暗 転
妹が僕に特別な感情を持っているのではないか?
それを感じ始めたのはあの忌々しい事故が起こってからのことだった。
あれは二年前の大学サークルのOB会の帰り道のことだ。
婚約者の白瀬雪希が運転する車の中でほろ酔いの僕は饒舌になりながら、大学時代の思い出を彼女と語り合っていた。
僕こと谷川晶と雪希は大学時代にサークルで知り合った。特になんの変哲もない、ゆるい運動系サークルだったが、雪希と話をしてみれば、専攻学科も、履修しているいくつかのコマも、趣味や好きな食べ物、プレイしているオンラインゲームまで何かと共通点があり、仲良くなるのには時間が掛からなかった。大学では一緒に行動することが増え、休日も時々ふたりで遊びに行ったりもした。遊んでいる内に僕は彼女に好意を持ち始め、雪希も満更ではなさそうだという謎の自信もあった。
告白は僕から。
最初僕からの愛の言葉を聞いて雪希は「君のことあんまりそういう風には見ていなかった」なんて言うものだから、僕は「ああ……振られてしまった」と絶望に打ちひしがれた。
しかし答えはOK。ポカンとする僕の肩をゲラゲラ笑いながら叩く雪希。後にあの時なにを笑っていたのか聞くと「今にも泣きそうな顔してたから。可哀想だし付き合ってやるかーって思った」と、かなりひどい内容の回答を貰った。でも僕は雪希のそういうところが好きになったんだから、腹も立たなかった。
雪希は名前に反して豪快で芯がしっかりしたタイプの女性だった。一方僕はプロレスラーのような名前の割には気が強い方ではなく、どちらかというと静かなタイプ。イジられやすいとも言える。だがそんな性格が雪希にとっては面白かったらしく、結果的には付き合えることとなったので、僕にとっては功を奏したと言えた。
そんな彼女と僕は結婚する。三年の同棲期間を経て、お互い社会人になり収入も安定して来た。
僕の一世一代のプロポーズ。滅多なことでは僕の前で涙を見せない雪希が、この時ばかりは泣きじゃくっていた。それにつられて僕も号泣する。知らない人から見たら異様な光景が、そこには広がっていたことであろう。
流石にまだ子供のことまでは考えられなかったが、僕は雪希と一生を共にしたい。心の底からそう思い、晴れて僕らは婚約者同士となった。
OB会でそう報告した時、皆が祝福してくれた。その日の会は僕らの婚約パーティーとなった。
場の雰囲気から当然アルコールを出されたが、車で来ているからと断った。しかし雪希が「帰りは私が運転するから大丈夫だよ」と今日は楽しむように勧めてくれた。もともと雪希はお酒を飲まない。ジンマシンが出てしまうのだ。
たとえ強くお酒を勧められても毅然とした口調で断る。しかしその分、場を盛り上げてくれることに労力を惜しまない。そんな彼女は皆から愛されており、僕自身もそんな彼女と結婚出来ることが誇らしい気持ちだった。
走り慣れた道。雪希も運転がヘタなわけではない。むしろ僕の方が免許を取るのが遅かったくらいだ。デートでは雪希が運転して僕が助手席。そんな時期が短かったとは言え存在したこともある。
全てがひっくり返ったのは本当に一瞬だった。
脳に直接響くかのような強烈な轟音。暗転と激痛。冬にも関わらず額を濡らす、ヌメリ気のある液体。いつもより低い位置から見上げるヘッドライト。耳の奥で反響するクラクションの音。ドラマでしか見たことのない救急隊員の切迫したやりとりと、脈を測る医療機器の無慈悲な電子音……。
そんな中で僕は馬鹿みたいに、昨日見た夢の話をするかのように、抑揚の無い言葉で救急隊員の質問に対する受け答えをしていた。その傍らで別の隊員が、受け入れ先の病院の担当者らしき人物と連絡を取り合っている。
「20代女性……意識なし……バイタル低下……」
聞こえて来たのはそんな内容だった。
そう。僕の怪我は大したことなかったのだ。深刻だったのは彼女……雪希の方だった。
『なぜ?』
『どうして?』
『彼女に限ってそんな』
『これは夢だ。きっとそうだ』
救急車の中で必死にこれは悪い夢だと自分に言い聞かせる。だけどいつまで経っても目が覚めてくれない。
雪希。早く僕を起こしてくれ。きっとひどくうなされてるはずだ。どうして起こしてくれないんだ。
病院に着くや否や、ストレッチャーに運ばれて雪希の緊急手術が始まった。親族の同意書も何も交わさない手術。つまり命の危険があるということだ。『手術中』の赤い灯がぼんやりと廊下を照らす。
僕自身も念の為の精密検査を余儀なくされた。その時の僕はイライラしていた。僕はなんともない。ただ雪希の情報さえ貰えればいい。むしろ雪希がどうなっているかの方で精神がどうにかなりそうだった。
僕の両親と妹。そして雪希の両親が病院に到着する。雪希のお母さんに関しては取り乱しっぷりが普通ではなかった。僕の母と抱き合ってただひたすらに無事を祈っている。父方はお互い状況が分からないまま、なにを言えばいいのか分からない。といった具合で、その沈黙は空気をより一層重くさせた。
そして妹の美玲はベッドに横たわる僕の傍でなにも言わずに椅子に座っていた。
当時、美玲は中学生で「近しい人の命の危機」という出来事にはまだ直面したことがなかった。両親の祖父母は健在だったし、恐らく今回のことは美玲にとっても青天の霹靂であろう。
しかも美玲は雪希に懐いていた。精神的なショックは計り知れない。無表情のようで、目には明らかに動揺が走っている。僕はきっとここで美玲に対して「大丈夫だよ」と言ってやるべきだったのだろう。
僕と美玲は10以上も年齢の離れた兄妹だったのもあり、お互い一つ屋根の下に暮らしながら適度な距離を保つ。そんな関係だった。
かと言って仲が悪かったわけではない。美玲は僕を近所のお兄さんのようなノリでよく頼ってくれていたし、僕が実家を離れて一人暮らしをする時は泣き出して行かないでと嫌がっていた。
無理もない。僕が家を出る時、まだ美玲は小学生だった。突然家族が家を出るとなれば寂しくもなろう。僕もそんな美玲が可愛くて仕方なかったし、中学に入ったら自分がいない間に悪い男に引っかからないだろうかと心配していたものだ。
そんな可愛い妹に対しても、その時の僕に気遣う精神的な余裕はなかった。ただただ雪希への後悔だけが募り始めていた。
どうして僕が運転しなかったのか。
どうして酒を勧められるまま飲んでしまったのか。
どうしてあのOB会に出席してしまったのか。
どうしてあの道を選んで帰ってしまったのか。
運転していたのは自分ではない。だが、自分が飲まずに帰りもちゃんと運転していたら少なくとも雪希は無事だったかもしれない。自分なら身体が頑丈だから、生命力が強いからきっと助かるはずだ。自分なら、自分だったら……。
雪希の容態を医師から告げられた時のことはほとんど覚えていない。
僕の頭はその内容を受け入れられなかったし、無意識に拒絶していた。双方の母は泣き崩れ、父は深い溜息を吐き、眉間に深い皺を寄せる。美玲は将来の義姉の不幸に声もなく一筋の涙を流していた。
……結果は最悪ではなかった。雪希は生きている。最悪ではない。だがこの上なく残酷だった。
脊髄損傷。
首から下はもう動かないし、一生治らない。
あの時告げられた内容で、僕が唯一思い出せるのはただこの事実のみだった。
つづく