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33 あなたは私の

 私はアリス・アスタルテ。

 十四才までになるまで辺境の村で静かに暮らしていた――けれど、ある日突然、両親の事故死によって私の世界は一変してしまった。


 両親の遺した手紙に従い訪ねたアスタルテ伯爵のお屋敷は、本当なら、いち田舎娘に過ぎない私なんかが足を踏み入れることはなかっただろうな……というくらいに立派な建物だった。

 そんな、物語の中に出てくるようなお屋敷に住んでいる伯爵夫妻――私の祖父母は私をとても快く迎えてくださった。

 あまりにも場違い過ぎてガチガチだった私を優しく抱きしめてくれたお祖母さまは、今まで何もしてやれずに申し訳なかった、と涙を流した。

 そしてお祖父さまは、亡くなった両親が安心して眠れるように、今後の生活では何一つとして不自由はさせないという約束までしてくださった。

 お祖父様たちのお気持ちはとても嬉しかったし、伯爵家の使用人の皆さんもとても良くしてくださった。爵位は叔父が継ぐことが決まっているので、私はそういうことを気にしなくていいんだそうだ。


 そうして私は伯爵家の一員になった。

 だけど、やっぱり私は辺境の田舎娘。貴族のマナーも、常識も、全くの異文化だった。

 お母さんがお辞儀の仕方とかご飯のマナーとかをちょっとだけ教えてくれてはいたけど、それだってきっと、私が伯爵家に引き取られて貴族として暮らすなんてことを想定していたんじゃなくて、いつか祖父母のところに挨拶に行く日が来たら役に立つかも、くらいに思っていたんだろう。

 だって事故で死ぬなんて、二人の予定にはなかったんだから。

 きっと両親は、私は普通にあの村で大人になって、だれかと恋して結婚して、普通の村人として生きていくと思っていたはず。私だってそう思っていたし。


 でもそれじゃいけないんだ、と気を引き締める。

 引き取ってくれた祖父母にも亡くなった両親にも、恥をかかせてはいけないもの。

 爵位を継ぐ叔父から、お荷物だと思われるような不甲斐ない姿を見せてもいけない。

 いつか、自分の力で生きるすべを手に入れるまではこの伯爵家で生きるのだから。


 話によれば十五歳になったら貴族の子女はアカデミアというところで勉強をするらしい。

 もしそこで優秀な成績を残せれば、女性でも国の重職に就くことができるんだと叔父さまが教えてくれた。それに卒業するだけでもそれなりの仕事に就けるみたい。

 ――でも、逆に少しでも成績が悪ければすぐに退学させられてしまうという。

 優秀とはいえないとしても、せめて退学だけは避けたい。だから私は毎日死にものぐるいで勉強をした。

 でも、困ったのは貴族と平民の習慣や考え方の違い。教科書を読んでもよく分からなくて悩む私に、家庭教師の先生が巷で流行っている恋愛小説を教えてくれた。

 読みやすくて楽しくて、しかも最新の流行まで取り入れられている恋愛小説に私は一気にのめり込んだ。勉強の息抜きとしても、とてもお世話になりました。


 そんなこんなで一年の準備期間はあっという間に終了。

 不安でいっぱいのまま迎えたアカデミアの入学式。

 周りは上品で、綺麗で、自信に溢れた人たちばかり。

 でも、今の私だってアスタルテ伯爵家の姓を名乗る者。

 たとえにわか仕立てのまがい物でも、せめて心だけは負けてはいけない――と、母が大切にしていた髪飾りを髪に挿して震える背中を伸ばした。


 でも、やっぱりアカデミアは甘くなかった。幼い頃から勉強してきた貴族子女ですら振り落とされるという、恐怖の期末試験が刻々と近づいてくる。

 どうしても試験をパスしたいのは山々なのだけど。


 勉強は……他はともかく、外国語は絶望的。さらにそれよりも絶望的なのが実技。

 実技の課題は、歌もしくは楽器演奏、そしてダンス。

 楽器はできないけれど歌は得意だから、音楽の実技はそこまで心配しなくてもいいかもしれないと微かな希望を抱いた――けれど、言い渡された課題曲はまさかの外国語曲。貴族世界では有名な歌らしいけど、あいにく私の暮らしていた辺境の村までは届いていなかったからメロディすら聞いたことがない。せめて一年生なんだからこの国の歌にしてよと声を大にして言いたい。

 そしてもう一つ、ダンス。もう考えるだけで胃が痛くなるくらいにダメダメ。

 授業では基本的な動きが既にできるという前提で進んでいくので、基礎なんてあんまり細かく教えてくれない。それに沢山の生徒がいるから一人ひとりに時間をかけてもらえない。

 「滑るように滑らかに」なんて言われても、私の足には車輪なんてついていないから、あんなふうにするりと平行移動なんてできないのよ。もうちょっと足元の動きをよく見せてほしいんだけど……。


 とにかく繰り返しやってコツを掴むしかない! と考えて、アカデミアの中庭の、人がほとんど来ない木陰で記憶を頼りに先生の動きを真似してみる。

 けど、上手くいかない。我ながら生まれたての子鹿みたいな動き。

 ああ、でも、ダンスばかりじゃなくて勉強もしなきゃ。それに歌も覚えて……。

 頬を伝った雫がポツリと一つ、手の甲を濡らしたあと地面に落ちていった。



***



「アスタルテさん、あなたにとても素敵なお話があるの」


 ダンスを担当する先生が声をかけてきたのはその頃。

 先生が手招きするほうへ行ってみると、そこには先生の隣にもう一人見覚えのある綺麗な男の人がいた。

 確か歴史を担当するシドニア先生だったっけ。若くて美形でしかも優秀な研究者だという話で、クラスの女の子たちがこぞって噂をしていた。先生の授業の受講者は女生徒が多いんだって。

 だけどシドニア先生は一年生の担当じゃないから、私とは接点がゼロ。そんな人が何の用事だろうか、と心の中で首を傾げていると、ダンスの先生がにこりと優しく微笑んだ。


「アスタルテさんは二年生のユディト・エルミニアさんを知っているかしら?」

「え? はい、お名前は伺ったことがありますが……」

「ええ、彼女は有名人ですものね。その彼女が、アスタルテさんのダンスの練習を手伝いたいという申し出をしてくれたの」


 へ?

 先生は何を言っているの? ぱちんとまばたきを一つ。

 貴族はあまり感情を表に出してはいけません、と家庭教師の先生に言われていたけれど、多分このときの私は「何で?」って顔に大きく書いてあったと思う。


「……手伝い?……エルミニア様が、私の、ですか?」

「ええ。本当は私がきちんと指導してあげなければいけないのだけれど、なかなか個別に時間を割いてあげることができなくてごめんなさいね。でもエルミニアさんは本当に優秀な生徒だから、きっと力になってくれると思うわ」

「それは、とてもありがたいお話ですが……」


 正直なところ、今は藁にもすがりたいくらいに困ってる。

 けど――ユディト・エルミニア様といえば、確か侯爵家のお嬢様で、すごく美人で優秀で、男子生徒には高嶺の花って言われていて、えっと確か王子殿下の婚約者候補? だったよね。……そんな人が何で?

 あっ! それよりも指導していただいた場合、何かお返しをしないと失礼だよね? きっと個人じゃなくて家単位? ああでも、位が上のお家にお返しってどうするの? できるの? ……断るのも不興を買っちゃう? どうしよう、家に相談したほうがいいのかな。


「……戸惑うのは分かる。彼女はたまたま君が自主的にダンスの練習をしているところを見かけたそうだ。それで、何か手助けがしたいと申し出てきたんだ」


 私はよほど情けない顔をしていたみたいで、それまで黙っていたシドニア先生が口を開いた。

 でも、その言葉が頭の中で理解できるまでには、ちょっと時間が必要だった。

 自主的にダンスしているところを見たって……あの生まれたての子鹿ダンスを見られていたってこと、ですか!?


「え!? 見て……!? あの、でもそれならば尚更、私なんかに尊い方の時間を割いていただくなんて……」

「アスタルテ。アカデミアの理念は身分制度からの脱却だ。だがそれでも、残念ながら教育を受ける機会は均等とは決して言えない。――だから、君に学ぶつもりがあるのなら、たとえ高位の者の気まぐれであったとしても与えられたチャンスを逃すな」


 真剣な目で、まっすぐと私を見ながらシドニア先生がそう言った。そして、ふと目元を和ませて続ける。

 

「エルミニアは君の努力を笑うようなことはしないから安心しなさい。それに彼女は存外お人好しだ」



***



 その次の日の放課後、練習室に現れたユディト様は、見た目も所作も本当に同じ世界の人なのかなっていうくらいに綺麗だった。

 それに、とても笑顔が素敵だった。


「はじめまして、アリスさん。ユディト・エルミニアと申します。……急にお手伝いをしたい、だなんて驚きましたよね」

「はっ、はじめまして! アリス・アスタルテです! ……エルミニア様にご指導いただけるなんて光栄です!」

「どうぞユディトと呼んでください。異性の場合は家名を呼びますが、同性の場合は名前を呼ぶのが一般的ですから。それに、私は個人的に、名前で呼んでもらえるほうが好きなので」


 ガチガチに緊張して、知っていたはずの名前の呼び方ルールを間違えた私に、ユディト様は丁寧に間違いを正してくださった。最後の一言はきっと私に気を使ってくださったのだろう。

 ふふ、と恥じらうように微笑むその笑顔が素敵すぎて、同じ女性だというのに私の頬はカアッと赤くなってしまう。


 そんな素敵づくしなユディト様の指導は私にもとてもわかり易くて、不安要素しかなかったダンスが自分でも驚くくらいに短期間でメキメキと上達していった。


 しかもユディト様は、ついでだからといって歌や勉強まで見てくださった。

 私が躓いていた課題曲は『女神に捧ぐ花束』。

 愛しい人を女神に例えた、外国の恋の歌。

 

「――女神に捧ぐというタイトルですけれど、歌詞の中に『女神』という単語は使われていないんです。その代わりがこの一節で、『あなたは私の(さいわ)い』……ジュノーでは女神は幸福を司るとされています。あなたが私にとっての幸福である、つまり、女神であるという表現ですね」

「ほう、なるほど。そういう意味があったのか」

「フロディン、君……知らなかったのか」

 

 ユディト様の解説にメルボルト様が感心して、それを聞いたアレクト殿下が少しだけ呆れた顔をしてから笑った。


「普通に女神って言えばいいじゃないですか回りくどい」

「フロディンお兄様はもっとちゃんと詩的な表現を学ぶべきです。女性はロマンチックな言葉を好むんですよ」


 エリフィアは腰に手を当てて頬をリスのようにふくらませる。きっとメルボルト様からロマンチックな言葉を言ってもらいたいのはエリフィア自身なんだろうけど、メルボルト様の渋面を見る限り、彼がロマンチックな言葉を覚える日は随分遠そうだ。


「そうですね、ロマンチックですし……それに、愛しい方からは、遠く崇める対象である『女神』と言われるよりも、『私にとっての幸福』だと言われるほうが嬉しいと思いますよ」


 ふわりと微笑んだユディト様に、アレクト殿下もフロディン様も一瞬目を奪われたみたいで少し頬が赤くなっている。

 エリフィアはそんなフロディン様に気付いて、また頬をふくらませていた。

 頑張れエリフィア。でも、エリフィアもちょっとぽうっとしてたけどね?



 アレクト第一王子殿下とメルボルト様は気軽に声をかけてくださって、それにエリフィアという友だちもできた。

 ロベルト第二王子殿下にいたっては、ユディト様の素晴らしさを語り合う同士という不思議な関係になっている。

 こんなこと、信じられる?

 きっと少し前の自分に話したら、なんて馬鹿な夢を見てるの? って笑ったでしょうね。


 ユディト様に会う前の私は、まるで色彩をなくした荒野の中を進むような気持ちでいたの。

 そんな、彩りをなくしてしまった私の世界を、あなたは鮮やかに染め上げてくれた。


 ユディト様。私にとってはあなたが、私の幸いなのです。

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