星落としの夜
聖夜にあの子がやって来る。
闇の中ひそやかに。
12月になっても家に帰れないわたしのような子のもとにも毎年かならずやって来て祝福を振りまいてくれる。
――みんなお待ちかねの、おはなしのお時間ですよ。
夕日が落ちて、いつもよりちょっとだけ具の多いスープを飲み終わってしばらくして、先生がわたしたちを広間に呼ぶ。
部屋の明かりがぜんぶ消され、大きい箱の横についているレバーを先生がゆっくりと回すと、重い紺色のカーテンが開き、オレンジの光がふわりと広がる。
――これは、みなさんと同じ、クリスマスの夜を過ごしているひとのおはなしです。
先生の口から出てくるおはなしは毎年同じだ。
あるところに貧しい夫婦が住んでいて、いつも一生懸命働いていたけれど、食べ物がなくてとうとう奥さんが病気になってしまう。
お医者さんを呼ぶお金もなく、旦那さんが近所の人に助けを求めても、うちも苦しいからと断られて、奥さんの熱はどんどん上がって、息も絶え絶えになっていく。
――そして最後にたどり着いたのは、小さな教会でした。
先生の悲しそうな声。初めてこのおはなしを聞く小さい子が、しんじゃったのー?と隣の子に話しかける声。
それでもわたしの胸はパジャマの奥で痛いほどに高鳴る。
あの子が来る。
もうすぐ、わたしのところに。
――そのとき、やわらかな光が降り注ぎ、天使さまが降りてきました。
ああ、ああ。
会いたかった。ずっと会いたかった。
金色の環をきらめかせながら、銀色のドレスをはためかせながら、あの子が今年もやって来た。
せまいオレンジの空を白い羽根でひらひらと飛び回り、頭の環とおなじ色の豊かな髪をなびかせて。
彼女が踊るだけで、ちらつく雪は宝石になり、身を凍らせるほどの風はあたたかく変わっていく。
もっと、もっと見ていたい。物語の結末なんかもう頭に入って来なかった。熱に浮かされるように、夢に入り込むように、ずっと彼女の微笑みを見ていた。
宝石もろうそくもごちそうも、他の何も目に入って来ない。
彼女こそが星だ。
わたしのもとにやって来た、たったひとつの輝く星だ。
――そして二人は幸せに暮らしました。めでたしめでたし。
その言葉を合図に、紺色のカーテンが閉まる。
唐突にわたしは彼女の世界から放り出される。
「それではみなさんおやすみなさい、いい夢を。」
「サンタさんきてくれるかな?」
「ケーキないの?ねえケーキは?」
「良い子にしていたら明日かならずね、かならずよ」
そんな声があちこちから上がって、部屋の明かりはつけられて、窓の外にはちかちかと赤や緑の電気が規則的に点滅している。
終わってしまった。年に一度、彼女と会える時間が。
偽物の光にあふれる夜を何回も繰り返して、本当の光をまた一年待たなくてはいけない。
せめてきらめきの残り香だけでも浴びてたい。
そう思って彼女が飛び回っていた空を、大きな箱を、先生が倉庫に仕舞いに行くのを階段の上からこっそり眺めるのも毎年のことだ。
その時、台所の方から何かが落ちて割れるような大きい音がした。
「何、どうしたの!」
そちらに先生が走っていく。
「だって、ケーキが」
「台所に忍び込んで盗み食いするような悪い子にケーキはありません!」
割れるような泣き声が聞こえてくる。
無理もない。初めて施設でクリスマスを過ごす子にとっては、パパやママが用意してくれる七面鳥やケーキがないことは信じられないことだから。
でも、小さい子が泣きわめく声をよそにわたしは舞い上がっていた。
先生、いま。
倉庫の鍵、かけ忘れてた。
いつもならそんなこと考えないのに、いつも待てるはずなのに、身体が勝手に動き出した。
足音を立てないように、それでも急いで倉庫の扉を開ける。
見つからないように扉の隙間を少しだけ開けて、わずかな明かりの中箱を探す。
そして程なくして、奥の棚の一番下の段に見つけ出した。
いけないことをしている。寒いのにこんなに汗ばむなんて変なの。そう思いながら、箱を開ける。するとオレンジの光があふれて、彼女が微笑む。
そのはずだった。
そうはならなかった。
箱を開けても、倉庫の中も、箱の中さえも暗いままで、一条の光すら射さない。
雪は降ってこない。宝石も、風も、どこにも現れない。
どうして?わたしは彼女の輝きを、彼女が世界を輝かせるさまをもう一度だけ見たいのに、どうしてさっきみたいにきらめいてくれないの?
半ばパニックになりながら箱の中を手探りでかき回すと、柔らかいものに触れた。それが彼女の白い羽根だと気付くのに時間はかからなかった。
急いで彼女を上から救い出そうとするけれど、何かが引っ掛かって上手くいかない。
糸だ。彼女の四肢を、首を、せまい空に縛り付けている糸が絡んでしまっているんだ。どうしよう。このままじゃ彼女がもう飛べない。
そんな時、視界の片隅で何かがきらりと光った。
光るものなんか彼女の他にはないはずなのに。
そう思って振り向くと、扉の隙間から漏れ出る廊下の明かりを反射している銀色がそこにあった。
それは、鋏だった。
倉庫の中で荷造りをするために置かれているビニール紐と一緒に置かれている鋏の姿を、暗い中ではっきりと認めてしまった。
それを迷わず手に取り、彼女を解き放つ。
シャキン、という乾いた高い音が、静まり返った倉庫の中でやけに大きく響き渡るように感じられる。それはまるで聖歌のように。
いと高き天におわします我らが神。
栄光あれ。栄光あれ。
輝く夜に天使を遣わせて祝福をくださる主。
あわれみたまえ、あわれみたまえ。
シャキン、シャキン。
やがてすべての束縛から自由になった彼女を胸に抱き、箱を覆う布も、銀色の鋏も、できるだけもとの状態と変わりないように戻して、自分の部屋に駆け込む。
個室になっている部屋の扉を閉めた瞬間、はあっと息を吐き出してその場に座り込む。
自分が息切れしていることにも、額が汗だくになっていることにも初めて気付いたように感じられる。
それでもわたしの胸には、彼女が。本物の光が。
窓辺に彼女をそっと置く。
暗闇に目が慣れて、あるいは外からの偽物の光に照らされて、この目に彼女の姿が映し出される。
そうだ、彼女が闇夜を照らしてくれる。もう一度私の目の前で、きらめきながら微笑んでくれる。
そんな期待で上がりきった口角が引きつる。
目に映ったそれは、四肢や首がばらばらの方向に曲がって今にももげそうな、木と布の塊だった。
そんなはずはない。こんなことあるわけない。
白い羽根で飛べるはずだ。どこを向いているのかわからないような、絵の具で描きこまれた目じゃなくて、やさしくわたしに笑いかけてくれるはずだ。
金色の環も銀色のドレスも夜の闇に溶け込んだりしないはずだ。
こんな何もない窓辺で、何ももたらさず、何も輝かさずに無様に転がっているものなんか彼女じゃない。
星は壊れたりなんかしない。
そう思うともう何もかもどうでもよくなってしまった。寒さを思い出していた。
翌朝早く、いやらしくありとあらゆるものを照らす太陽が顔を出す前に部屋を抜け出し、昨日まで彼女のように見えていたものを裏庭の焼却炉の奥に押し込んだ。
その後はいつも通りのクリスマスの朝で、いつも通りにクリスマスツリーの下に置かれた自分宛てのプレゼントを開けて、趣味じゃない文房具を回収して、掃除をしたりテレビを見たりして過ごした。
ふと廊下の窓から裏庭を見下ろす。ちょうど焼却炉が稼働しているようで、灰色の煙がもわもわと出ている。
午後にまたこっそりと焼却炉の中を覗きに行くと、そこには灰が積もっているだけだった。
白い冬空、冷たい風、指先を汚す灰。光るものなんかどこにもなかった。
燃え尽きた星は死ぬ。
さっき見た冬休みの科学番組でそう言っていた。
わたしは彼女を、殺したことになるのだろうか。
天使と呼ばれた彼女を殺したのなら、わたしは大罪人なんだろう。
来年のクリスマスまできっと誰も、彼女が死んでいることを知らない。
彼女のお墓はこの永遠に光らない大気の中に。
そしてそれを知っているのはわたしと、倉庫の中に眠る銀色の鋏だけなのだ。