131 悶々
「落ち着いたか?」
今しがた、頭部を宿の壁に物凄い勢いで打ち付けていた黒髪の少女に俺は問う。何故か錯乱状態にあった彼女は部屋に飛び込んできた俺に無理やり抑えられ、ベッドに座らされたのだった。勿論、彼女の精神状態、並びに彼女の身体も心配だったが、宿の壁に穴を開けられることも怖かった。
「......ソフィアは元より落ち着いていますが」
と、澄まし顔で言うには少し無理のある言葉を彼女は発する。俺はそんな彼女に苦笑した。
「いやいや、落ち着いてたなら何であんなに頭を壁に打ち付けてたんだよ」
「あれは瞑想のようなものです」
「仮にそうだとして、それって瞑想が必要なくらい心が乱れてたってことじゃないのか」
俺の言葉に彼女は小さな声で唸る。そして、少し俯き、何度か溜息を吐いてから口を開いた。
「申し訳ありません。確かに、契約者の言う通り少しだけ取り乱してしまったのは事実です」
「少し?」
「......かなり、かもしれません。どうやら、二つに分かれていたソフィアの意識が一つになったようで」
「ああ......」
それを聞いて、俺は上手く言葉が出なかった。ソフィアが気を失う前に『堅物ソフィア』が言っていた言葉が脳裏に浮かぶ。
悪魔を裏切り、存在意義の無くなった自分という人格はまもなく消えるだろう。そう、彼女は言っていた。『堅物ソフィア』としての意識が消えてもソフィアが居なくなる訳ではない。それでも、彼女の意識が無くなるということは一人の人間の死と等しい。何とも言えない苦い気持ちが込み上げてくるのを感じた。
「ご安心ください、と言うのは少しおかしいような気もしますが......落ち込まないで下さい。二つのソフィアの意識は一つに収束したようです。今のソフィアは、どちらのソフィアとしての感覚もあります。どちらのソフィアが優位な形で収束したのかはソフィアも分かりませんが」
だから、彼女の報告はひとまず俺がホッと一息をつくには十分なものであった。
「......良かった」
ただ一言、漏れ出すように俺は言葉を発した。胸のあたりが熱くなって、それが全身に広がって、一気に眠気が襲ってくる。俺はそのまま靴を脱いでベッドに寝転がった。
「契約者?」
「ごめん。ちょっと、流石に眠い。ふわぁぁ......」
「今日、もとい、昨日から一睡もしていませんからね。体力的にも精神的にもお疲れでしょう。ゆっくり、お休みください」
そう言うとソフィアは部屋の電気を消し、彼女自身も布団の中に入ってきた。外はもう明るくなってきているだろうが、そんなことは関係ない。今は兎に角、時間の許す限り眠りたいのだ。
「......あ」
目を瞑り、今にも意識が闇の中に溶け込みそう、というところで俺は声を出した。
「何ですか」
「いや、今言うべきことじゃないかもしれないんだが......その、ソフィアが倒れる前に言ってたことあるだろ? 覚えてるか?」
俺の問いに彼女は暫し、沈黙した。まさか、返事までしておいて寝てしまったということは考えにくいので恐らく、何かを考えているのか、俺の言葉の続きを待っているのだろう。そう思い、何か続けて話そうと俺が口を開いた時、彼女の言葉が真っ暗な部屋の中に響いた。
「......申し訳ありません。その、ソフィアが気を失う前の詳細な記憶がかなり欠落していまして。ソフィアが吸血鬼達と計画を実行したことや、その後、吸血鬼を裏切ったこと、ギルドマスターのことなどは一応、覚えてはいるのですが」
不意に放たれた彼女の言葉は衝撃的なものだった。二人のソフィアの意識の融合という、かなり精神に負荷をかけそうなイベントが起きた直後なのだ。記憶障害くらいは起きて当然なのかもしれないが、それにしてもあのことを彼女が覚えていないというのは歯痒いものがあった。
「あ、そ、そうなのか。起きたらその辺の記憶もちゃんと整理しような」
「それで、ソフィアは意識を失う前、何を契約者に言ったのですか」
「......いや、別に大したことじゃないからいいよ。取り敢えず、寝ようか」
「分かりました」
あの言葉は自分が消えてしまうかもしれないという極限状態に追い込まれたからこそ、混乱して言ってしまった言葉なのだろうか。それとも、今の彼女も内心では同じことを俺に想っているのだろうか。いや......あのソフィアは『向こうのソフィアも同じように思っているかは分からない』と言っていた。では、今のソフィアは......。
「契約者、頭を枕に打ち付けないで下さい。ソフィアと違って契約者の身体は脆いのですから」