目を離さないように。こんなに愛らしいユディを、パーティーに来た男達が放っておくわけがないからな」
にこりと微笑むお母様の横で、お父様はまだ寝言のようなことを言っている。家族だけの前なら適当に流すんだけど、他の人がいるときはいたたまれないのでやめていただきたいわ。
「お父様、お戯れはそのあたりでやめてください」
「心外だな、私は本気だよユディ」
まだ言い募ろうとするお父様に、すっとお母様が近づく。
「旦那様。そこまでにしておかないとそのかわいい娘に嫌われてしまいますよ? ――じゃあ二人とも、パーティーを楽しんでいらっしゃい」
そういったお母様が再びにこりと微笑んだ。……ちょうどこちらからは見えない角度だけど、あれ、多分お父様は背中をつねられているわね。
***
そうやって騒がしく送り出されて、やっと馬車の扉が閉まったところで私は小さく息を吐いた。ここまではお父様達との戦い。ここからは先生との戦いよ。
「相変わらず変わった人たちだな、侯爵夫妻は」
「……お恥ずかしい限りですわ」
「いや、あの親にしてこの子ありという言葉の正しさがよく分かる好例だった」
「……『この子』というのは、ユニオン兄様のことを言っているのですよね?」
「君がそう思うのならそうなのだろう」
「ええ、ユニオン兄様のことだと思います」
どうせ私も変わっていますよ。今もストライクゾーンど真ん中のお顔を視界に入れないように頑張っている最中ですしね!
「仲が良いのは良いことだ。私はそういう家族関係が分からないからな」
そうつぶやく先生の声には、少しだけ憧憬がにじんでいるように聞こえた。
「さらりと重い話を混ぜてこないでください。仲が良いというか、先ほどのあれは、父が過剰に親馬鹿なだけですから」
「侯爵閣下の心配は理解できる。――俺も、今日の君はとても綺麗だと思うから」
へ? と思わず先生の顔を見てしまう。
そういう風に褒められるのは初めてなので聞き間違いかと思ったのだけど……視線を逸らして窓の外を見つめている先生の耳は赤くなっていた。
ああ、っていうか……むしろ……。
「そんなことよりも……先生のその髪はなんなんですか? なんで短いんです?」
うめくように言った私の言葉に、先生が戸惑ったようにこちらを向いた。
「そんなこと?……いや、なんだと聞かれても。侯爵夫人が短く切った方が良いというから任せただけだ。そもそも切るのが面倒で伸びただけだったし……切ったらまずいことでもあったのか」
「まずいです。非常に。――だって……」
私は叫びたくなるのを抑えて言葉を切った。
「だって?」
「今まで、長髪に目が行っていたから意識を逸らすことができたのに……その髪型じゃあ、リュカ兄様が大人になったみたいじゃないですか」
「いや、なったみたいというか……君は何を言っているんだ?」
完全に戸惑いの表情になった先生。あああ、そんな顔も好みすぎる。
「つまり、美形過ぎて直視できないんです。成長したリュカ兄様は目の毒です。さらさら長髪は必要悪でした」
「……よく分からないが、長い髪をよく思われていなかったことは理解できた」
「はあ……美形は暴力ですね」
「それを君が言うのはどうかと思うが。――まあ、この格好が君の好みに合ったというなら、朝から侯爵家に連行された甲斐があったな」
「好みに合い過ぎていて困っているんですけれど……」
「いつもこちらが困らされてばかりだからちょうどいいだろう」
そう言って先生はふんと鼻で笑った。
ふむ。先生は意外とご機嫌なようね?
だったら――私は顔を引き締める。
「先生、一つお願いがあるのですが」
「……なんだ」
「眼鏡を外してください」
「嫌だ」
これでもかというくらいにきっぱりと即答されてしまった。
私にとってのリュカ兄様は、髪が短くて眼鏡はかけていない姿なのよ。せっかくなんだから眼鏡かけていない姿も目に焼き付けておきたいのに。
「なんでですか。十秒くらいでいいんです」
「理由はないがなんとなく嫌だ。――それよりも、出がけに言っていたランク嬢に話すことというのは、アスタルテのことか」
「くっ……そうです。アリスさんの入り込んだ場所を把握しておかないといけませんから」
チッ、露骨に話を逸らされた。
でも大切な話だから仕方がない。眼鏡については隙をうかがって外せばいいわ。
「闇への対処が彼女頼りなのはなんとも心許ないな。会場はかなり広いだろう」
「そうですね。ただ、標的になる人物はなんとなく絞れると思います」
「ほう? その人物と根拠は」
「この今の流れが、私の知っている物語の一部であるなら……おそらくこのパーティーは見せ場の一つです。その場合、襲われる相手も物語の中枢に近い人物の方が盛り上がるでしょう? 可能性として高いのは、聖剣として選ばれなかった王子殿下のいずれか、国王夫妻、そして、私です」
「君も?」
「ええ。このイベントにおいては私が標的になる可能性も高いと思うんです。ヒロイン……って言うのは少し抵抗があるのですけれど……とにかく、ヒロインがピンチになったときにヒーローが助けるという展開は王道ですから」
「……物語としての視点か」
「そうです。私が襲われる……もしくは、私がそばにいるときに、さっき挙げた『襲われる可能性のある人物』が襲われる。――ヒロインがその人物を助けようと飛び出して行って、そこをヒーローが救うんです」
そういう展開はときめくでしょう? そういう定番はやっぱり入れてくると思う。
「……君が飛び出すのが前提なのか」
「王族が襲われているのに逃げるわけにはいかないでしょう?」
「アスタルテを王家の連中に貼り付けておけ」
「アリスさんがかわいそうです。むしろ、私がそばにいることが襲われるトリガーになる可能性が高いのですから、私がアリスさんとできる限り行動を共にすればいいのですよ」
見せ場となるゲームイベントなら、当然『ユディト』というヒロインがその中心でそのイベントを観測しなければいけない。逆に言うと、私がいなければ発生しないとも考えられる。
もちろん、私がいない場合も襲撃自体が単独で起こる可能性はある。その場合いつだれが襲われるかは読めないでしょ?
だから、逆に聖剣をそばに控えさせた状態で、私が標的に近づいて、わざとイベントを発生させる方が撃退しやすいんじゃないかしら。
「ああ、なるほど……」
私の説明を聞いた先生は眉間にしわを寄せ、いかにも納得できませんという顔のまま唸った。
「つまり、君が危険な目に遭うのはほぼ確定ということか」
「まあそう言えなくもない、ですね」
先生からしたら、ええと……好きな相手、が、他人を助けるために怪我するかもしれないっていう話なのだからそれは面白くないでしょうね。私だって逆の立場だったら嫌だもの。
でも、ごめんね先生。多分これが一番確実だし、それにあのゲームの性質上、ヒロインが大きな怪我をするってことはないと思うの。……ま、ゲーム通りに行けばの話だけど。
「……そういえば、混乱に乗じて先生の眼鏡を壊すという手もありますね」
「そんな手はない」
話を逸らした私を、先生はむっとした顔で睨み付けた。
「眼鏡が壊れたら、今度は我が家のタウンハウスに滞在してくれますか?」
「な、」
「もちろん私はアカデミアの寮に帰りますけど」
「……」
「あら先生、もしかして何か想像されました?」
「し て な い」
先生はぷいと顔を逸らしてシートに深く背中を預けた。私がクスクス笑っていると、ゆっくりと馬車のスピードが落ち始め、そして到着を告げる声が外から聞こえてきた。




