151 退屈
忘れていた。この城の重苦しい空気と、皆が自らの役割を淡々と演じなくてはいけない空間を。本来、自分が身を置くべき空間を忘れていた身体は、いくら再びそれに慣れようとしても拒絶を続ける。あるいは、あの人と関わることさえしなければ全てを忘れて一から始めることも出来たのかもしれない。意味のない仮定だ。決して短くない時間、あの人と関わり、あの人と過ごした。あの人を忘れることなど出来ない。従って、あの幸せな時間を忘れることなど出来ないのだから。
此処に戻ってきてからまだ一日も経たないというのに、自室での時間の潰し方というものを恐らくこれ以上、進歩することがないと断言出来るくらい覚えてしまった。目を瞑り、彼と過ごした時間、彼との思い出を少しずつ思い浮かべるのだ。初めのうちは数分で数ヶ月の思い出が過ぎ去っていってしまったものだが、直ぐに彼の言葉、彼の表情、彼と見た景色、彼と食べた物の味、彼と座った椅子の座り心地に至るまで多少、妄想で補いながら思い起こすことでたった一日の思い出を何時間もかけて楽しむことが出来るようになった。わざわざ思い起こす程の思い出を持っていなかった以前の自分は一体、どうやってこの退屈な時間を潰していたのだろう。そもそも、以前の自分は退屈だ、などと感じたことはあっただろうか。退屈と感じること、暇を潰すこと、それ自体が彼との生活の中で新たに得たものなのかもしれない。
さて、次はどんな思い出に耽ろうか。何か特別なことがあった日でも良いが、何もなく、ただ日が落ちるのを彼と穏やかに待っていた日のことでも良い。
自室の扉が開く音がした。ベッドから徐に起き上がり、扉の方に視線を向ける。
「あら、本当に帰ってきたんですね。お久しぶりです。アナタのお姉さんですよ」
鏡で毎日見ている自分と瓜二つの姿をした女だった。多少、目の色や体付き、装飾の違いはあるが、そこに立っていたのは殆ど自分であった。見れば見るほど可愛げのない顔が、薄気味悪い笑みを浮かべている。その顔を見るのが嫌になって少し視線を落とすと、彼女と自分の決定的な身体的特徴の違い。メロンパンか何かを仕込んでいるのではというくらいに大きく膨れ上がった胸が視界に飛び込んできた。以前、見た時よりも大きくなっている気がする。
「ちょっと、あんまり胸ばかり見ないで下さい。コンプレックスなんですか?」
「......いえ。どうして母親が異なるというのに、貴方とソフィアの容姿の違いが胸くらいしかないのだろうかと思いまして」
「実は異母姉妹ではない、とか」
「......あり得る話ではありますね」
何かにつけて出自を気にする悪魔族のことだ。家系図が書き換えられることなど珍しくない。いくら兵器として改造するための素材だったとしても、それが大貴族オロバッサ家の当主と愛人との間にもうけられた娘、というのでは問題があったのかもしれない。
「それにしても以前はあんなに、この世の全てに興味がなさそうに生きていたアナタがそんなことを気にするなんて。やはり、オルムさんとの生活はアナタを変えましたか?」
「いえ、別に。何故貴方が彼の名前を?」
「長とアナタ達のやり取りを盗聴していましたから。大事みたいですね、あの人間のことが」
「彼の生命を守るという契約を交わしている以上、いくら長のご意向があったとしても彼のことを守るのは当然のことかと」
「ふうん? でも、長との主従関係はどうなるんです? 命令は絶対、ですよね」
「......貴方がそれを言いますか」
「まあ、確かに。ワタクシがこんな風にアナタを責めたところで全て跳ね返ってきてしまいますからね。ああ、そういえば、アナタ、ワタクシがプレゼントしたリボンはどうしたんですか? 流石に捨てられていたら傷付くのですが」
「所有権には処分する権利も含まれる筈です」
「つまり、捨てたと?」
「相違ありません」
「ふふっ。ソフィアが嘘をつくなんて......ふふふふっ。本当、変わったみたいですね」
「嘘?」
「長とアナタ達の会話を盗聴していたと言ったでしょう。アナタがオルムさんにリボンを渡したことも、ちゃんと知っていますよ」
彼女はクスクスと笑いながら左隣に腰掛けてきた。
「不要になって手放した、ということです。捨てることと変わらないでしょう」
「......ふうん? ねえ、ところで、ソフィア。ワタクシ、オルムさんに会いにいってみようと思うんです」
その言葉を口にすれば此方が狼狽するとでも思ったのだろう。その手には乗るまい。
「お好きにどうぞ」
第一、彼女に大結界を超える力など無い筈。ハッタリだ。
「本当ですか? じゃあ早速、今から会いに行って来ますね。人狼族の都なので......明後日には間に合いますかね」
彼女が何を言っているのかよく分からなかった。
「契約者は今頃、クリストピアの都にいると思いますが」
「いえいえ、オルムさんは間違いなく此処から北上したところにある、人狼族の都に居ますよ。ほらアナタ、ワタクシのプレゼントしたリボンをオルムさんに渡したじゃないですか。実はあのリボン、少し細工をしてありまして。此処から人狼族領くらいの距離であれば、位置特定用の魔道具を使って現在地を特定出来るんですよ」
嘘を言っているようには見えなかった。でも、きっと何かの間違いだ。目を瞑る。彼に渡したペンダントに通信を試みる。直ぐに反応が返って来た。おかしい。人間界と通信をした場合、大結界に阻まれてもう少し通信に時間がかかる筈だ。
彼に渡したペンダントが此処より遥か北にあることが分かった。大結界は、人間界は、その逆。南だ。おかしい。
「......契約者をどうするおつもりですか」
「仮に殺す、と言ったらどうしますか?」
「彼は貴重な悪魔の協力者です。彼を殺すことは悪魔の利益に反する。従ってこの場で貴方を殺します」
「おお、怖い。怖いですね。そんな建前を述べずとも、彼のことが大切だから殺したら絶対に許さないとでも言えば良いのに。それが言えないのが首切り魔王の辛いところですか。安心して下さい。危害は加えませんよ。それにアナタも内心、今すぐにでも駆け付けたいのでしょう? ワタクシが代わりに彼のことを保護してきてあげますよ。それに、ワタクシはアナタと殆ど姿も声も同じですから。アナタの代わりになってあげられますし。だから、そんなに睨まないで下さい」
彼女はその余裕そうな態度を崩すことなく立ち上がると、此方に手を振って部屋を出た。
「あまり契約者のことを低く見積もらないことです。ソフィアが居なくとも、彼は問題ありません。彼の悪運の強さと、粘り強さはソフィアが一番知っていますから。貴方がどれだけ悪巧みをしようとも、必ずや彼がそれを土壇場で阻むことになるでしょう」
誰も居なくなった部屋にポツリとそう呟いた。