第四章 王子への仕打ち
『Le 22 mars de 565
刺すような痛みのある冷たい空気が、優しく肌を撫でる穏やかな日に変わっていく。気温も徐々に上がり、晴れの日が続くようになってきた。
そして今日、各国の要人たちを招いてドグマニード王妃のお披露目をした。
私は初め、うつむいて王の隣に並んだの。だって、国民と同じ憐れむような視線を、しかも今度はそれ以上の蔑みを感じるかもしれない。
だけど、彼らの反応は対照的だった。
うれしかった。そう、正直にうれしかった。
彼らの視線は、常に明るく好意的で、お腹の子に対して挨拶をしてくる方もいた。
不安を一蹴してくれる。
おかしなものね。それがたとえ礼儀上の挨拶だったとしても、にこやかな笑顔に温かい励まし。そんな言葉にあふれたら、私だって自然と笑顔になる。
だけど、不安なことが全くないわけじゃない。
――サリエヌ様……。
……以後略』
1
おそらく、という推測でいうならば、彼女がそうだろう。
外見からして歳は十歳前後、艶やかな黒髪を、女王族としては珍しく襟足のあたりでまっすぐに切る髪型が印象的である。また鮮やかな赤いドレスは、少女の黒髪によくにあっており、周囲に息を飲ませる程の神秘的な美を強調していた。しかし少女の態度は決して傲慢ではなく、微笑みや頷くといった小さな仕草ですら品を感じさせる。
少女は赤く小さな唇を動かし、しきりに話しかけてくる大人たちにうろたえることなく堂々と対応していた。
そして少女の周囲には、シュジュルの守り人が少女を守るように取り囲んでいる。その中で王と思える人間は見当たらない。リュンヌは会場全体を見渡せる階上からその少女を目で追っていた。
けれども主役を各国の要人たちが放っておくはずがなく、切れ目なしにご機嫌をうかがいに来る。彼らの言動には、含むものが多分にあったが、基本的には愛想がよく、腹の子についての問いかけなどもあった。
「気になるか」
リュンヌの視線に、王が空いたグラスを片手に問う。要人を相手にしているためか、気を張って飲んでいるのだろう。いつもより酔うペースが遅い。
王も今夜は、ドグマニード家の王妃のお披露目ということで、格式高い衣装を着こんでいる。生地の厚さや装飾などで、普段の衣服の倍以上の重さになっているはずである。
対してリュンヌは妊娠中ということもあり腹を締め付けぬよう胸の下あたりで切り替えが入っているドレスを着用していた。
「はい。サリエヌ様のおっしゃる通りなら、あの方がソレイユ様の妻になるお方ですね」
「普通は式まで互いの顔など合わせん。柔らかな物腰で、強情だそうだ」
「芯がしっかりとしていると、言うのだと思います」
ふん、王はかすかに笑いリュンヌの腰を引き寄せた。
楽隊のアップテンポな曲が、次第にゆったりとしたテンポに変わっていく。
来客たちは各々のパートナーを見つけ、曲に合わせたダンスを踊り始めた。
会場の中央には、今度主役となるソレイユがおり、彼が手を差し伸べた先は片膝をついて一礼する黒髪の少女がいた。
ソレイユは少女の手の甲に口づける。
なんら不満はなく、そうすることが当たり前の自然な動作だった。
足運びもスムーズで、少女のドレスの裾が優雅に舞う。初めてペアを組んだとは思えないほど、ふたりの息はぴったりと合っていた。だが彼らの身長差と年齢差は、夫婦でも恋人でもなく、歳の離れた兄妹に見える。また少女の華奢な身体は、ダンスのターンごとに軽く宙に浮きさえした。
曲が終わると周囲から盛大な拍手が沸き起こった。
ふたりはそろって一礼し、そして手をつなぎながらまっすぐ階の下に来た。
「なかなかよい踊りであった」
王はすかさずふたりの頭上に声をかける。
再びスローテンポの演奏が始まり、今度は客人たちが主役になる。
「――ローサ王女、であったな。長い旅路だったにも拘わらず軽やかなダンスを見せてもらった」
「いえ、ドグマニード王。殿方のリードがとても素晴らしかったのでございます」
そつなく答える度胸は、もう大人の領域であった。十歳前後と聞いてはいたが、実際はもう少し上であろう。
リュンヌはソレイユの妻になる少女を見下ろす。
目があった。
少女――ローサはリュンヌを見上げ、じっと観察した。そしてリュンヌの腹に気づくと、眉根を寄せる。その仕草は、わずか一瞬のことでソレイユをねぎらっていた王には見えなかったに違いない。
しかしリュンヌはその視線を受け止めて、心臓をわしづかみにされたような強い不快感を覚えた。値踏みされている目ではない。明らかに敵意だ。
「このたびはドグマニード王、王妃様。ご結婚、誠におめでとうございます。我が父、シュジュル王も大変喜ばしいことだと申しておりました。――またお子様がいらっしゃるようで、恥ずかしながら祝いの品を用意できておりません。こちらの不手際、どうぞお許しください」
「よい。報せなんだはこちらの落ち度。気に病むな」
王は手で制する。
ローサはほっと胸をなでおろし、深く一礼した。
「疲れておろう。部屋は用意しておる。目的も果たしたであろうし、ゆっくり休むが良い」
「ありがとうございます」
少女の守り人がすぐさま周りを囲む。彼らは素顔こそ出しているが、皆無表情である。武器の類は一切持ち込みを禁止しており、また事前のチェックも厳しくしている。だが明らかに彼らは武人であり、武器の有無などたいしたことなどないだろう。
警戒心の高い警備に、リュンヌは漠然とした恐怖を感じていた。無意識のうちに王の袖を掴み、一歩下がる。身を隠さねば、と。
不安をあおるように、陽気な曲が続く。
きらびやかな会場とは裏腹に、リュンヌの心に一滴の闇が落ちてきた。
――取られたくはない。
過去の自分が鎌首をもたげる。
孤児院で過ごす子供たちすべてが素直で良い子とは言い難かった。とくに親に捨てられた等で、入所した子供たちのよりどころはまず親代わりになる施設長である。施設長は確かに分け隔てなく子供たちに接するが、それが子供たちにとっては不安であるし、不満であった。なにか相談したくとも、常に他の孤児が施設長の周囲にいたし、相談などという明るくない話題を持ち込む雰囲気でもなかった。
施設長は孤児院の運営は確かにうまくやっていただろう。だがこどもたちが欲していたのは、自分だけを見てくれる人間であり、どす黒い独占欲だ。
そこで他に拠り所を見つけられる器用な子供はいい。だがそれだけに固執する子供の行先は、他者の排除という極端な行動に移る。
施設長はそれらすべてをうまくあしらってはいたが、本質的なことの解決には至らなかった。
リュンヌがローサから感じた視線や敵意はまさしくその類であるように思える。
「お前も休むか」
儀礼的なことは昼間の内に済ませている。サリエヌは嫁ぐシュジュル国の関係者に挨拶などを済ませると、早々に自室にこもってしまった。
王の提案はありがたかった。
わずかな階段の上り下りも、苦しくなってきている。また少しでも無理をすると腹が張る。腹が張ることはあまり良くないと女医に聞いていた。またそうなるなら早めに身体を休ませることも重要だと。
だがひとりにはなりたくなかった。
腰に回された腕は太く温かである。人肌というものは気持ちが良いものだ。ともするとたやすく眠りに落ちてしまう危うさがある。
「いつ、お戻りになりますか」
思わず出た質問に、王は目を丸くした。
さながら親を求める雛である。
ここ最近、リュンヌは自分の寝室ではなく王の寝室で眠ることが当たり前になってきた。暖炉の炎があるとはいえ、部屋の隅まで温めることは不可能である。対して王の寝室に暖炉はないものの、丁度よい人肌のぬくもりを感じることができる。
「わからん。だが早めに戻れるよう努力しよう」
「ではそれまでサリエヌ様と少しお話をしたいのですが」
「それも良い」
サリエヌは決して泣いていないであろう。集まった要人の悪態をついているかもしれない。
だがわかるのだ。
傍にいて、と。もちろん求める相手がリュンヌではないかもしれない。サリエヌは他に拠り所を見つけることができる器用な女性だ。それでも本質的なものはなにも変わりはしない。
夜が更けていこうとしている。
2
マリアに用意してもらった茶菓子を持って、リュンヌは冷たい石の廊下を歩いていた。サリエヌの居室は後宮と廊下を挟んだ別の建物内にある。廊下は建物と建物を渡すだけの役割であり、燭台などは一切ない。リュンヌは冷たい風に嬲られながら、真っ暗な廊下を恐る恐る渡っていた。
白く大きな月が西側に傾いている。だがまだ夜明けには程遠い。
鳥の羽音と葉がこすれ合うざらついた耳障りな音、それに混じって二組の靴音が、終始リュンヌの耳に届く。背後を歩くのは、すり足のマリアである。彼女は足音が出ぬよう、肥満気味の身体を揺らしながら歩いていた。
凍えた息を吐き出しながら、ふたりはサリエヌの居室前にたどり着いた。おそらく、扉を開ければ寝室と客間に分かれているのだろう。
軽く扉をノックすると、中から小柄な侍女が顔を出した。マリアとは顔見知りなのか、訪問時間に眉をひそめはしたがおおむね好意的に受け止められた。
「サリエヌ様はもうお休みになられていますか」
彼女の侍女に聞こえる程度の囁きでリュンヌが問う。
すると侍女は扉の縁を持ったまま、首を静かに振った。
「いえ、ただ今ソレイユ様がいらっしゃいまして」
リュンヌが首を傾げて続きを促す。しかし侍女はためらった表情で口を噤んだ。
その様子にただならぬ気配を感じる。
ソレイユは今宵、ローサ王女と共に第二の主役といっても過言ではない。その主役が会場にはおらず、ましてやローサを伴っておらず、他の女性の傍にいるとなれば、非難されてもおかしくはない。
侍女が顔を曇らせたのもそのような理由からであろう。
リュンヌはマリアと顔を見合わせた。
入って行くべきか。もし入るならば、それなりの注意を彼らにしなければならないことになる。
だがその時。
「しつこいって言ってんのっ」
何かを蹴倒す音に続いて、サリエヌの悲鳴に近い叫びが聞こえた。
その叫びは、一瞬でリュンヌを怯えさせるに充分な声量だった。
「サリエヌ様」
サリエヌの侍女は小さな身体を一層縮めているばかり。主と侍女の距離が伺える。
リュンヌは茶菓子をマリアに渡し、スカートの裾をつまんで足早に中へ入った。
その間にも硬質な音や、鈍い音が途切れることはない。
「いかがしました」
奥の寝室に駆けつけると、サリエヌはソレイユに両腕を掴まれ動きを封じられているところだった。
ふたりの近い距離に、リュンヌは思わず目を背けたくなる。
サリエヌの呼吸は肩が上下するほど荒い。見下ろすソレイユの顔を、憎しみを込めて睨みあげ、今にも噛みつきそうに歯をむき出しにしている。
床は割れた陶器や本が散乱しており、足の踏み場もない。惨状はサリエヌそのものような気がして、リュンヌはそれ以上の歩みをためらった。
「どうにもならない」
懸命にソレイユの腕を振り払おうとしても、男の強さには敵わないサリエヌは、悔しさのあまり唇が紫になるまできつくかみしめていた。
「ソレイユ様、おやめください」
リュンヌが男の腕に手を置くと、意外にもすんなりと拘束はほどけた。サリエヌをかばうように立つ。
彼を責める気持ちは毛頭ない。だがどうしようもないのだ。それともサリエヌと駆け落ちでもするか? だがそうすることでドグマニード王家やその国民はどうなるだろう。
先を見据えることができないくせに、駆け落ちする度胸もないくせに。サリエヌが言いたいことがリュンヌの脳裏に浮かぶ。サリエヌは与えられた環境で生きることを教えてくれた。また彼女もその中で生きると宣言した。
彼は無駄にしようとしている。
「我慢ならないんですよ」
それでも、と付け加えるソレイユはリュンヌとは視線を合わせられなかった。代わりに自分の苛立ちを陶器の破片を踏み割ることで発散させる。
「それはソレイユ様だけではなく、ローサ様にとっても同じですよ」
「……」
守り人を複数連れているとはいえ、他国へ出向くなど覚悟を決めないことにはできることではない。女はそのようにして生きる。
生きられないのは男だけか。
「これから守っていくべき女性は、ローサ様です」
諭すことは酷なことだろうか。
出会った時から、ソレイユはサリエヌのことばかりを口にしていた。国の婚姻のなんたるかを考えないことは、この国の王子である資格を捨てることだ。
「その覚悟もないくせに」
サリエヌが吐き捨てる。痛烈な槍である。
しかしその覚悟があったとしても、サリエヌを連れ出す時期としては遅すぎる。
「いいえ。リュンヌ様、あなたにお子ができた時から考えていました。あなたの存在がこんなにもありがたいとは……」
「――っ」
リュンヌは息を飲みこみ、腹に手を当てる。
「正気ですか、サリエヌ様だけでなくローサ様のお立ち場も考えてください。あなた自身もっ」
「ではどうしろと。――リュンヌ様が慰めてくれるのですか」
「下衆っ」
本気ではない台詞に、サリエヌの平手が舞う。
ソレイユはひりつく頬に手を当ててうつむいた。
「そもそも、私の存在などあなたが身ごもった時点でないに等しい。もしくは私は王とその子のつなぎの存在です。ともすれば、生まれたばかりの存在が、私を後継人とすることで王にさえなれる。私は王になるべく育てられたわけではないんですよ。私たちはサリエヌと同様、王族の駒でしかない。もちろん、ローサ王女もそうでしょう」
ソレイユは顔を歪ませている。虚ろな目で口端だけを吊り上げ、必死で笑みを作ろうとしている姿は滑稽である。
人を初めて殴って痛みを覚える手を、サリエヌは下ろすことができなかった。
「馬鹿じゃないの、ホント」
「そうですね」
サリエヌの声は震えていた。常に背を伸ばし、横柄な態度を取り続けてきたとは思えない弱弱しさがある。
しかし彼らの互いを見つめる目は優しく、慈愛に満ちている。自由な恋愛ができる立場なら、彼らに何の障害があるというのだ。
リュンヌはソレイユに一生気持ちを伝えることはしない、そう心の中で誓った。
「騒ぎが知れ渡る前に、皆様自室に戻られた方がよろしいかと」
控えめに、しかしはっきりとした口調でマリアが張りつめた空気を破った。
「そうね、あんたも帰りなさい」
大きくため息を吐き出し、サリエヌが素っ気なく告げる。
リュンヌはびくりと反応を返した。そもそも場違いな場面に遭遇してしまった。彼らもリュンヌに見られたくはなかっただろう。ソレイユとて、自分の言動が王妃にまで及ぶとは予想外だったはずだ。
実に気まずい空気が漂う。
リュンヌはマリアを振り返った。ここでリュンヌが謝罪するのもさらに場を悪くすると判断した。
「リュンヌ」
そこへ、守り人をひとり伴った王が、サリエヌの部屋の外から声をかけた。王といえども婚姻前の王女の部屋に入ることはためらいがあるのか、中の人間たちの雰囲気や中の惨状を察してか、頑なに部屋に入ろうとはしなかった。
彼は遠目でもわかるほど顔を赤らめていた。だが酒に飲まれた様子はなく、穏やかな表情である。
「ああ」
リュンヌは肩の力が一気に抜けた。自然と足が向かう。マリアが追いかけてくる。
ソレイユとサリエヌはリュンヌの背を目で追いかけた。それぞれ言いたいことはあっただろう。だがそのどれもが見当はずれのように感じていた。
それほどリュンヌの表情は穏やかだったのだ。
奪われ、懐妊がわかった時のあの悲痛な叫びは一体なんだったのだろう。またリュンヌを変えたものは? 王とて獣のような荒々しい雰囲気はきれいさっぱり拭い去っている。
サリエヌは安堵の表情で、ソレイユは苦虫を噛み潰した表情で王妃の背を見送った。
3
ドグマニード王妃のお披露目会が終わった翌日、サリエヌは城を去った。そのことをリュンヌが知ったのはずいぶん後のことで、マリアもソレイユも全く話題に出さなかった。
リュンヌとて、サリエヌに会えないことになにも感じずに過ごしていたわけではない。だがあの夜の一件は、なかったこととして扱われた。マリアの誘導も功を奏した。産まれてくる赤子のための衣服を縫ったり編んだりと、初産の王妃に必要なものを必要以上に作らせたのはマリアである。本来ならこの仕事は侍女もしくは仕立て屋が行うものである。
おかげで裁縫や編む技術は数ヶ月でさらに上達した。サリエヌと会えない寂しさは、物を作るという作業で埋められる。代わりに王妃を慰めたのは王とマリアである。
だがある日、穏やかな日常からじんわりと引きずり出したのはソレイユであった。
「二か月後、私たちの婚礼の儀が行われます」
はじめ、彼が何を言っているのかわからなかった。
綿の細い糸でベビードレスを編んでいた最中である。午後の日差しがようやく緩やかになり、そろそろ紅茶を淹れて一息つこうかという時間。
何の前触れもなく現れたソレイユが目の前に立ち、抑揚のない声で呟くように報せた。
マリアがあわてて客人をもてなす用意を始める。彼の好む紅茶や茶菓子はどれだったか。しかしながら彼のために用意された紅茶は、すべてサリエヌが用意していたものだった。故にアリアは偏見とあいまいな記憶をたどらなければならなかった。
リュンヌは編みかけのニットと綿の糸玉をかごに入れ、揺り椅子から立ち上がり、彼の好む紅茶を教えた。茶菓子は出されても手を付けないとわかっていたが、見栄えのために用意する。
彼は天鵞絨の長椅子に腰かけ、長い脚を組んだ。
「まあ、ずいぶん久しぶりですね」
「あなたは……王妃らしくなりました」
「いつまでも泣いてばかりではないですよ」
リュンヌは照れ臭そうに笑う。
一方ソレイユは憂いを込めた表情に不釣り合いの、口の端だけ歪めるように笑みを作った。
リュンヌは一瞬表情をこわばらせ、ソレイユの向かいの椅子に座る。
「あなたなら、私に助言を頂けるのではないかと思いましてね」
「助言?」
訝しみ、相手の話をよく聞くことができるようわずかに身を乗り出した。
ソレイユは両手を組み、そこに額を乗せた。
「あなたを見ていると、サリエヌも幸せなのかと」
本来、王族の結婚に性別など意味はない。差し出すものに付随する何かに意味があるのだ。
――サリエヌという女になにひとつ意味はない。
歯ぎしりをするソレイユを、リュンヌは慰める言葉すら見つからなかった。これが結婚初期ならば、頷き同意し、ソレイユを慰める言葉のひとつさえ簡単に出たであろう。
「あなたには王にとって意味があるのに」
「……」
「正直、貴女をせせら笑っていました。小汚く、王妃についてなにひとつ学ぼうとしない愚かな娘だと。器量も悪ければ、王妃としての度量もないと」
リュンヌはなにひとつ反論しなかった。心に刺さるものがないわけではなかったが、当時を振り返れば致し方ない。かといって自分には泥臭さは今も健在で、生まれながらにある品とやらには縁遠い。
重い沈黙。
マリアが無言で彼の前に紅茶のカップを置いた。
綺麗な茜色が白い磁器の中で揺れる。
「サリエヌ様は自身で幸せを掴みとるお方です。私がなにかを言おうにも気休めでしかありません。私が言えることは、ローサ様を強くお守りください、と」
「凡庸ですね」
「え」
「つまらない答えだと言ったんですよ」
がたん、ソレイユの脚がテーブルにあたり紅茶がこぼれる。思わずリュンヌの身体が反応し、ソレイユを見上げると彼は目を細めて苛つきを表していた。
「いじめて引き裂いてやろうと、サリエヌの気持ちがわかりますよ。波風が立たない、無難な答えしかお持ちでないようだ」
怒りではなく、ひたすら他者を嘲り自己を保とうとしているのがわかる。彼は一言間違えるだけで、たやすく崩れてしまうだろう。そんな不安定さが、リュンヌの言葉を後押しした。
「ここで私がサリエヌ様を奪いに行きなさいと助言すればよいですか? それはサリエヌ様に自決せよと言っていることと同義になりますが、それをソレイユ様はお許しになるのでしょうか。いいえ、たとえそうだとしてもサリエヌ様は王族としての誇りをお持ちの方です。」
「落ちぶれた王族にそれこそ何の意味があると言うのですか。他国に媚びを売らなければ立ち行かない国など」
「ではソレイユ様は国が滅びても構わないと、おっしゃっているのですね」
「そのようだ」
ぱんっ、小気味良い音がソレイユの頬から響く。
多少の遠慮があったが、痛みを感じさせられる程度の力は込めたつもりだ。
「あなたはずるい。もっと泣き叫べばサリエヌも考えが変わった。なぜ三十以上も歳の離れた男と共に眠る? 王のなにが貴女を変えた!」
ヒステリックにわめくソレイユの姿に、リュンヌは目を見開いた。
「互いに歩み寄らなければわからない、そう私に教えたのはサリエヌ様です。私はそれを実行しました。王を憎しみ続けることはできません。なぜなら王も歩み寄ってくれたからです。王族は実は不自由なのだと知りました。けれども囲われた中での自由もあります。それを私は行使したまでです」
まっすぐなリュンヌの視線に、ソレイユは乾いた不自然な笑い声をあげた。
「ローサ様と共に幸せを見つけてください」
ソレイユはうなだれた。
事の成り行きを見守っていたマリアは、凛としたリュンヌの姿に息を飲みこむ。泣き暮らしていた王妃の面影はない。そして何より、過去の己の言動を思い出してうつむいた。女は愛されるだけで幸せになる、それならどうしてサリエヌは他国へと嫁がなければならないのだ。
ソレイユの身体はわなないていた。奥歯をぎりぎりとこすり合わせ、膝に置いた両の拳の内側は、爪が食い込み白くなっている。
彼がサリエヌを失ったことで、彼自身のなにかが崩れている。この状態ではローサ王女に危害を加えてしまう。もしくはローサ王女をサリエヌの代わりに抱くかもしれない。
嫁ぐにはまだ子供過ぎると表現できる小さな身体で、ローサ王女はさらに精神的な苦痛に耐えなければならないのか。その時リュンヌはサリエヌと同じようにローサ王女に助言できるのか。
ソレイユの精神状態を、王に報告しなければならない。
「どこまでも、サリエヌと同じことをおっしゃるのですね」
予想に反して、ソレイユはがっくりと肩を落とし、先ほどの感情的な態度はなりを潜めた。
リュンヌはほっと肩をなでおろす。表情にこそ出さなかったが、ソレイユの気迫に気圧されていたのだ。
「俺は、この感情は間違っているのですか?」
ソレイユの一人称が変わったことに、リュンヌは小さく驚く。同時にこちらの一人称が、ソレイユの通常なのだと知る。
「サリエヌ様を愛している感情ですか?」
「初めから手に入れることなどできないとわかっていた。唇を奪うことはおろか、手を触れることすら。サリエヌの気を引こうと、俺と同じ気持ちになればいいと子供の様に他の女性に手を出したこともある。が、やはり彼女の態度は一貫していた。俺は……おかしいのか?」
「――」
リュンヌは言葉で否定しなかった。横に首を振る行為でしか意志を表示できなかったのだ。
くすりと自嘲気味にソレイユが笑う。
「聞いてもいいか? ここに来る前、好きな男はいたか? いたのなら、なぜ王を愛することができた?」
この問いに、リュンヌは即答しなかった。孤児院では仲間意識もあったかもしれないが、恋愛感情に結びつくようなものではなかった。誰かの傍に居たいという依存心の方が高かったように思う。
もちろんリュンヌもそうだった。施設長の気を引くため、手伝いは積極的に行った。逆に悪行を繰り返し、施設長の手を煩わせることで見捨てられないという確信を得た子供もいる。
ドグマニード王の妻になるという話があったとき、王妃という肩書はそれほど重要ではなかった。「お前だけを愛する」という王の言葉に引かれたに過ぎない。
故に現実に戻ると、後悔と恐怖に苛まれた。
「俺はローサ王女を愛する自信がない」
「私は自分の都合でしか物事を考えられませんでした。あなたは他者を思いやる優しい方です。無理に愛さなくても、大切にするというところから始まってもよいじゃないですか。どうぞ見知らぬ他国へ嫁いでくる女性に寄り添ってあげてください」
人の感情を制御することはできない。そのことで誰もソレイユを責めはしないだろう。
リュンヌは秘かにサリエヌと文を交わしていた。手紙のやり取りの仲介をしたのはマリアである。よってサリエヌが嫁いだという事実を、数か月後に知らされることになっても動揺はなかった。知っていたからだ。
さて、サリエヌの手紙の内容にはリュンヌに王妃としての心構えを説くものと、ソレイユを心配する内容が大半である。
ソレイユに対して冷静に対応できたのは、このためである。
サリエヌの危惧した通り、ソレイユの感情は不安定になった。今の今まで状態を保っていたのが不思議なくらいだ。
不意に視界が遮られ、両の手首を掴まれた。そのまま引きずるように立ち上がらされ、壁に押し付けられる。
「あ」
抵抗する間もなく唇を奪われる。彼の外見とは裏腹に荒々しい口付けだった。まるで奪うように、噛み付くように。だがそこに愛や思いやりなどは一切なかった。彼の都合を押し付けられているに過ぎない。
リュンヌは息苦しさにもだえ、必死でソレイユを押し返そうとした。だが男の力にか弱い女の力が叶うはずがない。しかもリュンヌは身重の身で、身体を急に動かしたりすることが無理なのだ。マリアに助けを請おうとしたとき、
「叔父にとってあんたはアリィの代わりだった。俺にとってあなたはサリエヌの代わりだ。そう言ったらどう思う」
この台詞は残酷なのだろうか。リュンヌはしばし思考を停止した。
ソレイユの瞳は憂いをおびうるんでいる。彼女は湧き上がる怖気に、数歩横へずれた。彼が男であるゆえに女に対する非情な行為を強いろうとしている。
彼の表情は鬼気迫るものがあった。
リュンヌは母親の本能で、咄嗟に腹をかばった。そのことでソレイユははっとなって動きが止まる。口では笑い、だが今にも泣き出しそうな彼に、リュンヌは一歩近付いた。
力を失いその場に崩れ落ちる男の姿は、哀れとしか言いようがなかった。恐怖はたちまちのうちに退いた。
リュンヌは彼の目の前で膝をつく。
「サリエヌ様の代わりでも構いません」
男がそろそろと顔を上げる。
「どんなに憎しみの言葉を投げつけられようと」
自分への憎悪の言葉さえ、彼からのものならなんでも欲しかった。
そうか、ソレイユは一言つぶやいた。納得した表情ではなかったが、彼もいつか気持ちを切り替えなければならない時が来る。
その時を思い、リュンヌはわずかに胸が痛むのを感じた。想いは告げない、その覚悟を思い出して。
4
リュンヌはふわふわとした地面に立っていた。不思議に思って下を見てみると、柔らかな土に、膝丈まで伸びた鮮やかな緑の草がそよいでいる。
草地は地平線の彼方まで続いており、その間木々や岩肌、まして動物の気配など一切ない。あるのは澄んだ空気と、雲一つない薄青の空。
風は絶えず吹き、リュンヌの身体を通り抜ける。
なにもない。
音も一切ない。自分の呼吸の音すら聞こえない。
だが不思議と不安や恐怖はなく、穏やかな空気に目を閉じる。
ふと誰かの気配を感じて目を開けると、目の前に女性がひとり立っていた。
長い銀の髪を風になびかせている。彼女はリュンヌを凝視すると、にっこりとほほ笑んだ。
――ああ、将来の私かしら。
まるで鏡を見ているようだ。切れ長の瞳に薄い唇以外は自分のパーツを反映させたような顔だった。
身なりはとてもよく、生地も目が詰まって仕立ても丁寧な衣装である。装飾品の類は見当たらなかったが、わずかに花の香りがした。
――それとも私の子かしら。
それにしてはドグマニード王に似ているところなどひとつもない。彼の子供なら、おしとやかではなく、もっとふんぞり返って臣下を顎で使う、そんな度量の子になるだろうと思った。
そう考えると、自然と腹に手が伸びる。リュンヌは遠目でもわかるほど妊婦の体型になっていた。あと数ヶ月もすれば産まれるだろう。
楽しみでもあり、不安でもある。
自分は親を知らない娘だ。親代わりを務めてくれた施設長は男で、それでも父親のような存在だったかと言われれば断言はできない。なにが母親らしく、また父親らしいのかわからないのだ。
子はかわいがろう。だが具体的にどうやって。
施設長の手を煩わせることでしか自分の存在価値を見いだせない子を見ていると、あのような態度を取られた場合の対処法が思い浮かばない。
だからといって常に施設長の機嫌を伺うような、毎日を緊張した中で過ごす子供になっても嫌だ。
すべてを受け止めてくれるそんな母でありたい。
「大丈夫」
目の前の女性が、リュンヌの思いを見透かしたように言葉を発した。
その声は女の子らしく無邪気で、それでいて力強かった。
貴女はだれ? 問いかけるより早く、遠くで太く響く声がした。
「アリィ、アリィ」
その声はどんどん近づいてくる。
知っている声だと気がついたときには、声の主が女性の隣に寄り添うように現れたときだった。
一瞬で息を飲みこむ。
夫であるドグマニード王だった。
彼は緩んだ頬でアリィを見つめていた。細く美しい腰に腕をまわし、自分の懐へと引き寄せる。彼はアリィしか見ていなかった。リュンヌの存在など目の端にも留めていない。
リュンヌは王に思わず手を伸ばそうとした。しかし触れることはできなかった。
胸が締め付けられる。
――嫌だ。
そこは自分がいるべき場所だ。
女性への感情が嫌悪に変わる。
自分でも醜い表情をしていると思う。だがアリィを睨みつけてしまうのだ。
対して王は、全くリュンヌの存在に気づいていないようだ。向ける微笑みも、伸ばすたくましい腕もすべてアリィのためにある。それは本来のふたりの姿なのかもしれない。リュンヌは代替品だ。
唇をかみしめる。
今更それを思い出させるのか。
アリィの視界にも、リュンヌは入っていないようだった。
世界はふたりで作られる。
リュンヌなどいらない。
誰かが身体を揺すっていた。それは気分が悪くなるほど乱暴だった。
だがリュンヌはそれどころではなく、堪えられない涙と底知れぬ悲しみの感情に飲み込まれていた。
嫌だ、自分に触れる手を振り払う。けれどもその手は再びリュンヌに触れた。今度はそれだけではなく、腰にも回され支えられて上体を起こされた。
リュンヌはすかさず支え手の手を探す。骨太の手はすぐさま握り返してくれた。
涙にぬれた頬に唇を寄せられる。
「大丈夫だ」
その手は優しかった。与えられた言葉は心地よかった。
リュンヌ自身に与えられたものだ。
ようやっと意識を取り戻し、リュンヌはおそるおそる隣を見た。
その顔は心底リュンヌを心配していた。どうして良いかわからず、焦りも含まれていた。彼ができたことは、リュンヌの手を強く握り返し、抱きしめてやることだけ。
「嫌です」
かすれた悲鳴に男の表情が強張る。
リュンヌは男の戸惑いをよそに、男の懐に飛び込み、さながら幼子のように声をあげて泣いた。
「リュンヌ、夢だ。それは夢にすぎん」
王は暗闇の中、必死で幼妻をあやした。今までは自分がうなされることはあっても、リュンヌがうなされたことは一度としてない。彼女の隣はとても心地が良かった。
彼には悪夢の原因など思いつかない。悪夢の内容さえも。
ただリュンヌは「嫌です」を繰り返す。
「……」
苦しくなるほどの力で抱きすくめられる。すっぽりと自身の身体を包み込む王に、リュンヌはようやく落ち着きを取り戻し、あの映像が夢であることを思い出した。
「嫌です。あなたを失うことが」
「……っ」
王は目を見開く。
リュンヌにとって、初めて自覚した感情だった。
「私に良く似た方でした。夢の中でもあなたは、アリィを愛していた」
「――、――っ」
彼女は死んだとサリエヌは言った。故に王はアリィに会うことはない。だが、だが、と。
王は大きく息を吐き出した。
「わしは今でもアリィを愛しておる。だがリュンヌ、お前も愛している。この言葉に嘘偽りはない」
リュンヌは王を見上げた。
真剣な目に嘘の色合いはない。
静かに頷く。心が落ち着いてくると、わずかに笑みがこぼれた。それは死者への優越感ではない。アリィを愛しているという王の気持ちは、微塵にも嫌悪するものではなかった。
だが自分はずるいと思う。
想われている一方で他者を踏みにじっている。
王の気持ちと自分の気持ちが決して同じではないことを知っている。そして、
「私はソレイユ様にひどいことを。とてもひどいことを押し付けてしまいました」
どれほどの酷い仕打ちを、ソレイユにしたのだろうか。
ソレイユにはサリエヌへの想いを捨てよと、そう言いつけた。
「?」
王は静かに耳を傾ける。
ふたつの罪悪感に、リュンヌは再び王の懐に顔を埋めた。
それ以上は嗚咽が言葉を飲み、ゆっくりと臓腑へと下って染みこんでいく。