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砂に埋もれる月  作者: 鷹臣 えり
7/7

第五章 満たされるなら

『 Le 15 Septembre de 567

 二年前、予定より二日遅れて産まれた女児は、今は元気に庭で世話係りと遊びまわっている。彼女は生まれ出たときよりその気性を表すがごとく、逆立った赤髪と吊りあがった目がとても印象的で外見上は男の子に見えてもおかしくない。シュッダイナの血を色濃く受け継いだ結果でしょうね。また人形遊びやごっこ遊びよりも、馬や剣術の真似事を好んでいる。これじゃあお嫁にいけないわ。――けれど誰に嫁ぐというの。

 そうそう、サリエヌから手紙が届いた。

 先月男児が産まれたというのだ。彼女の子を見ることはできない。だけど、彼女に良く似た切れ長の目だろうと想像する。身体を冷やすことのないよう無理をしなければいいけれど。とにかく彼女がシュジュルに嫁ぎ、幸せでいるということに安堵した。

 ずっと考えていた。

――女を捨てたの。

 彼女が嫁いだ直後の手紙に、書き殴った文字がそれ。彼女はずっと自分の中の女を否定してきたのかもしれない。だけど私が思い出させようとしていた。彼女の苛立ちは、そのままぶつけられていただけなんだわ。でもそんな考えは、まったく私とソレイユが勝手に思ってなすりつけたことだったのかもしれない。

 女なんていくらでも取り戻せるわ。……以後略』


1


 瞬間的な痛みに、リュンヌは伸ばした指先を引いた。

 触れたものを確認しようと目を凝らすことはない。最近、しばしばこうしたことが起こる。

 胸の前で怪我をした手を反対の手で包み込む。傷は大したことはない。指先をほんのかすめただけだ。

 手紙の封書を開ける時に、挟んでいたであろう硝子。破片は指先ほどの小さなものだった。

「マンマ?」

 娘のヴィヴィアンヌは今年で二歳になる。活発な子で、人形遊びより棒を振り回すのが好きな子である。最近言葉の発達が目まぐるしく、また手足の動き方も器用になってきた。

 リュンヌは快活に笑う幼い子を抱き上げ、頬を寄せる。

 ヴィヴィアンヌに怪我がなくてなによりだ。もしかしたら怪我をしていたのはこの娘かもしれない。

「どうされましたか」

 乳母はいない。子供の世話はリュンヌとやはりマリアが協力して行っていた。王族は本来なら子供が生まれた直後から乳母を置き、しっかりとした教育を施すのが通例である。しかし頑としてリュンヌが手放さなかったのだ。

 リュンヌは硝子を挟んだまま封筒をマリアに突き出す。

「またですか?」

 マリアは顔を歪めた。

手紙はいつも何かに紛れて入っていた。今日は果物を入れたかごから出てきた。人づてに渡された手紙ではないから、硝子が必ずあると確信して用心ができる。今日は油断した。

現在はマリアの信頼のおける侍女に、こっそりと調べてもらっている最中だ。だが所詮侍女は女である。犯人を突き止める以前に、世間話で終わってくるということもしばしばある。しかしそろそろ動かねばならないか。些細な悪意の連続だからこそ、これからもそうなのだろうと楽観してしまいそうになる。

 今のところ、その他の害はない。これは警告と受け取って良いのだろうか。では何故に。

「祭事の準備が午後からなされるようです」

 王妃としての仕事もそつなくこなせるようになった。祭事は、国民の健康と豊穣を喜び分け与えるもので、神の役割りを王と王妃が行うのだ。以前まではサリエヌがその役割を担っていたが、今年はシュジュル国の来賓として招かれる。

 祭事の準備は、主に段取りの打ち合わせである。臣下の前で、どう振舞えばよいのかはマリアではわからない。呼吸法までいちいち規則があるのだ。

「何事もなければ良いのですがね」

 マリアが頬に手を当てた。

 大人二人の神妙な顔つきに、ヴィヴィアンヌは興味津々でまとわりついてくる。

小さな子供に不安などない。

 王も幼子を、暇を見つけては可愛がってくれるのだから。


 ローサと面識はさほどない。約二年前、ヴィヴィアンヌが産まれた直後にローサはソレイユのもとに嫁いできた。

 王位継承権第一位であるソレイユとの婚姻は、リュンヌは出席しなかったがそれなりに豪華だったという。ただ今回は、国民の参加はなかった。王位を継ぐ時にこそ、ソレイユに意味がある。

 リュンヌはあえてふたりの様子を伺ったりはしなかった。時折ソレイユが訪ねて来ることはあったが、その目的がいまだ忘れられぬ女の面影を追ってであるから、早々にマリアの警告付きで立ち去ってもらう。リュンヌはこの二年、まともに彼の顔を突き合わせたことはなかった。

 それもよい。

 リュンヌはすでに王妃として王と歩んでいこうとしている。ふたりの間には小さな可愛い女の子がいたし、実際育児によってそれどころではなかった。だが頭の片隅ではソレイユのことを気にかけていたのだ。脳裏に彼の顔を思い浮かべるたびに、胸の奥が切なく締め付けられていたが、今は彼の顔を思い浮かべるのは難しい。

 しかしなぜ。

 リュンヌの目の前には、知的な笑みを浮かべたローサがいる。彼女はまだ少女のあどけなさを残しながら、シュジュル国の王家を誇りに持つ女性の一面がある。艶やかな黒髪は長くなり、ゆるくひとつにくくっている。衣装は赤が多く、身体の線が表れる細身のものだった。

 ローサはスカートの両裾を持ち上げ、小さくお辞儀をする。

「なんの連絡もなく突然お邪魔して申し訳ありませんでした」

 伴って入ってきた彼女の侍女は、主人が一礼するとそれに習い、すぐさま踵を返して部屋を出た。

 突然の訪問にどう対応して良いか思案しているリュンヌに、マリアがそそくさとふたりを客間に案内する。

 リュンヌが深く座ると、向かいの長椅子にローサが浅く座った。

「相談があって参りました」

 世辞のひとつもなく、ローサは唐突に切り出す。遠慮はいらない、そう言われた気がした。

「ええ、なんでしょう」

 わずかに気圧されながら、リュンヌは首を傾げた。

「豊穣祭について、あなたと私の役を変わって頂きたいのです」

「え」

「私の夫・ソレイユは王位継承権第一位の方になります」

 リュンヌは思わず眉根を寄せる。

 確かに、ヴィヴィアンヌの王位継承権は女児であるがゆえにない。もしリュンヌが子に王位をと考えるならば、男児を産まなければならない。そしてその可能性は充分にある。

 子に王位が欲しいわけではない。だがこうもはっきりと牽制されるとわずかながら嫌悪がわく。

「つきましては、私と王が神の役を、とは思いましたがそれでは不自然です。王にお願いしたいのは、そろそろ王位をソレイユに譲っていただきたいのです。その進言をできればあなたが王にしていただければ」

 ローサの上目使いの目は鋭く、赤く薄い唇はにっと不敵に笑みを作る。

 驚きの表情でローサを見つめてから、返答に窮して視線を窓に移した。

 小窓からわずかに見える外の景色は深い緑である。空は澄んだ青色であり、穏やかに雲が流れていた。刺すような太陽の日差しはなりを潜め、身体を温める光になってきた。

 この女は、リュンヌを嘲っている。

 リュンヌは視線を他に移すことで、ローサの言葉の内容を冷静に考えることができた。

「あなたにはふさわしくない」

 おそらくローサは誰かにリュンヌのことを聞いたのだろう。そうであれば彼女の言動も納得がいく。

 それは私が決めることではありません、弱気とも取れる台詞をリュンヌは思いついて留まる。礼儀正しく好戦的なローサを前にして、それだけでは腹の虫も収まらない。

「シュッダイナが王であり、私は彼の妻であり王妃です。これ以上ふさわしい人間はおりません」

「……」

 思わぬ反撃に、ローサは目を見開いた。そしてそれ以上の攻撃の材料が見つからないようだ。ローサは鼻息荒く立ちあがり、口を歪ませた。唾を吐いて罵りそうな勢いだった。

「お帰りください」

 リュンヌも負けじとまっすぐに見上げる。

 ソレイユが妻を娶った理由は、明らかに王位の移譲を考えてのことだ。それはリュンヌが王に嫁ぐ前に決まっていた。

 ヴィヴィアンヌが産まれても、リュンヌは子に王位が欲しいと強請ったことはない。そして王も充分承知していた。なにも言わなくても、ソレイユが次の王である。だがローサの介入がここまで不快なものだとは思わなかった。

 湧き上がる感情にまかせてローサを睨みつけたが、ふっと怒りが途切れてしまった。

 恋愛感情もない男に嫁ぎ、しかもそこは見知らぬ国だ。周囲に友と呼べるものはおらず、自分の居場所を確保するには難儀な場所だろう。常に自分の存在価値を求めていたとしたら、王の母になることしか思いつかない。

――サリエヌ。

 女という意味を理解して、女の感情を捨て去った王女。

 リュンヌは改めてサリエヌに敬意を示したい。

「わかりました。王に伝えますが、期待はしないでください」

 先ほどまでの敵意を消し、リュンヌは柔らかく微笑む。

「……」

 一転したリュンヌの態度に、ローサは訝しむ。なにかを言いかけて口を噤んだ。

「無礼を働き申し訳ありませんでした」

 ローサも矛を収める。一礼して退室した。

 リュンヌはローサの細い背を見送る。

 ローサが去り、客間は一気に静かになった。

「ずいぶんと……」

 マリアが頬に手を当て、ローサが去った方角を見ながら

現れた。もう片方の手は、ヴィヴィアンヌの柔らかく小さな手を握りしめている。リュンヌはその先を手で制した。

「私はここを去るべきね」

「なにをっ」

 ふっと洩らした台詞に、マリアが顔を紅潮させる。

「ずっとふたりで考えていたことよ」

 リュンヌはマリアと視線を合わせず、はっきりと言い放つ。

「逃げるわけではないの」

 それ以上のことをリュンヌは口にしなかった。マリアの絶句した表情に笑ってしまいそうになりながら。


2


 その日の夜、リュンヌは遠慮がちに切りだし、しかし事実をありのままに王に伝えた。王は早寝台にもぐりこんで上かけを肩のあたりまで引っ張り上げていた。

 リュンヌはろうそくを吹き消し、そっとその背中に張り付くように寝台に入る。嗅ぎなれた男の匂いに安心して目を閉じた。

 ヴィヴィアンヌが産まれてから、王の寝室で三人眠るのは狭すぎた。そのためリュンヌの寝室で眠るようになった。

ヴィヴィアンヌは夫婦の寝台の隣に小さな寝台を設けている。これも五歳を過ぎると、別室を与えられるようになる。

 夜の空気は香の香りに満ちていた。そして王の白い夜着以外、目に映らない。

 耳を澄ますとヴィヴィアンヌの規則正しい呼吸音が聞こえてくる。

「それは奴の意思か?」

 奴――おそらくソレイユのことだろう。

 リュンヌは壁側を向く王の背に腕を忍ばせる。

「わかりません。けれども、ソレイユ様がそれほど王位にこだわっているとは思いません」

 王はわずかに唸る。

 ソレイユは次期王だ。それは間違いない。だがリュンヌたちの間に男児が産まれるのなら、話は変わってくる。そしてローサにはまだ子がいなかった。

 彼女が焦り出した背景には、次期王の問題が絡んでいるのかもしれない。

 故に、子の王位を望まぬリュンヌは己が立ち去るべきだと考えたのだ。昼のマリアへの発言の意味は、もうすでに準備が進められた上でのものだった。

 城下町・セロールから馬車で半日ある距離に館がある。隠居した王族が使用する館のひとつだ。

「ソレイユとローサはおそらく、夫婦ではない」

「え」

 そういった関係が結ばれていないのだろう、王は眠そうな声で続けた。あったとしても、女が望むほどのものではない、と。

「ローサには子が必要だ。故にソレイユが不能ならわしにとな。とんだ女だ。自分の地位が欲しいがために」

「……」

 あわよくば、か。王が吐き捨てる。

 王が複数の妻を持つことはなんら問題ない。ドグマニード王が今まで独身であり、またひとりしか妻を娶っていないということの方が、他の国から見れば「異常」とも言える。

 女を捨てて嫁ぎ、改めて女になる。否、女の皮をかぶらなければならない。

――サリエヌ。

 過酷な王族の生き方だ。リュンヌは額を王の背に痛いほど押し付ける。

「心配するな。わしにはおまえだけだ」

「いえ……」

 そういう意味ではないのだ。だが言葉が続かない。

 リュンヌの伸ばした手を、男の節くれた手が握り返す。幼子のように温かい手だった。


 祭事についての話し合いが終わり、足取り重く後宮内の寝室に戻ろうとしている時だった。背後から声をかけられ、その正体がわかると同時に振り返る。

 少しやつれたソレイユがいた。彼も祭事について役割がある。しかし就いた役割は毎年同じなのか、立ち位置の確認と進行を確認して早々に引き上げたはずだ。

 陽気な気候が続いていて、どこか頼りなげなソレイユの歩き方にリュンヌはまったく警戒心というものがなかった。

 近づいてくる男から、わずかに清涼感あふれる香りがした。

「ソレイユ様」

 息のかかる位置まで近づかれ、ようやく彼の陰湿な目に気づく。こちらを伺うようにわずかに背を縮め見上げていた。

 本能的な恐怖に、リュンヌは一歩後ずさる。その瞬間だ。

 逃すまい、ソレイユの腕が素早くリュンヌの腕に爪を突き立て食い込ませる。引き寄せられ、バランスを崩して男の懐に倒れ込んだ。

 鋭い痛みがさらに強くなり、必死に抵抗するも男の力には敵わない。その間にリュンヌは抑え込まれ身動きが取れなくなってしまった。

「ソレイユ様っ」

 胸板厚い懐に顔面を押し付けられ、呼吸がままならない。さながら酸欠の魚のように、空気を求めて上を向きあえぐ。

しかし男はそれを待っていたかのように覆いかぶさり、あろうことか唇を重ねてきた。

 その力は圧倒的。

 もがけど男はびくともしない。

 角度を変えて、ソレイユはリュンヌを求めた。

 息が続かない。

 鼻呼吸だけでは、酸素の量が絶対的に足りなかった。

 隙をみて顔を逸らしても、ソレイユの唇は追いかけてくる。やがてぬるっとしたなにかが口内に侵入した。それは妖しくうごめき、リュンヌの歯列をなぞって舌に吸い付いた。

「やっ」

 ようやく相手も息苦しさを覚えたのだろう。唇が離れた瞬間、リュンヌは思い切り男の肩口を突き飛ばした。しかし男はわずかによろめいただけで、互いの唾液で濡れた口の端を拭いながら顔を歪ませる。歪んだ顔の中に、リュンヌへの侮蔑がありありと含まれていた。

「欲求不満でしてね」

 口調は以前と変わりなく慇懃無礼だ。

 なにを言われたかわからなかった。わかっていたのはリュンヌの小さな身体だった。がくがくと震え、腰に力が入らない。ソレイユに対する怒りの大きさがほんの少しでも小さかったなら、その場に膝をついていた。

「サリエヌの代わりでいいと」

 あなたは言ったではないですか――そう薄ら笑いを浮かべて続けるソレイユ。反射的にリュンヌは背を向けた。この場に留まっては危険だと。しかしそれよりも早く男の強欲な腕は再び獲物を捕らえた。

 まるで狩りの練習でもするように、ソレイユはわざと力を緩めて隙を作る。しかし獲物は逃げ切れない。再び強い力で引き戻されていたぶられる。

 力を見せつけるように。

 何度捕まっただろうか。細く白い手首が、男の力で擦られ赤くなっている。背中に隙間なくぴったりとつく男の胸は堅い。もう逃すまい、背後から顎をとられ片方の手を石壁に固定される。無理やり後ろを向かされ、再び熱い唇と舌が頬を這う。

「一応、操は守ったんですがね、ローサには子ができなかった」

 仕方がない、低い声でささやく。

耳元に息を吹きかけられると反射的に子宮に響いた。

 ソレイユはリュンヌの反応をひとつひとつ楽しみながら、身体の線を背骨から尾てい骨にかけてゆっくりとなぞる。やがて柔らかい丘にたどりついた手はドレスの裾をまさぐりたくしあげる。

 すでに両手を封じられているリュンヌには、抵抗する術がなかった。

「なにをっ」

 鋭い声をあげたのはリュンヌではない。

 肩までの黒髪を振り乱し、鬼の形相で駆けてくるのはローサ。ソレイユの妻であり、次期王妃。

 ふっと、縛めの腕がほどかれた。途端に嗚咽がこみ上げ、膝をつく。抵抗できないという恐怖は、骨の髄までしみこんだようだ。全身ががくがくと震え、我が身を抱きしめ亀のように縮こまる。

 ローサは靴音を響かせソレイユの前に立ちはだかると、頬を叩いた。

 こぎみよい音が廊下に響きわたる。

 ローサは崩れ落ちたリュンヌと無表情のソレイユを交互に見て歯噛みした。

「あなたでは足りない」

 ソレイユは自嘲気味に呟く。

 ローサは目を見開いた。首を傾け、彼から発せられる言葉のすべてを聞き取ろうとした。しかし彼は言葉を発しなかった。

 リュンヌは異様な空気の中を、這うようにして抜け出し壁に手をついてようやく立ち上がることができた。

 にらみ合う夫婦がそこにいる。しかしリュンヌは割って入り、ふたりを諌めることなど思いつきもしなかった。ただただ自分の身を守るため、ゆっくり少しずつ後退し、何かに蹴り躓いた瞬間、脱兎のごとくその場を逃げ出した。


3


 根底には諦めがある。

 常に押さえつけられた状態で諦めを悟ると、いきなり自由だと言われても怖くて一歩を踏み出せないのだ。それは偽りのもしくは与えられた自由でしかなく、やはり完全な自由ではない。

 自由であるならばサリエヌを奪っていた。

 代わりになるというのだから、リュンヌにはそうなってもらうのは当然だろう。

妻のローサには充分に操はたてた。愛のない行為だったが行為は行為だ。しかし子ができなかったのは、愛がなかったという理由ではない。

 王妃ならすでに子を産んだという実績がある。男児を残し、次の王を擁立する義務があるのなら、少しでも可能性の高い方を選ぶのは当然ではないか。

 薄ら笑いを終始浮かべるソレイユは、ローサの金切声を無視してリュンヌを追いかけてきた。彼はたやすく王妃の腕を捕まえて石畳に叩き付ける。

 必要なのは子が宿る袋だ。外側はどれだけ損傷しようが関係ない。

 そのまま冷たい石床に女を組み敷いた。

「おやめください」

 顔を逸らし、拒絶の意を示す王妃が無性に腹立たしかった。女は欲しいものをほしいままに手に入れているというのに。

 顔を一発張り倒し、恐怖に打ちひしがれた女の首根っこを持って、さながら猫のような扱いで自室に投げ入れた。

 後ろ手で扉を閉め、鍵を閉める。重い金属の音が短く響く。


 男は加減を知らない。

 過去の夫と目の前の男の目が同じではあるが、夫はリュンヌを女として欲していた。同じ行為であるのに、目の前の男はただ女を征服することしか頭にない。リュンヌが床に頭を打ちつけられ、血を流していることに対してなんの感情もない。必要なのは、男の性欲のはけ口となる都合の良い穴だけ。

 そのような無表情の男になにを言っても無駄である。しかし、とリュンヌは身体への侵入を赦しながらぼんやりと思った。

 顔の美しい男は、何故に涙を流す。

 リュンヌを征服する表情のない顔で、唯一動くのは唇だけだ。そこから紡がれる名は、男の陰湿な表情とは対照的な溌溂とした女。

 リュンヌの上でせわしなく腰を振り、決してリュンヌを見ることはなく、彼の組み敷く女は脳裏に浮かぶ女が唯一だった。

 この男もか。

 リュンヌの価値はどこまででも代替品でしかない。

 しかしリュンヌは、王もソレイユも許した。自分の胸元でぶつけられる感情に飲み込まれながら、それでもふたりをいとおしいと思ったのだ。

 王のように愛を育むこともある。けれどもリュンヌはソレイユに対してはこれっぽっちも期待はしない。

 やがてリュンヌの責めぬ態度に飽いたのか、ソレイユは身体を離した。

 自分を見下ろしてくる男の肌に、リュンヌはつっと指を這わせる。汗ばんだ男の腕がびくりと強張った。

――ああ、これだ。

 リュンヌが男を許せる理由は、男が抱く罪悪感だ。彼は無表情を装うその奥で、サリエヌをとても愛していたし、代わりに感情をぶつける相手には、叱られた子供のように怯えている。

 リュンヌは泣くべきだったのか、拒否を続けるべきだったのか。

 いいや、すべてを受け入れてやるべきなのだ。

 リュンヌは離れていく男の腕をとり、胸元に置いた。見上げれば驚きに目を見開く男がいる。その男の後頭部に手を伸ばし引き寄せた。

 男は身体を震わせる。

「俺は――」

 男の懺悔程くだらないものはない。男が抱く苦悩など。

 リュンヌは両手で男の顔を引き寄せ、唇に触れた。男はがちがちと歯を鳴らせている。

 上体を起こしてみると、男はすっかり萎えていた。リュンヌは無意識にそれを口に含んで丁寧に舐めてやる。男は初め拒否の意を示したが、やがて獣のような荒い息遣いを繰り返し、リュンヌの頭を自分の方に強く押し付けた。

 口の中に出された精をリュンヌは喉を鳴らして飲んでやる。男のしっとりと汗ばんだ胸筋からわずかに心の臓が早鐘を打っているのが聞こえた。

「なんっ……で」

 ソレイユは泣き出しそうに顔を歪めてリュンヌを見下ろしていた。

 リュンヌは幼子のようにころころと感情を変化させる男を、まっすぐに見上げる。口の端から飲み込みきれなかったものが白い筋となってゆっくりと落ちていく。その行方をリュンヌは目だけで追った。

「服を着てください」

 普段の自分なら驚くほどの抑揚のない声だった。リュンヌは何ごともなかったかのように着衣の乱れを直し、身体中についた男の体液を無造作にドレスで拭いだす。

 男は寝台の上で未だ膝立ちであった。荒い呼吸も収まっている。

 リュンヌはふと周囲を見わたし、そして自分がいる男の寝台に目を落とした。ここで男は何人の女を抱き、そしてローサを嬲ったのか。

 ぽたり、透明な滴がシーツの上に落ち、灰色の染みを作った。喉奥から酸いものがこみ上げてくる。だが吐き出せそうになかった。

 ふと目の前に黒い影が落ちる。ソレイユの歯を食いしばる顔が間近に迫る。彼は男にしては細く長い指でリュンヌの涙を拭った。しかし反射的にリュンヌは顔を逸らした。

 その時だ、扉の向こうが騒がしくなったのは。

 しゃがれた太い声が近づいてくる。

――夫だ。

 リュンヌはゆっくりと寝台から降りた。自分につけられた赤い薔薇や征服の証をどう隠そうと思案して、どうにもならないことに肩を落とす。

「リュンヌ様」

 怯えきった幼子の声が背後でした。それが憧れていた男の声だとしばらくわからなかった。

 どうぞ、お好きなままに。焦点を失ったリュンヌが呟いた声である。一歩足を踏み出すごとに身体がふらつく。ソレイユがあわてて背を支えたが、軽く振り払った。

「だめです、今は」

 背後から強く抱きすくめられる。汗で男の身体は冷えていた。

「行かないでください――行くなっ」

 危険だと報せているのか、それとも彼なりの愛情の表れだったのか。彼にとって、リュンヌは自分を受け入れてくれる存在だと知ったのか。

 どちらでもよかった。

 出入口までは毛足の長い絨毯が続いており、すり足でリュンヌは幽鬼のように向かう。

 錠を開け、重い扉を開けた。そこには息を切らした大男がいた。白髪の入った髪は乱れ、衣服も祭事の話し合いの時のままで重そうだ。腰に差した刀剣に手をかけていた。

「あなた」

 リュンヌは一言つぶやいて、夫の大きな懐に身体を預けた。力強く抱きしめられる。頭の上に、夫の頬が擦り付けられた。

 リュンヌは王のシャツを掴み、ホッと息を吐き出しそのまま意識を失った。


4


 ローサがリュンヌの過去を調査しているという報告を受けたのは、夕食を終え寝室に戻る前だった。マリアが申し訳なさそうな表情で呼び止めたのだ。

「まったくもうっ」

 マリアは感情を表すたびに巨体が揺れた。

 リュンヌは唇に弧を描いただけで言葉を返さなかった。マリアはわずかに頬を膨らませたが、それ以上は声をかけず黙々と作業に戻った。内容は書面にすると言い残して。

「マンマ、ご本」

 娘のヴィヴィアンヌが無邪気に本を抱えて駆けてきた。長椅子に座るリュンヌの隣に、飛び込むようにして座り本を広げる。それは先代から何千回と読まれたのであろう、表紙は破けページも茶色く変色している。少しでも加減を間違えればたやすく崩れてしまいそうな紙だった。

 リュンヌは歌うように本を読み始めた。幼子が持ってくる本のほとんどは勧善懲悪の物が多く、男児が好みそうな冒険譚である。

「マンマ、虫いたいいたい?」

 読み聞かせの途中、娘はリュンヌの首元が赤くなっている箇所を指さした。少女の瞳は無邪気で、真ん丸に見開かれている。

 リュンヌは幼子の小さな手を握りしめ、ソレイユが付けた薔薇に触れるのをやんわりと阻止した。

「大きな虫がね、ちくんしたの」

 娘との会話は単純にうれしい。にっこりとほほ笑み、柔らかな頬にキスをした。幸いにも頭の傷は見つかっていないようだ。

 ヴィヴィアンヌはきゃっきゃっとはしゃぎ、母親の膝の上に座る。

 リュンヌは微笑み、読み聞かせを再開した。冒険譚は抑揚をつけなければ臨場感は伝わらない。登場人物それぞれの心情を察して、声音を変えて読み上げるのだ。一冊を読み終わる頃にはいつも喉がからからになっている。

 そして遊び疲れて満足したヴィヴィアンヌは、早々に自分の寝台に上がって寝息を立てるのだ。

 ようやく落ち着き、定位置に座ってリュンヌは茜色に染まる室内をぐるりと見渡した。差し出された紅茶の香りを楽しみながら、しかし口をつける気分ではない。景色の一部分を切り取った小窓に視線を移してぼんやりと眺めていた。と、人の気配がして見上げると、マリアが調査結果を書面にして机にそっと置いた。調査目的は、ローサ自身についてではなかったが、結果は彼女が犯人だったのだろうか。今は彼女に同情すらしている。

「私に過去などないのにね」

 長年の付き合いであるマリアは、リュンヌの向かいに遠慮なく座ることができる数少ない侍女である。マリアは頬に手を遣り、首を傾げた。

「読んだ?」

 リュンヌはいたずらっ子のような目でマリアを見上げた。

「別に構わないわ。きっとたいしたことなんてないのにね」

「ローサ様はしきりにリュンヌ様が誰かに似ているとおっしゃっていたそうです」

 誰かに似ているのなら、心当たりはただ一人だ。ドグマニード王が愛した女。彼はリュンヌの夢の中でもアリィを愛していた。そして今も。

「アリィ……」

「……ご存知なのですか?」

「一度夢の中に出てきたわ。私とよく似ている女が王の隣にいる夢だったから、あれがアリィなのかしらと聞いたの。彼は肯定したわ。よく似ていると」

 だから彼は私を娶った。続ける言葉には感情はなかった。

 しかしシュジュル国から嫁いできたローサがアリィの存在を知っているのだろうか。おそらくシュジュルの王族に関係するのだろう。王が欲しかった女。でも他の国の女だったから手が出せなかった。そして死んだ。

「……そう」

 それ以上知ることに気乗りがしなかった。

「そろそろ寝る準備をしなきゃ」

 気づけば足元が冷えている。少しでも裾をめくれば、全身に散らされた暴行のあとが見えるだろう。本当に昼間にあった出来事なのだろうか。マリアは通常通りの態度であるし、リュンヌを気遣う様子もない。

またその後のソレイユの行方は知らない。王は彼を殺しかねないほど憤っていた。だが今、周囲は静かだ。ローサの姿も見えない。マリアもなにかを隠すそぶりもなかった。

「ねぇ、マリア。夫の姿が見えないのだけれど」

 しかしマリアは初めて身体を強張らせた。

「どうしたの」

 やはりマリアは昼間の出来事を知っているようだ。あの時、リュンヌの全身にはソレイユの体液と赤い薔薇が至るところについていた。湯で身体を洗わなければならない程。そして今、自分の身体は綺麗になり香もかすかに漂う。昼間のドレスとは違うものを着せられている。

「リュンヌ様がうわごとで何度もおっしゃっていました。殺さないでくれと。それが――ソレイユ様に対してなのか、リュンヌ様自身に対してなのかはわかりゃしませんがね、王様は寝台にリュンヌ様を運ばれた後、自室に向かわれましたよ」

「そう。じゃあ、呼びに行ってくるわ」

「今ですか?」

「ええ、そうよ。なにか不都合でも?」

「いえ、でも……。もう少しゆっくりと身体を休めてください」

 いらない、リュンヌはそっけなく言って手を振った。

「ヴィヴィアンヌをお願い」

マリアが何かを言いかけるも、さっさと出口に向うために背を向ける。

――最初は完璧だったのにね、素知らぬ顔が。

 ふっと息を吐き出し、マリアの気遣いがわずかに重かったことを自覚した。

 足早に王の寝室へ向かう。彼の様子がなぜか気になった。夫にしてみれば、他の男に汚された妻など早々に捨てたいかもしれない。だが夫は許容の狭い男ではないと信じている。なにより隣で眠ることが当たり前すぎて、いないと落ち着かないのだ。

 夫の部屋は意外にも遠く感じられた。ノックを二度程したが、中から返答はない。靴音も聞こえず、部屋にはいないのかもしれない。しかしドアノブをまわすと、簡単に扉は開いた。

 中は暗闇だった。王の寝室とは思えない狭さの部屋に、相変わらず寝台が場所を陣取っている。備え付けの本棚には、乱雑に置かれた書物がいくつも重なり合っていた。

 リュンヌは一歩中へ入り、その冷たい空気に一度身体を震わせた。靴音をゆっくりと響かせ、寝台に近づく。手を当ててみても、ぬくもりは感じられなかった。

 リュンヌは暗闇に目をこらし、ふと本棚の位置の違和感に目を細めた。

 本棚の端が、わずかに手前に移動している。そして奥からほんの少し光が洩れていた。そっと手探りで本棚の中を調べると、金属の取っ手に触れた。静かに手前に引くと、軋みながら容易に動く。

 王の寝室が異常なほど狭かったのは、奥に広がる空間を本棚によって遮断していたからだ。本棚は後から備え付けたのだろう。

本来の王の居室が現れた。燭台が数本壁につるされており、室内は明るい。

 そこは王にふさわしく、彫刻を施した太い柱があり、天上には写実的な空の柄が描かれている。大空を飛ぶのは、ドグマニード王家の紋章でもある一羽の鷹だった。羽根の一枚一枚、色を何度も重ね合わせて本物さながらの立体感を出していた。なにより鷹の目は鋭く生きている。

「あ」

 しかしながら、室内に調度品の類は一切なく、家具も全く置かれていないただの空間になっている。その奥で、壁に向かって仁王立ちしている王がいた。

 リュンヌは他者を寄せ付けないその背にたじろぎ、息を殺した。王が見上げる壁には、両手を広げても抱えきれないほどの幅の絵画が飾っている。

 王はその絵画をじっと見上げており、リュンヌの気配にまったく気づく様子はなかった。

 リュンヌはそっと王に近づく。あと数歩というところまで近づき、それでも自分の気配に全く気付かない王を睨みつけてみた。

 それでも王は振り返らない。夫の視線を釘付けにするものの正体を見極めようと、リュンヌも顔を上げた。

「――」

 思わず喉奥がひきつる。

 絵の中で微笑む女は、リュンヌにそっくりだった。銀の長い髪を無造作にたらし、襟の詰まった紺のドレスを着て、胸元で一輪の花を持っている。視線はやや下を向き、絵を見上げる王の視線と丁度交わるようになっていた。いや、驚いたのはその女が自分に似ているだけではなく、着ている紺の衣装が、かつて自分の夢の中に出てきた女のものだったのだ。

――生涯ただひとり、愛するアリィシアン・リー。

 右下に記された文言を口の中で何度か繰り返し、リュンヌは目を閉じた。

 王を見下ろす女の目は慈愛に満ちている。

「あなた」

 許せなかったのではない。

 寂しかったのではない。

 いまだにアリィを愛する男の心が痛かったのだ。


読んでいただき、ありがとうございます。

書き溜めているのは、ここまで。

最近、ちょっとややこい仕事が入って頭を悩ませている途中ですので、次話は遅くなります。

でわでわw

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