108 邂逅
深夜、トイレに起きた俺は灯りが付いているのを不審に思い、目を擦りながらリビングへと足を運んだ。
「ソフィア」
其処には机に本を広げているソフィアの姿があった。
「契約者ですか。如何致しましたか?」
「もう良い時間だろ。何で寝てないんだろな、と思って」
「ソフィアは悪魔です。睡眠はさほど必要ではありません。それよりも、勉強をと思いまして」
「......悪夢が怖いとかではないんだな?」
俺のそんな問いに対する彼女の返答はやはり、何時もとは違っていた。
「怖い、とは違いますが、極力寝るのは控えたいですね。睡眠とは言い換えれば長期間、無意識になること。無意識になればなるほど、心の外と内が混ざって、混乱してしまうものですから」
何を言っているのか、分からなかった。分からなかったが、今、相対している少女が何時ものソフィアでないことは分かった。
『アレに背を掴まれて......服を破ってでも逃げようと思ったけど、向こうの動きの方が早くて、突き飛ばされて、それで、転んでしまって、そのまま捕まりそうに......』
と、悪夢から覚めた直後のソフィアは言っていた。
あの時のソフィアの、彼女らしくない怯えた表情が頭にこびり付いている。
「ソフィア」
「......何でしょうか」
「お前、夢の中でソフィアを追いかけたりしてないよな」
沈黙。長い沈黙の後にソフィアは静かに読んでいた本を閉じた。
「其処まで辿り着かれましたか。流石、契約者。恐れ入ります」
そして、全く動揺せずにそう言った。
「......お前」
「実はソフィアも契約者に聞かれるまで忘れていたのですが、確かにソフィアはあの夢の中で、もう一人のソフィアを追いかけていた気がします」
「案外、素直に認めるんだな」
「隠す理由がありません。何よりソフィアが契約者の質問に答えなかったことなど、今まで殆ど無かったでしょう?」
「......そうか」
暫し、俺達の間に静寂が流れた。二重人格、とはまた違うような気がする。確かにこのソフィアも俺が知っているソフィアだ。そして、俺と出会った頃のソフィアはこのソフィアだった、と思う。
だが、昨日まで一緒に居たソフィアも俺の知っているソフィアだ。......混乱してきたぞ。
「契約者」
「ん?」
「これ」
そう言って見せてきたのは彼女の腕に隠れて見えていなかったロールパンだった。
「......それ、どうしたんだ?」
「先程、あの露店のパン職人が廃棄しようとしていたものを買い取ってきました」
「へ、へえ......?」
彼女の言葉の真意が読み取れないでいると、ソフィアは何度か頷き、口を開いた。
「今のソフィアも、もう一人のソフィアもパンが好きなのです。そのことからも分かる通り、二人のソフィアに明確な境界線はありません。どちらも『ソフィア』という器に収まっているのです」
何だかこのソフィアの話は難解だ。
「つまり......どっちも本当のソフィアってことか」
「有り体に言えば、そうなるでしょう。そして、この分裂化の原因もある程度は分かります。......ソフィアがソフィアを毎日、夢の中で追っていた理由も」
「......その原因と理由ってのは、教えてくれるのか」
「勿論。ソフィアは契約によって契約者の質問に答える義務がありますから......あ」
ずっと、ピンと張った糸のように緊張感のあったソフィアの声色と表情が『あ』の一言とともに崩れた。
「ちょ、おい! どうした!?」
「申し訳ありません。少し、眠くなってきました」
そう言うと、ソフィアは突如、顔を机に打ち付け、気を失うように眠ってしまった。俺はどうしたものかと一瞬悩み、直ぐに彼女をベッドまで運ぶという決断をした。
俺は彼女をお姫様抱っこして部屋まで運ぶ。本当に生きているのか疑いたくなるほど軽い。体に溜め込まれている大量の魔力が浮力として働いているのかもしれない。......専門家ではないので本人かアンネリー辺りに聞かないと真偽は分からないが。
「それにしても良い匂いだな」
ソフィアは特に香水の類いは使っていないので特徴的な匂いがする訳ではないのだが、香木のような、少し渋くて落ち着く香りがする。これは服からだろうか。
「......契約者、その、ソフィアの匂いを嗅ぎたいのであれば、一度、入浴してきても良いでしょうか」
突如、目を覚ました彼女がそんなことを言ってきた。俺は慌てたことで、彼女を落としそうになりながら、どうにかバランスを取り、彼女をベッドに下ろした。
「あ、い、いや、えっと、ちが、違う! 何というか、その、アレ! 俺、この寝室の匂いが好きなんだよ!」
「......そうでしたか。申し訳ありません、ソフィアが間違っていました。ただ、部屋の匂いを嗅ぐのでしたらソフィアから離れた状態でお願いします」
「あ、はい。ゴメンナサイ......今のソフィアって堅物な方のソフィア?」
そう聞くと彼女は首を傾げた。
「......というと?」
「ソフィア、寝る前の直近の記憶は?」
「確か、リビングで本を読んでいたかと。気が付いたら、契約者に運んで頂いていて」
「あー、其処からなのか......」
ソフィアの様子が可笑しくなったのは昼頃からだが、其処から記憶が無い訳ではないらしい。
リビングで俺と話した記憶だけが消えているのだ。あの堅物ソフィアが消したのだろうか。
「契約者?」
「ああ、いや、何でもない。今日、フランにちょっと、キツかったんじゃないか?」
「......思い返してみると確かに。謝っておきます」
やはり、あの一連の行動もこのソフィアの中で、自身がやったことになっている。恐らく、実際は堅物ソフィアの方がやっていたことなのだが。
『二人のソフィアに明確な境界線は無い』というのは堅物ソフィアの言葉だが、確かに二重人格というよりも、機嫌の良し悪しなんかに近いのかもしれない。
......このソフィアが先程の俺との会話を覚えていないあたり、そう単純なものでも無さそうだが。
「そうだな。フラン、優しいからきっと許してくれるだろ」
兎に角、このことは今は俺の心の中に留めておこう。詳しいことが分かるまでは。