153 罪科
やけに血の騒ぐ満月の夜、冷たい水を口にしながら資料に目を通していた私の執務室の扉の前に一人の訪問者が立っていた。もう日が沈んでかなりの時間が経つというのに、彼は突然この宮殿の入り口までやって来ると私に会わせろと騒いだらしい。報告を受けた私が部屋に通して今に至るという訳だ。
「......どうぞ。貴方の椅子が無いわね。直ぐに用意させるわ」
「いえ、お気遣いなく。僕はこのままで大丈夫ですから」
と言いながら彼はゆっくりと私が資料を広げているテーブルの方まで近付いてきた。彼の角をこんなにも近くで見たのは初めてかもしれない。全体的にクリーム色をしているが先端だけ少し黒ずんでいる。
「僕の角に何か?」
「......いえ、立派だと思って」
「貴方にお会いして早々、角を褒められるとは思いませんでした。陛下の耳もお美しいですよ」
「そう? お世辞でも嬉しいわ。貴方も一杯飲む?」
卓上に置いてあるもう一つのコップに水を注いで彼に手渡した。彼は軽く頭を下げながらそれを受け取ると、コップの中に視線を集中させる。
「酒、ですか」
「いいえ。ただの水よ。酒が入ると執務に支障をきたすから」
「......成る程」
彼はコップの中の液体と私の顔を交互に見ながら険しい表情を保ち続けた。そんな彼の様子に私はついクスリと笑ってしまう。
「急に押しかけてきた貴方に毒を盛る準備なんて出来ている訳ないでしょう? それとも、私はいつ如何なる時でも執務室に毒を用意していそう?」
「......失礼ながら、はい」
「正直ね」
「陛下が反対派を幾人も粛清なさっていることは有名な話なので」
「......言っておくけれど殺したことはないわよ?」
「では、如何なる方法で?」
「そうね。牢に入れたり、称号を剥奪したり、財産を没収したり......くらいかしら? 国内に居られると面倒臭い貴族は追放したりもしたわね」
と、話しながらも私は資料を読んではサインを書いていく。これくらいのこと、全て官僚に任せてしまっても良いのかもしれないが、この小さな国の、僅かな資料くらいは目を通しておきたい。何より、兄はそうしていた。
「......左様ですか」
意を決したように彼はコップを口元に持っていくと、一気に水を飲み干した。この状況で彼を殺したところで私に何の利益もないし、それくらい彼も分かっていそうなものだが、やはり怖いものなのだろうか。
「どうかしら。毒だった?」
「少なくとも今は何ともありません」
「それは良かった。......この水差しの水自体に私を毒殺するための毒が入っているかもしれないけれどね。もしそうだったら、仲良く二人で死にましょう?」
「ええ。その時は、ね」
暫しの沈黙が流れる。私は徐に指をこめかみのところへ持っていき、そこを指圧した。少し文字の読みすぎで目が疲れてしまったのだ。こういうときは効くのか効かないのかよく分からないが目の周辺を揉みほぐすことにしている。少なくとも気は紛れる。
そうして彼から目を逸らすと、もう彼の方を向きたくなくなった。いや、向けなくなった。現実逃避のように卓上に視線を落としながら目の周りを揉みほぐし続ける。私の目の前にいるのは先程と変わらない、同じ鬼人族の男の筈。だというのに、私はまるで目の前に目を合わせてはいけない怪物がいるような、そんな感じがしていた。
「シャーロット女王陛下」
「......何かしら。副代表?」
私は彼と目を合わせず......どころか、彼の顔も見ないで返事をした。
「単刀直入に申し上げます。少数民族居住区の生活環境の向上、および議会における民族連合の議席数の拡大などを認めては頂けませんか。資料は今日の議会で既にお配りしている筈です」
視界の隅に彼の姿を入れた。どうやら、大きく頭を下げているようだった。屈辱だろうに。何だか彼から目を逸らし続けている自分が少し恥ずかしくなり、仕方なく彼の方を向いた。やはり、彼は深々と頭を下げていた。
「......頭を上げて。私は貴方達の女王じゃないのよ。これよね」
私は机の隅の方にずっと置いていた十数枚の紙からなる資料を指で掴んで彼に見せた。別に、確認するまでもなくこれが彼の言う『資料』であることは分かっていたのだが。何かを確認させでもしないと、ずっと、彼は頭を下げている気がしたから。
「はい......! その通りでございます」
「一応、目は通したけれど、難しいわね。議会での議席を増やせとあなた達は言うけれど、既にあなた達の自治組織である民族連合のために私たちは予算を組んでいるのよ? それで我慢してもらいたいわ。今だって、流浪の民になりかけていたあなた達の保護を引き受けた上で、二議席も与えているんだし」
「......しかし」
「これ以上の少数民族居住地区への支援も中々、増やせないわね。今だってかなり無理をしていることを知っているかしら? 悪魔族に対する賠償金と悪魔軍の駐留費、戦死した兵の遺族への年金や悪魔族に土地を接収された者への補償、戦争で疲弊した国家の再建費......ここだけの話、この国の経済は既に崩壊寸前なの」
どうして、敵と言って差し支えのない相手である彼に国の内情をこんなにも話してしまったのか分からない。しかし、後悔はしながらも、少しだけ心が楽になるのを感じた。
「......左様、ですか」
「悪魔に話を持ち掛けられたとき、あなた達を受け入れて働かせれば国家再建のための負担を少しでも軽く出来ると思ったのは認めましょう。でも、見通しが甘かった。食料が乏しく、碌な産業もないこの地では使い潰すのなら兎も角、大量の労働力を受け入れても負担になるだけだったのよ。......受け入れた手前、放置する訳にも行かないから支援を続けているけれど、別に独立してくれても構わないのよ。土地と住居は差し上げるから。あなたのお兄様はそれがお望みかしら?」
自分でも分かるくらい私は感情的になっていた。こんなことを彼らに言ったとて、彼が納得出来る筈もないのに。
「......人狼族にも人狼族の都合というものがあることは分かりました。我々が苦労はすれども餓死をするようなことになっていないのはきっと、陛下の慈悲のお陰なのでしょう。貴族や有力者から次々と土地や財産を没収なさっているのは財政のためでもあったのでしょうか」
「さあ、どうかしらね」
「それでは、尚のこと我々と人狼族の和解を成立させるべきではないでしょうか。陛下の口から、我々と同じように人狼族も厳しい状況に置かれていることを説明して頂ければ、きっと皆も納得します。その上で、今一度、我々と人狼族の間に一つの協力を打ち立てれば......!」
「......物分かりの良い貴方と同じように貴方のお仲間がそれで納得してくれるかは些か疑問ね。それに、悪魔が許さないわ、そんなこと。彼らは階層構造のある支配体制を築くことで占領地の安定を狙っているから」
その時、今の今まで穏やかな表情を保ち続けていた彼が突然、険しい顔で私を睨みつけてきた。そして、彼はドンと拳を机に叩きつける。
「結局......陛下は悪魔に支配され、我々を支配しているこの状況をお望みということですか。悪魔の被害者は我々も、貴方がたも変わらないというのに」
「......そうよ。私に出来ることは悪魔に追従することだけ。あなたのお兄様が言っていたように、与えられた王冠を被って女王のフリをすることしか出来ないの。それでこの国が守られるなら、それで良いのよ。それと同じようにあなた達もどうか受け入れて下さらない? 私達に支配されるという屈辱を。飢えさせはしないから」
瞬く間に彼の少し赤みがかっていた肌が更に真っ赤になっていく。怒りを通り越して今にも泣き出してしまいそうな彼の目を私は溜息を吐きながら見つめた。
「......そうですか。陛下はその程度のお方でしたか。どうやら私が間違っていたようです」
「あら、失望されてしまったわね。でも、その通りよ。私はあなたが思うほど聡明でも、狡猾でもないの。これ以上、あなたの求める言葉は私から出てこないでしょう。そろそろ、帰るといいわ。......外は真っ暗で吹雪のようだし、泊まっていかれてもいいけれど」
「お気遣いなく。このまま、帰らせて頂きます」
「そう。気をつけて」
今日はもう寝よう。彼の背中を見ながらそう思った。ゆっくりと目を閉じる。どうやら思っていたよりもこの身体は限界を迎えていたらしく、直ぐに意識は揺らいで行き、殆ど気絶するような形で意識を手放した。
それからどれだけ寝れたのだろう。夢を見た覚えもないまま、私は叩き起こされた。
「陛下! 陛下! 非常時故、ご無礼をお許しください! 反乱です! 民族連合が反乱を起こしました! 現在、民族連合代表ユードに率いられ、武装した少数民族達がこの都に迫っております!」
焦燥感を隠さず、急かすような口調で家臣の一人がそう叫ぶ。しかし、意識が依然として朦朧としている私はそれが夢なのか現実なのかよく分からなかった。
「......そう」
まだ窓の外は暗い。といってもこの季節は日の出が昼頃になるので時間帯はよく分からないのだが。血相を変えて私に目を合わせてくる家臣の顔を見て、どうやらこれは現実らしいと悟った私は昨日、注いだまま少しコップに残していた水を啜った。
「......それで? 何が原因なのかしら」
そういえば昨日、ルイとの交渉が決裂した、というか私が決裂させたのだった。モヤのかかった頭でそんなことを他人事のように思い出す。
「はっ。向こうの使者によると人狼族が民族連合の副代表を殺害したことが直接の原因である、と!」
やはり、寝ぼけているようだ。彼の言っている言葉が理解出来ない。