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狂妹 -きょうだい-  作者: 熱井コーヒー
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空 白

「生きてさえいれば……」


 などとよく言われるが、それで日常が戻って来るのかと言われれば答えは当然ノーだ。確かに僕も最初はそう思った。雪希は生きている。生きてるんだ。そう思い込もうとした。だが現実はそんなに甘くはない。


 体幹機能の全廃、一級障害。


 日常生活は困難を極め、介護者がいなければ生きていくことはできない。それだけでも今後の展望が見えず脳が現状理解を拒否するというのに、警察との事故現場の実況見分、弁護士や保険会社、車両接触相手との面談など事務的処理が相次いで発生し僕の精神は限界に達していた。


 もう後半になって来ると、自分がなにをしていたのか思い出せないし思い出したくもない。余程嫌なことがあったのだろうが、僕はその時の記憶をばっさりと切り落としていた。しかし人間というものは残酷なもので、自分が最も思い出したくない要素だけはしつこく食い下がっていたりするものだ。雪希のお母さんからひどく責められた時期があったのだ。


 全ての内容までは思い出せない。正確に言うと雪希のお母さんの言っていることの大半が支離滅裂で理解ができなかったのだ。彼女はそれだけ取り乱していた。しかしそれも当然だ。実の娘が突然寝たきりになり、輝かしい未来が奪われたのだ。始めは事故対象者との面談で相手に怒り狂うこともできたであろうが、その面談も自由にできるわけでもない。感情の矛先が迷子になり、結果的にそれは僕へと向いた。


 どうして娘に運転させたのか。あなたにも原因がある。


 実際そのようなことも言われたし、僕に向けられる目はいつもそのように訴えていた。雪希方の両親と、僕の両親との関係は一時期極めて険悪になっていた。あなたの我が子が不幸になった心情は理解はするが、だからといって息子が責められる筋合いはない。息子も被害者なのだ。と。


 庇ってもらった所で、僕の心が救われるのかと言われれば当然そんなことはない。それに今回の件で最も不幸なのは、雪希に他ならない。


 雪希が家に戻ってきたのは、事故から一年が経ってからだった。ようやく身の周りの事務処理が片付き始め、自宅介護に切り替えることができたのだ。


 もともとそんなに広くはなかった1DKの間取りの部屋。雪希が戻ってきても不自由のないように、できる限りのことをした。まずは介護ベッドの導入からだった。それにあたって今まで使っていたセミダブルのベッドは破棄することになった。介護ベッドを置くとなると、狭くて置くことができないのだ。


「結婚したらもっと広いところに引っ越して、ダブルベッド買いたいね」


 セミダブルの狭さに時々愚痴をこぼしていた雪希はそんなことを言っていた。


「介護ベッドも置けるくらい広い所がいいね!」


 なんて僕も笑って話していたのに。おじいちゃんおばあちゃんになっても一緒にいようって、そういう意味で言った言葉だったのに。まさか介護ベッドの方が先になってしまうなんて……。


 雪希にはとにかく今までと同じ日常の中で暮らしてほしかった。だから僕は雪希の前ではいつもと同じように振る舞った。雪希はこれから、自分の身体が既に日常からかけ離れてしまっている事実を、嫌でも自覚する毎日を送ることであろう。そこで僕まで陰鬱な空気を出してしまっては、雪希はどこに心の拠り所を設ければいいと言うのだ。


 贖罪……。


 そんな気持ちがないと言えば嘘になる。僕があの日車を運転していれば……。そんなたら・ればには意味がないと分かっていても、僕は罪悪感を感じずにはおれなかった。雪希はそんな気持ちで傍に居られたところで迷惑なだけであろう。それでも僕の彼女を守ってやりたいという気持ちに嘘はない。


 だけどそれと同時に……自分の心を守るためにも、僕には彼女が必要なのだ。


 雪希は首から下が動かないとはいえ、言葉を発することもできるし思考もちゃんとしている。


 ただ、一時的な記憶障害ということで、一部の過去の記憶がひどく曖昧になってしまっていた。親しい人との過去の思い出。それが大部分欠落してしまっているらしいのだ。


 もともと思い出を記憶する脳の部分と日常動作を記録する脳の部分は別々で、雪希は日常動作の部分は覚えているものの、学生時代の思い出、両親との思い出、また美玲との思い出など、一部思い出せない部分があるという。


 今回の事故の影響で、恐らくその思い出を記憶する脳の部分に何かしらの影響が出たのであろう。正直それは本当に大丈夫なのかと心配だったが、それも含めて退院にOKが出たのだ。これに関してはもう医者を信じるしかない。日常生活のことを忘れていないだけでも、雪希の不安はかなり軽減されるはずだ。


 それに不幸中の幸いか、僕との思い出は覚えている部分が多い。流石に全部とは言わない。が、これは僕の予想ではあるけれど、僕との思い出は鮮度の高い記憶だったから。というのが大きいのかもしれない。同棲していた三年間、最も彼女の傍にいたのは僕だ。思い出の数なら他の誰にも負けていない自信がある。忘れられていないことは、僕にとっても嬉しいことだ。


 今日から僕らの新しい生活が始まる。はっきり言って明るいものではない。恐怖ばかりだ。僕のと雪希の心は一体どこまで耐えられるのだろう。誰か助けになってくれるだろうか。僕が挫けてしまったとき、誰かが僕を支えてくれるだろうか。


 綺麗事ばかりではいられない。介護は一人ではできない。気持ちの準備もできないままに、修羅の道に突然放り込まれた僕らの戦いは始まったばかりだった。




 そんな気持ちを察してなのか、なにより僕らに歩み寄ってくれたのは妹の美玲だった。


 毎日のように僕らの家にやって来ては、様子を見に来てくれる。美玲は兄である僕に似て、昔から明るい性格ではなかったが、今回の件で余計に暗くなってしまったような気がした。僕としてはそれが少し心配だった。家に来る度に美玲は辛く悲しそうな目をしている。僕は心が痛んだ。


 そんな美玲に僕は気を遣わせてしまっている。兄失格だ。


 高校生になったばかりの美玲は、ほんの少し大人びたようで、制服もよく似合っている。考えてみればバタバタしていて、高校入学のお祝いすらしてやることはできなかった。


「美玲。遅くなったけど、入学おめでとう。制服似合ってるよ」


 突然そう言われて美玲は珍しく驚いたような顔をして、耳を赤くしていた。


「雪希はどう思う?」


「うん、美玲ちゃん。よく似合ってるよ。可愛い。確かすごく頭のいい高校でしょ? なんてとこ入学したんだっけ?」


 突然雪希が僕に振ってくる。


「えっと……あれっ、美玲どこ受かったんだっけ……?」


 正直この一年、事故のことで美玲のことはほとんど構ってやれなかった。可愛い妹のことなのに、どこの高校に入ったのかすらも記憶から飛んでしまっている。いくら状況が状況とは言っても、美玲にとって兄に自分の進路のことを忘れられたのは面白くないことなのは間違いない。


「……碧ヶ岡高校」


 そうぽつりと答えて美玲は顔を伏せてしまった。流石に状況を察したか、雪希も慌てたように明るく声を上げる。


「……あっ、すごく頭のいい高校じゃん! 私そんなに頭良くなかったから! 美玲ちゃん凄いなあ。めっちゃ尊敬する!」


 ……もう遅いよ。


 そう僕は心の中で呟いていた。


「……ごめんねお兄ちゃん。私そろそろ帰るね」


 か細い声色でそう呟いて美玲は立ち上がる。


「あっ、じゃあ送ってくよ」


 僕も立ち上がった。ここで一緒に帰って少しでも美玲の機嫌を直しておきたい。もちろん兄として可愛い妹を夜道一人で歩かせるわけには行かない。一応雪希の顔をチラ見して「大丈夫?」と小さく聞いた。瞬きもせず、雪希は「もちろん」と答えてくれた。


「じゃあ美玲、行こうか」


 そう言って僕は美玲を玄関に促す。


 ……一瞬。


 ほんの一瞬だけ、美玲の雪希を見る目がひどく冷たく見えたのは気のせいだろうか。自分のことを忘れられた目でもなければ、哀れみの目とは違う。もっと何か別の感情が入り混じっているような。


 美玲がこの表情をするのは初めてではない。雪希が退院して、美玲が家にやって来るようになってからだ。


 本当にただの気のせいの可能性もある。だとすれば美玲に対して大変に失礼だ。だがこの違和感を感じていたのは僕だけではない。当の雪希本人も同じ感覚を抱いていた。雪希はその件を不安な声色で僕に訴えてくることがあった。


 正直分からない。女の子同士のことだとすれば、僕には理解しかねる部分もある。美玲と雪希は僕の知らないところで遊んだりもしていたようだし、当人同士の感情のやり取りなんかもあったのかもしれない。


「まあ、思春期だろうからさ……」


 僕は曖昧な答えを雪希に返しておいたが、やはり気になった。


 ……雪希の抜け落ちた記憶の中に、美玲の逆鱗に触れる何かが存在していたのか? 2人の思い出の中に僕の知らない雪希と美玲が居る。ケンカでもしていたのだろうか。そんな雰囲気は感じなかったが……でもきっと大したことはない。美玲はそんな小さなことで人を責め立てたりする子じゃない。




 美玲を送って帰宅した僕は、モヤモヤしたものを抱きながら雪希の傍に座り手を握った。雪希は天井の一点を見つめてぼんやりとした声色で呟く。


「私……美玲ちゃんに、なにをしたんだろう……」



 つづく

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