149 記憶の底の英雄
先代の王、アーサー・ネヴィルは私の......私達の兄だった。早逝した父の後を継ぎ、若くして人狼族の王になった彼はこの寒く、貧しい国の発展のために身を粉にして働いていた。たとえ、民生のために宮廷への予算を削る姿を貴族に後ろ指差されようとも、たとえ、次々と旧来の制度を変えていく方針に対して多くの者から反発を受けようとも。
「良いか、シャーロット。よく学び、よく働き、多くの魔族に尊敬される王族になるんだ。君は僕の後継になる可能性が一番高いんだから」
それが兄の口癖だった。
「兄さん、やめて下さい縁起でもない......。私が兄さんの後継になるときなんて来なくて良いですから」
王の兄弟姉妹よりも王の子供の方が王位継承の優先度は高い。私が王に即位するということはそれ即ち、兄に子供が生まれないか、生まれるよりも先に兄がこの世を去ることを意味していた。
「そうだな。そんな時が来なければそりゃあ、僕も嬉しいが......多分、僕も長くはない気がするから」
兄は情熱的な性格で、決して希死念慮に取り憑かれたような人物ではなかったが、いつも何処か遠いところを見ていて、自分が死んだ時のことばかり考えていた。
「兄様......死んだら嫌」
「ごめんごめん、メアリー。死なないよ。そう簡単にはね」
非の打ち所が殆どなく、完璧に近い兄を私は心の底から尊敬していたが、私の目から見ても彼には一つだけ欠点があった。それは私から5歳、兄から7歳も歳の離れたメアリーの前で軽々しく自らの死を仄めかすことである。私も相当だったが、メアリーは輪をかけて兄のことが好きだった。だから、兄の口から『死』という言葉が出たとき、彼女は決まってその日の夜に大泣きをした。寝かしつけるのが大変だったのを覚えている。
兄の治世は概ね、上手く行っていたと思う。元々、この国はそれほど大きな国ではない。胸を張って領土と主張出来るのは宮殿の周りに存在する都市とその周辺に広がる農村、更にその農村の向こう側に幾つか点在する都市とその周辺の農村、くらいだろうか。だからある程度、兄の急進的な改革も上手くいっていた......と思う。彼は反対勢力ともある程度合意を形成しようと対話を重ねるタイプだったので、大半の政策の実施はかなり遅れていたが。もう少し強硬な態度を取っても良かったのではないかと思う。
が、人狼族の平和はある日突然、崩壊した。吸血鬼と同盟を結び、各地への拡大戦争を繰り返していた悪魔族がこの北方の地にも軍を進めてきた。兄は直ぐに悪魔族の要求を聞き入れ、危機を脱そうとしたが交渉は決裂し、両者は戦争となった。あの時、悪魔族には鼻から交渉するつもりなどなかったと思う。というのも、圧倒的な力を相手に見せつけ、屈服させてから交渉を始めるのは彼らの常套手段なのだ。
そのような状況下において、兄は王としての責務を果たすため自ら軍を率いて前線に行くと言い出した。更に、人狼族の中でも特に秀でた戦闘能力を持つメアリーも駆り出されることに。私は気がおかしくなりそうだった。
「ねえ、兄さん、貴方が前線に行く必要が何処にあるの!? 死にに行くのが正しい王の姿なの!?」
その日が兄さんに本気で刃向かった最初で最後の日だったかもしれない。彼の澄んだ目を抉り出して、噛み砕いてやらんがごとく彼の目を睨みつけた。
「いいや。そうは思わない。自ら戦地に赴くことが唯一の責務の果たし方だなんて。だから、これはただの僕の意地なんだ。ごめん......僕は命をかけて戦う兵士に安全圏から命令を出すことがどうしても出来ない。だから、シャーロット、僕の我儘を聞いてくれ。君にしか頼めないことなんだ。どうか、皆を守ってやって欲しい」
結局、戦いに行かなかったのは私一人だけ。私に任された役目は兄が戦死したとき速やかに即位するため、宮殿で待機することであった。
戦争から四週間後、大軍にも関わらず、この土地特有の寒さで攻めあぐねていた悪魔が大攻勢をかけてきた。
「シャーロット殿下、国王陛下は......」
涙を堪えながら家臣がそう告げてきた時、それ以上何も聞かずとも、全てを悟った。
私の即位の準備は兄や家臣のお膳立てのお陰で驚く程速やかに進んだ。兄がそうしたように、私もこれまで王族の慣例であった特注の王冠を被ることはなく、先先代の王冠をそのまま使った。戦時であったので戴冠式も無かったし、殆どの貴族や有力者の立ち会いもないまま即位した。
私の初めての政務、それが悪魔との講和だった。兄が戦死し、私が即位した時点でもはや、戦況は絶望的。それしか道はなかった、と今でも信じている。私は徹底抗戦を主張する貴族や家臣を無視し、ほぼ独断で悪魔と講和を結んだ。向こうもこの寒さの中での長期戦は嫌うだろうし、彼らにとってこの戦争の目的は人狼族に悪魔族の強大さを見せつけることの筈。そろそろ取引に応じてくれる頃だろう。そんな算段で交渉に向かった私に対し悪魔は驚く程に素直に対応してくれ、私は講話の結果この国の事実上の属国化と引き換えに自治を勝ち取った。
いや、勝ち取った、とは言ってはいけないかもしれない。メアリーは兄が死んで尚、いや、兄が死んだからこそ徹底抗戦を主張していた。そのため、戦後、私は彼女から失望され、憎悪され、呪われることになる。
「私と兄様が悪魔の連中と戦っている時、お前は宮殿で何をしていたの? 兄様の覚悟を、悪魔とのつまらない取引で愚弄した裏切り者。ここで死んで兄様に詫びろ」
戦後直ぐに、教会へ私を呼び出した彼女が、私に鉈を突き付けながらそう言ったのを今でも鮮明に覚えている。人狼族は死んだ同胞を神として信仰する。彼女にとって兄の祀られている教会は私を殺すのに最適な場所だったのだろう。
「そうね。良いわ。私のことが気に入らないなら殺しなさい。ただ、忘れないで。兄さんは......あなたの『兄様』はあなたにじゃなくて、私に王冠を託したの。それがどういう意味か分かる?」
「黙れ。......殺す......殺して......」
「私の首を刎ねるなら、あなたの『兄様』が託した王冠ごと刎ねることになるわ。それでも本当に良いの? 貴方は此処に眠る兄さんに胸を張って私を殺せる?」
「へっ......嫌......あっ、はっ......ああっ、兄様兄様......にい、ぁ......」
メアリーはそう言って狂ったように泣き叫び続けると、そのまま失神してしまった。その日から彼女とはマトモに口を聞いていない。後から知ったが彼女は私を殺し、女王として即位する計画を立てていたらしい。徹底抗戦派の貴族や家臣、軍人、そして自らの地位向上を狙う様々な魔族に担がれていたとか。
私はそれを機に反対派を一掃し、かつて兄がしようとしていた諸改革を進めた。悪魔が持ちかけてきた少数民族居住区を人狼族の領内に作り、人狼族に管理させるという計画にも少し迷ったが乗った。私はこの王位を守り抜き、人狼族を守らなくてはいけないのだ。それが兄との約束だから。