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エヌ氏と猫

作者: ぷせうど

1.

「AM6:30になりました。おはようございます。」という無機質な声で、エヌ氏の休日は終わりを迎えた。月曜日はいつも憂鬱だ。といっても休日にやるような趣味があるわけでもないのだが、やらねばならぬことがあるというのは何につけても憂鬱である。

そんなことをぼんやりと考えていると「食事の用意ができております。ダイニングルームへどうぞ。」と、また無機質な声が聞こえる。はいはい、分かってますよ、と心の中で呟きながらエヌ氏は寝間着のボタンをもそもそと外し始めた。


2.

AIアシスタント、というものが発売されてからもう20年ほどになる。発売当初は大々的に宣伝されたものの、値段が高い割には不具合も多く、当初は注目されたものの浸透せずに寂れていくだろう、というのが大方の見解であった。しかし、年々のアップデートと価格の低下からじわじわと日常を侵食し、ものの5年もしないうちに家、車から果ては学校、職場まで、あらゆるところにAIアシスタントが使われるようになった。当初は不具合も多いと言われていたが、ここ5年ほどは目立った不具合もなく、概ね安定に動作しているともっぱらの評判である。


3.

「お食事が終わったようですね。よろしければ今日の食事のフィードバックをいただけますか?」というAIの声を無視して、エヌ氏は食べ終わった皿を自動食洗機に入れた。AIアシスタントと言うくらいなんだったら食事の片付けくらい自動化できないのか、と毒づきながらエヌ氏は職場へ向かった。職場と言っても、自宅の一室にPC、プリンター、簡単なメモ等が備え付けてあるだけの簡単な部屋である。AIアシスタントの登場と時を同じくして、エヌ氏の働く銀行業界の働き方も大きく変化した。勤め始めた当初は、支店ごとに新しい契約をExcelファイルにまとめて、データベースに登録されたデータとにらめっこしながら間違いがないか確かめるのがエヌ氏の仕事の大半を占めていたが、ここ10年ほどの間にそれらの仕事は全てPCが自動で行うようになってしまったらしい。ここ最近のエヌ氏の仕事と言えば、会議という名目でお偉いさん方のゴルフ談義に相槌を打ったり、部下の回してくる稟議書に簡単に目を通したあと決裁のハンコを押すくらいである。

「本日はAM9:00より、エンジニア部門のティー氏と面談があります。」という声が聞こえる。PCのカレンダーに書いてあるようなことを伝えるのにAIが必要なのか、と思いながら、そういえばこの機能はオフにできるのだったということに思いあたり、しかしまあオフにすることもないかと考えたあたりで、エヌ氏の頭はティー氏から事前に送られた資料へと移っていった。


4.

「まあそう毛嫌いするなよ。AIってのも意外と可愛いものだぜ」と、ティー氏は大きく手を広げながら言った。ティー氏はエヌ氏の同期で、一緒に仕事をするときには雑談も兼ねて情報交換をするのである。

「しかしね、奴らには感情というものがない。人間がちょっと考えれば分かるようなことだって、奴らは何回言っても分からないんだ。」

「おいおい、感情がないってのとその話は別だろう。それに、そういうのは最近のアップデートで随分と改善されているじゃないか。」

「そりゃあ、君みたいにアップデートを逐一追いかけて、カスタマイズしていればそうだろうけどね、生憎私はそこまで暇じゃないんだよ。」

ひどいなあ、それじゃまるで僕が暇みたいじゃないか、というティー氏に実際そうだろう、と笑って返しながら、デスクトップに表示されたビデオ画面の終了ボタンを押した。ヘッドセットを取って、おや、マグカップのコーヒーがなくなっている、と気づいたエヌ氏は職場を出てキッチンに向かった。閉じた扉の向こうから「今回の通話の品質はいかがでしたか。」と聞く声が微かに聞こえた。


5.

職場に戻ってカレンダーを確認したエヌ氏は、午後からお得意様との接待があることに気がついた。この時代でもさすがに飲み会まではリモートではできなかったらしい。といっても、仕事のリモート化が進むにつれて社内の飲み会はほぼ全て無くなり、接待もその数はグンと減った。今日の接待の相手は某大手電機メーカーの会長で、年で言うとエヌ氏よりも二回りも上である。たしかにその年代であればビデオ通話のミーティングよりも、飲み会をした方が心を開いて話をした気にもなるのだろう、と思いながら、エヌ氏は胃薬を飲み干した。車のキーを取り、玄関の扉を閉めながら、こういうときこそ行ってらっしゃいの一言も言わないのだな、と思いつつ車に乗り込んだ。


6.

エヌ氏が席につき、行き先を入力すると車は滑り出すように発進した。車にも当然AIが入っているのだが、その機能は主に自動運転・安全確保・車内の環境整備等で、住宅用のAIとは全く違う技術が使われている、らしい。技術的なことはわからないが、とにかくあいつよりうるさくないのは良い、と思いながら音楽に耳を傾けていると、控えめなブザー音が数回鳴り、車は路肩に停車した。ここはまだ目的地ではないが...と思いながら画面を覗き込むと「Untraceable error occurred.」と文字が表示され、その下にわけの分からない文字列がずらっと並んでいる。こいつもか、と思いつつ仕方なくのそのそと車の販売代理店の電話番号を調べ、電話をかけると、電話だけでは少し状況がわからない、一度回収に伺うが、作業員を大幅に減らしていて人手が足りないので2時間ほどかかる、との返事が返ってきた。

「どうせこの車の時代に歩く人なんかいないんだ、キーは置いとくから勝手に持っていって後で連絡してくれ。」

というと、エヌ氏は電話を切った。


7.

今回の飲み会の幹事をしていた上司に電話をすると、自動運転用のAIが止まった、という事情が非常に珍しいのもあって飲み会に行けないことについては特にお咎めもなく、逆に事故はなかったのか、怪我はなかったのか、と大層心配された。実際にはかなり地味な止まり方だったので、エヌ氏の方が恐縮してしまうくらいであった。しかし止まったのが家の近くでよかった、これが歩いて帰れない距離だったら2時間待って代車を手配してもらうしかなかった、などと考えながら誰もいない街を歩いていると、ふと、そういえばこの辺に昔通っていたバーがあったな、と思い当たった。もう何年も歩いてないとはいえ、さすがに若い頃の記憶は色褪せないもので、多少風景は変わっているものの迷うことなくバーに辿り着いた。今日はもうどうせ仕事もしないのだ、バーくらい行っても怒られやしまい、と思いながら覗き込んだが、バーの扉には古びた「CLOSED」の掛け札が掛かっていた。この時代にバーなぞ営業して儲かるはずはない、とは分かっていたものの、若干の期待があっさりと裏切られたことに心を沈めながら踵を返そうとすると、にゃあ、と小さな声が聞こえた。


8.

都市部に住み着く動物--例えばカラス・犬・猫といった類--は主に飲食店などから出る残飯を食べながら生きていた。生活習慣の変化で通信販売が主となり、食品の小売店も激減した現代においては、これらの動物の数も激減してしまった。もちろん、衛生的や景観的な観点からも減ることは良いことではあるのだが、エヌ氏にとっては、町全体が死んでしまったような、なにか非常に不気味な気分がするのである。夜間は町全体を外灯が照らしているため、子供の頃のような暗闇の恐怖、というものはなくなったのだが、言うなれば死の恐怖のようなものをエヌ氏は心の底で感じていた。そのため、はじめに声を聞いたときは驚いたものの、バーの扉の前に蹲る猫を確認したエヌ氏に訪れた感情は安堵であった。もう何年も野良なのか、毛並みもぼうぼうで、全体的に力なく体を伏していた。久しぶりに、あるいは初めて見る人間であろうエヌ氏に若干の興味は抱きつつ目はあげたものの、それ以上の動作はする元気もない、といった様子ですぐに目を伏せてしまった。


9.

出来心だったのである。いや、別に悪いことをしたとは思っていないし、むしろ善行であったとすら思う。飼い主がいたとしても、あの状態ならもう何年も見つかっていないのだろうから、とっくに探すのを諦めるかあるいは最初から捨てるつもりだったのに違いない。しかし、人間も猫も変わらず現金なもので、数ヶ月ぶり、あるいは数年ぶりの風呂と満足な食事を済ませると、先ほどはあんなに力なく伏していたのが元気に走り回っている。拾った時はもう先は長くないのかと思ったが、こう見るとまだ存外若いのやも知れぬ、と思いながら眺めていると、パトロンのことを思い出したのかこっちを見てにゃあともう一度鳴いて見せた。

「PM22:00です。そろそろ就寝のご準備をされてはいかがですか。」

「ああ、そうするよ、寝間着と歯ブラシは出しているかい?」

「はい、いつもの場所にご用意しております。今日も一日お疲れ様でした。」

猫の方に向かって手をパンパンと打つと、すぐに寄ってきて足元に甘えてくる。こういうところを見てもやはり元々は家猫だったのは間違い無いだろう。なんにせよ、こいつを見つけただけでも今日の沈んだ運気がいっぺんにプラスに転じたようだ、と思いながらエヌ氏は寝間着に腕を通し始めた。


10.

異変が起こったのは深夜1時頃である。ダイニングの方からブザー音が鳴っているのでエヌ氏は目を覚ました。車に続いて家もとは、今日は厄日なんじゃないか、と思いつつエヌ氏がダイニングに向かうと、ダイニングの電気が自動で点灯した。おや、電気の系統は無事だったのか、と思いつつエヌ氏がダイニングに入ると、ブザーはAI用のスピーカーからは出ていないらしいことが分かった。床を見ると、猫がソファーの下に潜ろうとしたらしい、首のところでつっかえて、身動きがとれなくなっていたらしい。ブザー音はその奥から鳴っているようだった。猫はエヌ氏の方に顔を向けると

「Untraceable error occurred.」

と声をあげた。


11.

AIペットというものが流行ったことがあった。もう5、6年前になるだろうか。廃れた理由には、そもそも作りが雑でしょっちゅうエラーで止まっていた、というのもあったのだが、最も大きな理由は「AIが弄んで、騙しているような気がするから」というものだった。「どうせ人間はこういう甘えてきたりするのが好きなんだろ、ほら、喜べよ」と言われているような気がして素直に可愛がれなかったらしい。なるほど確かに、AIが「感情らしきもの」を作り上げて人間の好みに調整しているとすればそのような感想にもなるのかもしれない。しかし、先ほどの猫の甘える姿、走り回る姿、力なく伏す姿が、生物のそれと何ら違いがあるのだろうか。

エヌ氏は猫をソファーの下から救出し、尻尾の付け根をまさぐった。過去に発売された型と同じであれば、ここにリセットスイッチがあるはずである。やがてエヌ氏は小さな突起を認めると、迷うことなく押し込んだ。

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