84 未完の国
私にとって、人生とは特に何の意味も無いものであった。いや、意味すら考えたことは無かった。ただ与えられた時間を消費し、与えられた課題を淡々とこなすだけの毎日。其処にやり甲斐は無く、また、やり甲斐という言葉の意味すら知らなかった。
『はあ......』
10歳頃からだろうか。溜め息が増えた。楽しいことも嫌なことも何も無い、そんな毎日が当たり前で、それ以上の生活もそれ以下の生活も知らなかったのに、何故か、今の生活とは違う『何か』を自然と望むようになったのだ。
『妹様、最近、溜め息が多いですが......。何かございましたか?』
『いえ、特には。お気になさらないで下さい』
溜め息一つで心配して貰えるような環境に居たのだから、相対的に見れば私は多くの人より『幸福な奴』だったのだろう。
しかし、幸せとは相対的なものでありながら同時に主観的なものである。幾ら、自分より苦しい生活を強いられている人が居たとしてもあの時の私は自分が幸福だなんて思わなかった。そして、現に今も私はあの時の私が幸福だったとは思えない。
ただ、一つだけ、本当に一つだけ幸せを感じることがあるとすれば、それは兄との談笑だった。
『お兄様、また抜け出して来たんですか.......』
『だって、政治の中枢は有力貴族とか、宰相に牛耳られてるしさ。政治の勉強とか正直に言って無駄な気がする。クララは偉いよな。ちゃんと、勉強してて』
『一定の作法と教養を身に付けるのは王族の義務ですから』
『堅い』
『はい?』
『クララは一々、堅いんだよ。そりゃ、税金で生活している以上、王族としての役割を果たさないといけないのは分かるが』
『お兄様が不真面目すぎるだけです。言葉遣いも荒いですし、クロードをあまり困らせてあげないで下さい。彼も若いのですから』
『いや、それはそうなんだが。.......クララは人生、楽しんでんのか?』
私はその質問に心の奥底を貫かれたような気分になった。
『人生を、楽しむ?』
『......楽しんでないなこれは。まあ、何だ。美味しいものを食べて幸せを感じるだけでも、人生を楽しむことにはなると思うぞ。ほれ』
そう言って彼は私の口にスパイスクッキーを押し込んできたのだ。生姜、小豆蒄、肉豆蔲、丁子、あの時のスパイスの香りは今でも覚えている。
しかし、彼は現国王の唯一の息子である。彼が自由に行動出来る時間は日毎に減っていった。彼の顔からは以前のような笑顔が消え、私と同じようなつまらない表情しかしなくなった。
そして、父が死に、彼が国王として即位してからは本当に人が変わった。
『あの、お兄様......』
『話しかけないでくれ。仕事があるんだ』
廊下などで彼に声を掛けてもそんな風に返されるようになった。兄が変わってしまったのは全て国王という身分に付いてしまったからである。
代われるものなら代わってあげたかった。自分が女に生まれたことを強く後悔した。そして、私の人生は優しい兄という存在を無くしたことで完全に意味の無いものになった。会話をする相手といえば、近衛騎士や貴族達だけであり、彼らと交わす事務的な会話は本当につまらなかった。
唯一、近衛騎士団長であるクロードは私を気にかけてくれていたようだが、彼は忙しく、そもそもあまり会う機会が無かった。
が、兄が国王として即位してから幾らかの年月が経った頃、私に転機が訪れた。何時ものようにつまらない仕事を自室でこなしていたとき、窓が何者かに叩かれたのだ。
『......っ!?』
私の自室があったのは王城の3階。そんな部屋の窓に、人が張り付いていた。その人は黒いズボンに黒いパーカーを見に纏い、口と鼻を黒い布で巻いているという分かりやすく不審者の見た目をしていていた。
そんな不審者が窓に張り付いていれば、扉の外で待機している近衛騎士に伝えるべきだ。しかしら何故かその時の私は自分の判断でその窓を開けた。
『......ありがとう。君はクララ・クリストピアで良いのかな。私の名前は、うん。好きに呼んでくれたら良い。今日は君に用があって来たんだ』
開いた窓から部屋の中に入ってきた黒ずくめの不審者はそうやってナチュラルに話し掛けてきた。
『勝手に入ってきて、勝手に話を進めないで頂きたいのですが』
『窓を開けて私を中に入れたのは君じゃないか。勝手に入ってきた訳じゃない』
『......まず、貴方は何者なんですか?』
『君の好きなように想像してくれたら良いよ。今からすることに私が何者か、なんて関係ないから』
何を言っているのか分からなかったが、不思議と身の危険は感じなかったので用を言ってみろと私は言った。
『先日起きたユクヴェルでの革命は知っているかな』
すると、そんなことを聞いてきた。
『ええ。一応。詳しくは知りませんが』
『あの革命では国民に厳しい労働を敷いた王政が打倒された。つまり、王族というものが居なくなったんだ。元王族や貴族だった者達の多くは革命軍に降伏し、あらゆる特権を奪われ、一般市民となった。君にとっては面白い話だと思うんだが』
黒ずくめの少女はパーカーのフードと、口と鼻を隠す布の間から覗かせている目で私を見つめた。
『何故、そう思うのですか?』
『君が自分や兄の立場を煩わしく感じているからだよ。此処、クリストピアでも革命が起これば君達は一般市民になるかもしれない、なんて話は君にとって興味深い話なんじゃないかな』
図星だった。この国で革命が起き、兄様も私も一般市民になれば、また違った人生を歩めるかもしれない。そんな妄想を私は何度かしていた。
『何故、私のことをそこまで......?』
『私のことなんてどうでも良いじゃない。確かに私は怪しいかもしれないが、君に不利益を被らせるつもりは全く無い。信じてくれ』
それから彼女は毎日の様に私の部屋に来る様になった。そして、来るたびにユクヴェル革命についてや、この国にも政府に対して不満を持っている者が多く、ユクヴェルと同様の革命を目指している組織が居ることなどを教えてくれた。
彼女が私に与えてくれる情報はどれも私が知らないものばかりで、私は毎日が少し楽しくなった。
そして、彼女が私の部屋に通う度に私のこの国への不信感は強まっていった。兄の補佐を名目に国の全権を握った宰相デレックスの存在。彼がデモを行う者達を捕らえ、国の改革を請願する国民を弾圧していること。全てに私は首を傾げた。
そして、それと同時に自分達の権利のために戦う国民に対して興味と尊敬の念を向けた。
『貴方は一体、何者なんですか? どうか教えて下さい。誰にも言いませんから』
そして、彼女の話を聞けば聞くほど、彼女についても興味が出てきた。
『少なくとも、君の考えている様な人間ではない。この国の革命組織とかね。彼らとは知り合いだが、私は其処に所属している訳じゃない。ただ、彼らの目的と私の目的は一致している。だから、君を彼らの仲間にしたいと思っているんだよ』
『それは、国の情報をその方達に流せということですか? 私はあくまでも国王の妹に過ぎませんので、大した情報を知ることは出来ませんよ?』
私の言葉に少女は首を振った。
『違う。君にはこの城を抜け出して、本当に彼らの仲間として革命を目指して欲しいんだ』
そして、耳を疑う様なことを言ってきた。
『はい?』
『表向きは失踪ということにしておいて、王都の革命組織に入団して貰いたい。勿論、近衛騎士が死ぬ気で捜索するだろうが、私と革命組織で君を隠し切る』
中々、頭の可笑しい頼みだった。
『......何故、私が?』
『実際に革命が起きた時、政府との交渉役になって欲しいというのが一つ、もう一つは単に君が革命家の才能がありそうだから、かな』
『私、政治の知識も浅いですし、崇高な思想も持ち合わせいませんよ?』
『それでも良い。君は今まで殆どの物事に興味を向けて来なかっただろう。しかし、私の話は食い入るように聞いている。そういう、特定のことにだけ熱中出来る者の底力というものは計り知れないものさ。革命に必要なのは難解で高尚な思想ではなく、力強さだ。私は君ほど、革命家気質の人間は居ないと思う』
そう言うと、彼女は手を差し出してきた。
『どうかな。君なら必ずや革命を成し遂げて新しい世界を見ることが出来ると思うんだけど』
そんな彼女の手を私は無言で握り、頷いた。