136 リボン
「...... アーダルベルト・タナエル様」
ソフィアはポツリと、呟くようにそう言った。ソフィアの視線は彼女の服の胸飾りへと向けられている。どうやら、男の声はそこから響いているようだった。
「複数の八つ首に不死族の兵器......驚いた。行方不明と報告を受けていた二番槍も居るではないか。......二番槍は兎も角、他は何故、処分していない?」
低く、重みのある声ではあるが、声自体に恐ろしさはない。それなのに何故だろう。身体の震えが止まらなかった。
「・・・・」
フェルモを除く八つ首勇者とエディアは臨戦体制を取り、フランとルドルフは誰の目から見ても分かるような憎悪の籠った視線をソフィアへと......いや、ソフィアの胸元へと向けていた。もう近衛騎士ではないはずなのに、クロードは剣を抜いてクララを守るように彼女の横に立ち、クララは真剣な表情を保ったまま真っ直ぐにソフィアの胸元を見ている。そんな中、ソフィアだけが沈黙を貫いていた。
いつかこうなることは分かっていた。彼女は悪魔の兵器として生み出された存在。兵器として運用するために、契約と命令の絶対性を刷り込まれた存在。そんな彼女が悪魔を裏切って、ただで済むはずがない。そして、彼女にその裏切りをさせたのは俺だ。そのことに悔いはない。彼女に友人を殺されたくはなかったし、何よりソフィアにそんなことはさせたくなかった。それでも、俺は彼女に対して責任を感じずにはいられなかった。
「......タナエルって言ったか。俺はオルム・パングマン、ソフィアの人間界でのパートナーだ。アンタは何者だ?」
身体の震えを何とか抑えて、俺は彼女の胸元に向かって話しかけた。魔界に居ると思われるこの悪魔が、こちら側にどれだけの干渉を出来るのかは分からない。だが、もし、何らかの力で俺の身体をどうこうすることが出来たら......そう考えると少しだけ、臆病な気持ちが芽生えた。
「パングマン......貴様のことはソフィア・オロバッサから聞いている。貴様は知らぬようだが、ソレは人間界に行ってから定期的に私や他の悪魔と連絡を取っている。人間界の情報を我らに教えるためにな。私はアーダルベルト・タナエル。悪魔族の長だ」
「......そうか。随分、素直に話してくれるんだな」
「話しても不都合にならぬ事実なのでな。それに貴様は悪魔の協力者、の筈であっただろう? どうやら、今は違うようだが」
ソフィアの方へと視線を向ける。無表情で落ち着いた印象を受ける顔を保っていたが、長い付き合いだからか俺は本能的に分かった。彼女は無言で助けを求めている。
「そこまで筒抜けなら話は早い。悪いがもう、ソフィアからは手を引いてくれないか。ソフィアはもうアンタらの命令は聞けないってさ」
「......っ、契約者!」
俺の言葉に対し、ソフィアは目を見開き、軽率な発言を咎めるようにそう叫んだ。しかし、その後直ぐに我に帰ったかのように俯き、沈黙した。
「......ソフィア・オロバッサ、聞こう。貴様と私の間に結ばれた主従契約を、貴様は破ったのか」
「......いえ」
「ならば、何故、八つ首を未だに殺していない。貴様が八つ首暗殺に協力しなかったどころか、妨害をしたと吸血鬼から報告を受けている。......いや、良い。貴様がまだ私との契約を守り続けているというのならばその男、オルム・パングマンを殺してみよ」
タナエルがその発言をした瞬間、アデルが銃をソフィアの方へと向けた。他の奴らも大体が戸惑いながらそれに続いて、武器をソフィアの方へ向ける。しかし、サイズとエディア、そして、フランは逆に武器を下げてソフィアの方をじっと見ていた。
「ソフィアと契約者の間には契約がありますので」
「矛盾した契約は可能な限り結ばない、契約同士の利害が衝突しないように調整を行う、それでも契約と契約が衝突し、どちらかを優先せねばならなくなった時は原則としてより立場の高い者との主従関係を優先し、次に契約日が早い方を優先する......悪魔族にとっての『契約』の基本だ。貴様と私の契約はそこの人間との契約よりも前に交わされた、悪魔の長である私を相手とした主従契約だ。優先せねばならぬのは当然のことだろう」
「......命令の必要性が感じられません。彼一人を殺して何になるのでしょう。貴方も今、述べた通りソフィアは契約と契約を調整する義務が」
「貴様と私の間に結ばれた契約は、貴様が全面的に私に服従するというものだ。その契約を根拠として発せられる命令に対し、貴様が口を挟む余地はない」
「・・・・」
「聞いてりゃ、好き勝手言いやがって。何でガキンチョの忠誠心確認テストとして俺の親友が殺されなきゃなんねえんだよ。あ? 一応、オルムはお前らの協力者、っつう立場なんじゃねえのかよ。契約だの命令だのうるさい悪魔が協力者を雑に殺すなんて、お前らの語る秩序ってんなもんなのかよ」
痺れを切らした様子のサイズは突如、此方へ近づいて来ると、ソフィアの胸飾りを睨みつけてそう言い放った。
「その人間が我々の良き協力者であるなら処分などする筈がない。しかし、その人間はソフィア・オロバッサの契約相手でありながら、ソフィア・オロバッサを唆し、悪魔の利益にかなわぬ行動ばかりさせているではないか」
「......確かに」
と、納得するサイズに対し抗議をしたいところだが、彼の言っていることはどうしようもないくらいに否定の出来ない事実であるので何も言えない。
「まあ、にしたってこの場でガキンチョにオルムを殺させるのは悪手じゃねえか。お前も知ってるみてえだが、此処には八つ首や何か凄いらしい吸血鬼と不死族が居るんだぜ。流石にガキンチョも負けちまうだろ。あっちの弍の勇者なんかずっとガキンチョに向けて銃構えてるし」
「......そのようなことを八つ首に指摘されるとは思っていなかったが。我々の知の結晶であるソフィア・オロバッサは貴様らが束になっても勝てぬだろうよ」
「いやその子、私一人相手にしてても地味に苦戦してたわよ? 親馬鹿も休み休みになさい。親じゃないかもしんないけど」
「それの親は別に居る。もっとも、親も子も互いに相手を子とも親とも思っておらぬだろうが。しかし、ソフィア・オロバッサ。貴様は何か勘違いをしておらぬか」
「......いえ、貴方がその気になればソフィアに干渉し、身体を操ることが出来ることは心得ております」
ソフィアのその言葉は彼女以外の全員に静かな衝撃をもたらした。それを聞き、直ぐ様、サイズやエディア、フランなど先程まで武器を構えていなかった者達も武器を構える。いつ、ソフィアがタナエルに身体を操られ、暴れ出すか分からないからだ。
そう言えば、フランもルドルフに操られていたことがあった。ソフィアもフランと同じような原理で作られ、兵器として運用されているのだからその可能性に気付くべきであった。
「しかし、それには貴方もかなりの魔力を使うことになるでしょう?」
「面白い。その言い草、もはや、私への忠誠心など無くなったようだな」
「いえ、まだ葛藤は。......しかし、契約者を殺せとの命令は遂行出来かねます」
小さな溜息が聞こえた。タナエルのものらしい。
「貴様がその人間の生存に異常に拘泥しているのは分かった。ならば、今すぐその人間との契約を解消し、魔界へ帰還せよ。さすれば、その人間に手出しはせん。もし、この命令も拒むというなら、貴様の身体を一時的に支配し、刺し違えてでもその人間を殺してくれよう」
「分かりました」
即答。驚く程食い気味にソフィアは即答した。タナエルがその提案をすることを分かっていたかのように。そのせいで、少ししてからタナエルの言葉を咀嚼し終えた俺に、口を挟む余地はなかった。もしかしたら、それがソフィアの狙いだったのかもしれない。
「ということですので契約者、お元気で。申し訳ありませんが、貴方との契約は此処で解除させて頂きます」
「ちょっと、待てよ。そんな一方的に!」
「他に選択肢がありますか。長の慈悲深いご提案を受け入れる以外に。心配ありません。大抵の身の危険からはそのペンダントが守ってくれますから。......こんなものしかお渡し出来ませんが、これ、契約の途中解除のお詫びとして差し上げます」
ソフィアはそんな風に早口で捲し立てると、素早く自分の髪から二本のリボンを取り、押し付けるように俺に渡してきた。
「強い魔力の込められたリボンです。売ればある程度の値がつくでしょう。......靴や服もお渡した方が良いでしょうね」
と言い、彼女はいつも着ている黒い服を脱ぎ始める。それを俺は慌てて止めた。
「良いって、良い! 脱がなくていいから!」
「......そうですか。では、お元気で」
大きく髪を結んでいた訳でもなかったので、リボンを取った彼女の髪型はあまり変わらなかった。しかし、やはり、リボンを付けていない彼女の容姿には強烈な違和感を覚えた。
「なあ、頼むから待ってくれ......!」
俺はソフィアの服を掴み、情けない声で哀願するかのように言った。しかし彼女は俺と目を合わせることはなく、俺を軽く魔法か何かで吹き飛ばすと、窓の方に目を向けた。
「勝手に話を終わらされてしまうと困りますね。私としては、ソフィアさんがそうやって魔界へ帰るのを手を振って見送ることは出来ないんですよ」
じっと椅子に座りながら一連のやり取りを眺めていたクララが突如、席を立ち、そう言った。
「......そうでしたね。貴方にも言っておかなければならないことがありました。契約者がソフィアを制止しなければ、八つ首勇者の方々は今頃、ソフィアに殺されていたかもしれません。ソフィアが魔界へ帰還しても、彼が罪に問われるようなことがないことを祈っています」
「そうですね。どちらにせよ、オルムさんの立場の安全は保証しましょう。しかし、貴方を帰らせる気はありません」
「......お元気で。修理費用は申し訳ありませんが契約者に請求して下さい」
ソフィアはクララの言葉がまるで聞こえていないかのようにそうとだけ言うと、俺達の目の前から消えた。いや、違う。目にも止まらぬスピードで城の窓を破壊し、その場から逃げたのであった。
その後のことはもう、よく分からない。フランやエディアがその後直ぐにソフィアを猛スピードで追ったらしいがあまりその辺のことは覚えていない。俺は情けなくも、その場で座り込んだまま呆然としていたからだ。