130 羞恥
長い、長い鬼ごっこの末に私の体は限界を迎え、その場に座り込んでしまった。
「もう、追ってこないのですか」
先程まで、必死で逃げていた前方の彼女が私の方を振り向いてそう聞いてきた。
「追わない、というよりもう追えません......おめでとうございます。鬼ごっこは私の敗けです。身体、お返しします」
「私の意識が眠っている間に契約者にあんなことを言って、何が貴方の敗けよ」
「それくらいは許して下さい。......気になっていたのですが、貴方は契約者のことをどう思っているのですか?」
「自分のことなのに分からないの?」
「自分のことって案外、知らないものですよ」
「それは......そうかもしれないわね」
彼女はそう言いながら私の方へゆっくりと近付いてくる。ずっと、私から逃げていた彼女が初めてこの空間で後ろに向かって歩き出した。
「私は、契約者のことが大切です。それが好き、ということなのかは分かりませんが......兎に角、彼のことが大切です」
彼女は座り込む私のすぐ近くまで来て、呟くようにそう言った。
「......その気持ちは身を滅ぼしますよ。私達は、ソフィアは、少し調子に乗り過ぎました。ソフィアが生まれた意味、ソフィアが人間界にやってきた意味を今一度考えるべきかと」
「今しがた、契約者達の為に悪魔達を裏切った貴方の言葉には説得力がありますね」
「でしょう。そのせいで今、私はこんなことになってしまったのですから。......最後に話してくれてありがとうございました。もう行って良いですよ。契約者も急にソフィアが倒れたので心配しているはずです」
私はそう言って大きな溜息を吐き、背中から力尽きるように寝転がった。
「話してくれてありがとう、ですか。私達のやっていること、独り言というか、自問自答ですけどね」
と、言いながら彼女は仰向けになっている私に手を伸ばしてきた。相変わらずの仏頂面だ。契約者がこんな面白味のない私を選んでくれる訳がない、自分の顔を見ながらそう思った。
「何ですかこの手は」
「立って」
「どうして」
「貴方と一緒に行きたいから。ほら、早く立って」
「何を、言って......っ!?」
持ち上げられた。まるで先程、契約者が私をそうしたように、強引に彼女に身体を持ち上げられた。
「行くわよ。契約者にあまり心配をかけるわけにはいかないから」
抵抗しようにも力が出ない、抗議しようにも何と言えば良いか分からない。そんな状態の私を彼女は当たり前のように持ち上げながら、再び前へと歩き出した。この感覚、知っている。少し前に契約者が自分にやったことだ。
ずっと薄暗かったこの道が次第に明るくなってきて、気がつくと目も開けていられないくらいに眩しくなってきた。
⭐︎
「おはよう、ございます」
そう言いながら目を覚ましたものの、辺りには誰も居なかった。見覚えのない部屋のベッドに寝かされている。契約者達は何処に行ったのだろうと辺りを見回していると、ふと自分に対して違和感を覚えた。
自分は今、『どちらのソフィア』なのだろうか。いや、そもそも自分が『どちらのソフィア』なのか、という疑問を抱けるのは自分が二つの人格に分かれていたことを知っている私のみ......。
「私って何......」
混乱してきた。もう、詳しいことは忘れてしまったが、夢の中でもう一人の自分と語り合ったのを覚えている。私はもう一人の自分に手を差し出し、私は手を差し出されて......。
「あっ」
其処だ。片方の私しか持っていないはずの記憶を私は両方、持っている。いや、どちらも私なのだから本来は両方の記憶を持っているのが正しいのか。分裂していた私の自我が統合されたという訳だ。
上手く行った、と言うべきなのだろう。どちらの私を切り捨てる訳でもなく、上手く統合出来た......と。しかし、何かを忘れている気がする。何か、胸騒ぎが......。
「あ、あ......ああああ!?」
思わず声を上げた。思い出した。思い出してしまった。思い出したくなかった。恐らく今から数時間前くらいのことだ。自分の記憶が消えることを前提に、私は契約者に......。
駄目だ。これ以上、思い出したくない。恥ずかしい。こんなにも羞恥という感情を強く覚えるのは初めてかもしれない。こんなことになると知っていれば、元からあんなことはしていなかった。
気付けば私は自分の頭部を壁にぶつけていた。記憶よ無くなれ、無くなれと言わんばかりに。もっと、他に考えるべきことは沢山ある。契約者達は今どこにいるのか、あの吸血鬼達はどうなったのか、事実上、悪魔を裏切る形になった自分はこれからどうするのか......しかし、今はそんなことを考える気にはならなかった。
「ソフィア! 大丈夫か!?」
その時、大きな音と共に部屋の扉が開いた。今、一番聞きたくない声が部屋に響いた。
「......ぁ」
何故、契約者が突然、部屋に入ってくる可能性を考慮しなかったのだろうか。信じられないものを見るような契約者の視線を受けて、私はますます顔が熱くなった。
「そ、ソフィア......?」
困惑、恐怖、疑問、幾つもの表情が契約者の顔に浮かんでは消えていく。私は再び、頭を壁に打ち付け始めた。
「ソフィアああああああああ!?」