35 一番美しい姿を
私が聖女として覚醒したら少しはアリスの力になれるのかしら。
覚醒の条件が私の知っているゲームの知識の通りであるなら、引き金になるのは神殿への来訪のはず。
だけど、世界樹の枝を祀っている神殿はアカデミアからは少し離れている。馬車で往復しても一日丸々潰れてしまう距離なのよ。
アカデミアの外出許可を取って、神殿に訪問の約束をして、馬車を用意して貰って……残念だけど、少なくとも週末のパーティー前には無理だわ。
「少しでもユディト様や皆さんの助けになれるのなら、頑張ってみます……!」
アリスはそう言ってくれたけれど、いくら自分に対抗手段があるとはいえ、得体の知れない相手と対峙するのなんて怖いだろうに。
それに、もしも本当に襲撃があって、そしてそれをアリスが撃退したら――もしかしたら国の中枢にいる何十、何百の人がその光景を見ることになるかもしれない。
そりゃあパーティー中に起こった襲撃事件だなんて、王室の力で箝口令が敷かれるでしょうけど、それでもアリスが色々な権力者から目をつけられてしまうのは避けられないでしょうね。
アリスがおかしな派閥に引き込まれたり、意に沿わない縁談を強制されたり……そういうことが起こらないように目を光らせるつもりではいるけれど。
こう考えていくと、聖剣がアレクト殿下だったら全く悩む必要がなかったのよね……次期国王が闇を払えるなんてプラス要素でしかないもの。逆に、一番困ったことになるのはロベルト殿下だった場合ね。第二王子派の方々が玉座を渡せと盛り上がってしまうわ。
うーん、ゲームだったら好きな相手を好きなように選べるけれど、現実だと色々な問題がついて回るのね……。
「お嬢様、動かないでください」
私がため息をついたところで、頭上から冷たい声が降ってきた。
しまった……と、下に落ちていた視線をまっすぐ前に戻して背筋もぴしりと伸ばす。ちょうど、鏡越しに私の髪をくしけずる年配のメイドと目が合ってしまう。
彼女はノンナ。エルミニア侯爵家のタウンハウスのメイド頭で、昔からエルミニア家に仕えてくれている人だ。
「ごめんなさい」
「油断した姿を見せてはいけませんよ。お嬢様はパーティー会場で一番美しい姿を見せつけないといけないのですから」
ノンナは不満げな表情を隠そうともせずに髪をまとめていく。そんな態度だけど手は止まらない。素晴らしい早さできっちりと髪が結われていく光景に、周りで見ていたメイド達が色めき立つ。
これが一体何の儀式なのかというとね。
本日は運命のガーデンパーティー当日。
で、まさに今その身支度をしているところ。
朝からエルミニア家のタウンハウスで、メイド達からよってたかって洗われたり服を着せられたりお化粧されたりして――今はその最終段階、熟練のメイド長ノンナによるヘアセットの真っ最中なの。
普通メイド長が手ずからヘアセットなんてしないんだけど、今日は特別。特別なので現在私とノンナの周りには、熟練の技術を目で盗もうとメイド達が集まって勉強会のような様相を呈しているのよ。
ため息をつくと叱られるので、私は心の中だけで肩を落とした。
ここまでの間、『闇』の襲撃はなかった。――私たちの知らない場所で現れて撃退されていたら別だけど。
襲撃がなかったということは、相手が標的としているのがだれなのかがわからないということでもある。王族? 聖剣? それとも無差別?
平和なのはありがたいけれど、向こうの目的がわからずじりじりしながら日々を過ごすというのはなかなか精神的にくるものがあるわね。
まあとにかくそんな感じなので、気持ちばかりが疲れたまま今日を迎えたのよ。
でも私はまだましね。一番疲れたのはアリスだと思う。
休憩時間や放課後は私たちのところに飛んできて、闇の気配がないか常に気を張りながらパーティーでの作法をたたき込まれたんだから。
で、今日がやっと当日。ここでなにかが起きると決まったわけではない。けど私は何となく襲撃が起きる気がしているの。
なぜなら、今日の会場には Judith tale の攻略対象者が全員集まるから、よ。
アレクト王子、ロベルト王子、フロディン、それにアリス。――これって、襲撃イベントが発生するのにはうってつけの状況でしょう?
アリスはエルダが無理矢理ねじ込んだんだけど、もしかしたらゲームの方でもなにかの理由で参加していたのかもしれない。つまるところ、このガーデンパーティーはゲーム内にあったイベントなんじゃないかしら。
だから、『闇』が現れる気がする。
できればアリスが『闇』を払うところを不特定多数の人に見られたくない。人の口に戸は立てられないからね……襲撃の標的になっている人を特定できて隔離できたら理想的だけど、難しいでしょうね……。
思わずもう一度ため息を落として、そして背後の冷たい空気にヒエッとなって再び背筋を伸ばした。
「……ねえノンナ、そんなに気合いを入れなくても……そこまで格式が高いパーティーではないのだから」
「いいえ。お嬢様は間違いなくこの国で一番美しいんです。王太子妃の最有力候補に挙がっていたくらいなのですから、どんなときも完璧な姿を見せなければなりません。……ええそうです。王太子妃になると信じていましたのに……」
あ、しまった地雷だった。
ノンナは、本気で私がセレスで一番きれいで賢いご令嬢だと信じている。
まあ小さい頃から面倒を見てくれているし、親の欲目みたいなものね。だから昔から私がアレクト殿下のお妃様になるのを楽しみにしていたらしい。なのに蓋を開けてみれば全然違う、男爵家の三男坊だったのだからがっかりもするでしょうね。
さらに言うと、彼女はシドニア先生――リュカ兄様のおうちであるシドニア男爵家を蛇蝎のごとく嫌っている。
ユニオン兄様がリュカ兄様の眼鏡を破壊してエルミニアのカントリーハウスへ連れ去った後、その眼鏡の修理の関係で何回か男爵家との間でやりとりがあったらしいのだけど……どうもそのとき、男爵家の方々の態度が相当ひどかったらしい。
あの頃――多分今もだけど――リュカ兄様は、お兄さんが当主となったシドニア家の中で浮いた存在だった。簡単に言うと邪魔者扱いされていたのよ。
だから別にリュカ兄様が連れ去られようが何の問題もなかったはずなのに、シドニア男爵家はわざわざエルミニアのタウンハウスへ使いを送ってきて、『弟がお世話になっていることには感謝を申し上げる。しかし、壊された眼鏡は前当主が遺した品だった。弟は表に出さないかもしれないが深く傷ついているのではないか心配だ』と、いうことで……まあ、色々理由をつけて、要は慰謝料を寄越せと言ってきたわけね。
ユニオン兄様がリュカ兄様のことを想ってやったことだっていうのは皆知っていたけれど、そうは言っても眼鏡破壊と拉致は事実。結局お見舞いと称して金銭のやりとりが――この辺ははっきり教えて貰っていないんだけど、言葉の端々から推測するに――あったみたい。
そんな感じでエルミニアの使用人の中でシドニア男爵家というのは嫌悪の対象。
リュカ兄様は純粋に(男爵家とユニオン兄様の)被害者だし、彼自身は別に嫌われているわけではないのだけど、彼と親交を結ぶということは彼の家がついて回るということでもある。ノンナを含む、古くから我が家に仕えていて事情を知っている使用人達としては、今の状況にかなり複雑な気持ちを抱いているみたい。
「もちろん、お嬢様の選ばれた方が悪いと申しているわけではありません。旦那様もお認めになっていますし、優秀な方なのは存じております……ですが、あの家の家令の嫌らしい笑い方ときたら……!」
「ノンナ落ち着いて。準備はこれで終わりでしょう? ありがとう、とても素敵にしてくれて。自分でも見違えるくらいだわ」
「取り乱してしまい申し訳ございません……見違えるなどとおっしゃらないでください。お嬢様ご自身の美しさですもの」
「いつもながら大げさに褒めすぎよ」
ノンナだけではなく、他のメイド達も口々に褒めてくれる。さすがにここまで大げさだと、もう苦笑いしかできない。
多分この後、お父様にまた天使だのなんだのと褒め殺されるのよ……。
ほどほどで良いのよ、身内贔屓の褒め言葉なんて。私がこういう言葉を全部額面通りに受け取って勘違い令嬢に育たなくて本当に良かったわね!
「あちらの準備はもう終わっているのでしょう?」
ここにいると賞賛の言葉が環境音みたいに聞こえてきてしまうので早々に移動したい。私の言葉に入り口近くにいたメイドの一人が大きく頷いて笑顔を浮かべた。
「はい。談話室で旦那様がたとお話されています。お嬢様の妖精のようなお姿を見たら美しすぎて驚かれるでしょうね」
「ふふ、そうならうれしいけれど」
はいはい、と笑顔で流して椅子から立ち上がる。
実は今日、リュカ兄様も我が家でパーティーの支度をしているのよ。
娘のエスコートをするなら適当な格好は許さん、という我が家のお母様の一声でほぼ強制的に連れてこられたのよね。しかも、どう考えても私よりも早くに支度が済んでいるはずだから、その間うちの両親と談笑タイムよ。早く行ってあげないとかわいそうよね。
でもその前に、一応姿見の前でくるりと回って仕上がりの確認。
ハニーブロンドの髪は複雑に編み込まれたクラウンハーフアップになっていて、いくつも小さな花が散らされている。ノンナってば本当に器用なのよね。
ドレスは春らしい淡いグリーンに黄色やオレンジの花と白い小鳥の刺繍があしらわれている。――私もゲームのキャラだから基本的に顔が整っているし、明るくてかわいい系のアリスと差をつけるために清楚なお嬢様系の見た目だから、確かに妖精っぽい神秘的な雰囲気になっている。
せっかくなら妖精の魔法で闇が退治できれば良いんだけどね。
「お父様達にご挨拶してから出発するわ。準備を手伝ってくれてありがとう」
満足げな表情を浮かべたメイド達に微笑んで、私は哀れなリュカ兄様救出のために部屋を後にした。




