プロローグの前のお話
初めまして。見切り発車でどこまでいけるかわかりませんが是非暖かく見守ってください。
では、どうぞお楽しみください。
人里離れた山奥、鬱蒼と茂る草木の中にそれは存在している。周囲には濃い霧がかかっておりひんやりとした冷気が漂っているというのに、その場所だけは暖かな空気に包まれていた。この山の王者と呼ばれる存在でさえも近づかない、安全地帯とでも言うべきその場所には一つの小さな建物が建っていた。
今は夜。このような辺鄙な場所に人が訪れる訳もなく。今日も今日とて人の訪れることのなかった建物は、夜闇に哀愁を溶け出しているようにも見えた。
――――ざわり
唐突に、森が蠢いた。
辺りに尋常ではない冷気が漂い始め、山の獣達が恐怖の入り混じった声で遠吠えを上げる。彼らの目線はまるで目を離すことができないとばかりに天高くに固定されていた。
彼らの目線の先。どこまでも澄み切った不純物のない夜空を赤黒く照らす巨大な隕石が一つ、猛烈な速度で差し迫ってきていた。
力のない小動物達は我先にと山を下り始める。その数はゆうに100を超えている。その中にちらほらと見られるのは力ある獣達。常に蹂躙する側に君臨していた彼らが、プライドもなにも捨て去り逃走に走る姿はなんとも珍しく、そして異常であった。
――――ぎゃ、ぎゅぁあ、ぎゅぅぅぁぁあああ!
徐々に増えていく逃走する獣達の声が入り混じり、さながら大合唱のように悲鳴が夜の山に木霊する。彼らが通った後には、薙ぎ倒された木々と大量の獣に轢き殺された小動物の死体が転がっていた。その死屍累々といった光景は隕石の赤黒い光も相まって現世に顕現した地獄のようだった。
その様子を諦めきった顔で見つめる獣が一匹。山の王者である銀色の虎である。ゆうに5mは超える巨大な体躯、白銀に灰色の縞が入ったその体毛は隕石の光を反射して赤黒く輝いていた。剝き出しの牙は鋭く、顔の右上から左下にかけてつけられた切傷によって隻眼となっているものの尚その眼光は鋭かった。歴戦の戦士を思わせる彼はその四足でしかと大地を踏みしめていた。
彼の配下は恐怖に震え山を下っていく獣の一匹と化し、今ここにいるのは彼一人だけだ。彼はその目を細め、今なおそのスピードをぐんぐんと上げている隕石に視線を移した。
「この山も終わりか......」
長い年月を生き、高い知性を得た彼にとって人語を理解するというのはさほど難しいことではなかった。
その人語を教えてくれた友人も今は亡きがらとなり、山の獣達にきつく言い聞かせ近づかないようにしたあの不思議な場所、安全地帯に眠っている。
人間の一生とは短いものだ。彼はそう思う。1000年は生きる自分達に比べれば100年などそこまで長い時間ではない。ましてや、彼と友人が出会った時には友人の残り寿命は30年も無かった。
ああ、なんと人間とは脆弱な生き物だろうか。脆弱で貧弱で虚弱で病弱で柔弱で惰弱で薄弱で羸弱でそれでいて美しい。
「彼は王である私に恐れもせずに近づいた。彼は王である私を救った。彼は王である私を友と言った。彼は王である私ですらできないことを軽々とやってのけた。それでいて何の対価も求めなかった。彼はまさしく王の器だった。彼は我々の救世主だった。彼は王である私の誇るべき友だ。だが、彼は死んだ。だが、彼は言った。『我死のうとも我の魂この山と友の元にあり』と。だから私はこの山を守る。この私を守る。彼の魂を守る」
山の王者は目を見開いた。
彼の銀の体躯は今、真紅のオーラに包まれ燦然と輝く太陽と化した。そのまま体を低く屈ませ牙を剝き出しにて笑った。そのどんな剣よりも槍よりも鋭い牙にも真紅のオーラが流れていき在りえない程の熱量を迸らせた。
「私がッ!!守って見せるッッ!!!!!」
山の王者が、跳んだ。
「太陽牙ああぁぁぁぁぁああああああ!!!!!」
全体のバネを最大限まで使いもの凄い速度で縦回転しながら飛んでいく彼の姿は真紅のオーラも相まって火の車のようだった。
夜空を駆ける二つの隕石。一つは赤黒く光りながらものすごいスピードで。一つは赤く、紅く光りながら猛烈なスピードで。二つはそのまま衝突し――――――
山の王者が敗北した。
その圧倒的な質量には手も足も出なかった。心意気だけでは勝てないという現実の辛さの一端を見せつけるその光景に、山の王者は血を流しながら絶望した。
「なにが......山の王者だ...がふッ......これではまるきり...お笑い種ではないか...ッ!!」
友の眠る場所すら守りきれない己の不甲斐無さに歯ぎしりするも、軋んで動かない体では終焉を黙って見届けるしかないのだ。山の王者は心の中で友に謝罪した。
(すまぬ......お前の眠る場所は守れそうにない)
迫りくる死の恐怖よりもそのことを山の王者は大いに悔いた。もはや飛びかかっている意識をなけなしの気力でかき集めなんとか意識を保っている状態なのだ。生きていることすら奇跡と言ってもいいレベルのものだろう。
(私も......すぐ、そちらに行く)
山の王者の意識が霞がかってきたころ、赤黒い隕石が安全地帯にぶつかる直前。
奇跡が起きた。
隕石がキラキラと雪のような赤黒い粒子に変わったのだ。粉雪よりさらにきめ細かいその粒子は安全地帯に降り積もり、そして消えた。
幻想的なその光景に山の王者はしばし呆然としたあと笑みを浮かべこと切れた。その死に顔はとても満足気だった。
友を思う気持ちが奇跡を起こした、などと言うちゃちなことは言わない。世の中の奇跡はいつだって偶然ではなく必然なのだ。偶然など存在せずそこにあるのはいつだって必然だ。
だから彼がここに産まれたのも必然だ。彼の存在がこの世界に与える影響も決して神の悪戯などではなくこの世界の意思。つまりは必然なのだ。
これは彼の誕生した日の出来事。これもきっと必然であり何かの布石になるのだ。だが、ただ一つ言えるのは、必然に操られることのなんと寂しい事か。産まれる日も死ぬ日すらも必然に雁字搦めにされているのは、必然の操り人形になるというのはやはりきもちのいいものではないのだろう。
これは王の話。禁書の王の話だ。最期まで必然に逆らった、愚かな王の話である。