第三章 救いの王女
『 Le 11 Février de 565
今日で六日目になる。王と早朝の散歩を始めて。
まだ安定期に入るのは早いと女医から注意を再三に渡って受けているにも関わらず、私は王と連れ立って、霧がまだ残る涼やかな空気の中に入り込むのだ。
乱暴された翌日、私は出血をしてしまった。赤というより、黒のその色に、女医は王に向かってどやしつけた。その剣幕はすさまじく、さすがの王も表情こそ崩さなかったが、反論の一言さえ洩らさなかった。
気分が悪い、私は王の顔さえ見るのも疎ましく、怯え、そして来訪を断った。だが王は、私を急きたて、半ば無理やりに外に連れ出した。初日は昼食も終えた和やかな空気の中に。
その時、女医の青ざめたり、白くなったり、赤くなったりところころ変わる表情を私はおかしく眺めていた。流産するかもしれない、女医が脅し寝台に押し付けた。だけど私は後宮の中にずっとはいたくなかったのだ。
むしろ流産すればいいとさえ考えた。
「早朝の空気はなにものにも代えがたいほどすがすがしい」
今朝、王は散歩に連れ出した理由をそう切り出した。
されたことなど忘れて、その時私は無邪気に笑う王を見上げた。かつて王がこれほどまでに砕けた表情を見せたことがあるだろうか。
脅してでしか私を手に入れられない王だというのに。……以後略』
1
広い部屋では、暖炉の炎ごときで指は動かせぬ。とはいえ、朝晩は冷えるものの、暖炉は必要ではなくなっていた。
リュンヌの腹は、四か月を過ぎたあたりから急速に大きくせり出すようになり、歩行もゆっくりになる。
産みたくない、と当初は思っていたはずだが、腹の中の命を感じる度、無条件で嫌悪を感じることはなくなっていた。
城内では浮ついた空気が漂っていた。廊下を歩けば、なにやら物を移動させているし、侍女たちの黄色い声が増えている。
時折来客の対応をする部屋に仕立て屋が現われ、絹で織った上質な反物をいくつも持参し、リュンヌの目の前で広げるのだ。宝石商も靴屋も現れた。彼らは上機嫌で売り物を並べ、少しでも王妃の反応が良いものを遠慮なく置いていく。
近々パーティを開く予定だという。
国民への王妃のお披露目は、妊娠初期に済ませている。その時は王妃が無理のできない身体であったため、城内で粛々と行われた。祝いに集まった国民は遠目で眺めた者以外は、皆王妃に対して同情や哀れみを込めた視線を送った。王と王妃では三十以上もの歳が離れている。もしこれが己の娘の挙式だと考えることができたなら、(もちろん喜びに舞い上がる親もいるだろう)言わずもがなである。王妃の始終うつむいた姿勢も一因ではあるが。故におめでたい事柄であるにもかかわらず、夜まで国民の陽気な声が続かなかったのはこのためだ。
しかし今回は親交のある国の要人を招いてのお披露目である。それは同時に国の威信や財力を示す機会ともなる。商人たちがひっきりなしに王妃に面会を求めるのは、そういうことなのだ。
「そういえば丁度庭に咲くアリュールが見ごろを迎えますね」
洗濯物を戸棚に戻していたマリアが思い出したように話しかけてきた。
パーティ会場からのぞく庭には、紫に近いピンクが一面に咲き乱れるだろう。
リュンヌはアリュールという花を知っていたので、想像して頬をほころばせた。
春が廻ろうとしている。
後宮から見下ろす城内の庭は、新芽が芽吹きはじめている。そうなると庭師は低木の形を整えるための剪定を始めるのだ。この時期、複数の庭師が低木にかかりきりになり、地面は緑のじゅうたんが敷き詰められる様子が見られる。
リュンヌはその光景をぼんやりと想像しながら、出された紅茶のカップに口をつけた。もう一方の空いた手が腹を一撫でする。
まだ胎動を感じる時期ではない。しかし存在感を増した腹に、最近では無意識のうちに撫でる癖がついていた。
その様子をマリアは作業をこなしながら穏やかに見つめた。当初よりリュンヌの精神は落ち着いているように見える。諦めているとも取れたが。
しかし、とマリアは口の中で呟く。
最近ソレイユと共に、彼のいとこであり王の姪でもある女がリュンヌに親しいのが気にかかっていた。
彼女はサリエヌと言い、現在丁度客間のテーブルを挟んで王妃と向かい合っている。
歳はリュンヌよりも五つ上の二十一になるが、背は低い。切れのあるまなじりに薄い唇。顔は卵型でとてもきめの細かい肌を持っていた。
サリエヌは自身が持参した焼き菓子を、献上した相手よりも多く口に入れている。その行動にマリアは顔をしかめるしかなかった。
咀嚼している時間、サリエヌは無言であった。同時にリュンヌも社交的な部類ではない。いつまでも自分の身分に恥を感じており、話しかけることに気後れしていた。間を持たせるにはどうしても腹に集中してしまう。
「リュンヌ様は最近王と仲が良いようですね」
腹を撫でるリュンヌの表情に、マリアがこぼす。
ぴくり、リュンヌは腹を撫でていた手を止める。
マリアはあわてて仕事に戻ろうとした。彼女とて、リュンヌが完全に王に信頼を寄せ、愛しているとは断言できないことはわかりきっている。だがそうやって周囲からリュンヌの気持ちを固めていくという方法もないわけではない。
しかしリュンヌの子を思う母の表情に、マリアが安堵したのも確かだ。
「都合のいいようにしか解釈できない豚女」
「なっ」
先ほどまで無言で焼き菓子を頬張っていたサリエヌが口を開く。
マリアはこのサリエヌが苦手であった。美しい顔と綺麗な形の唇から吐かれるのは毒そのものである。毒は少しでも後ろめたさの残るマリアに深く浸透した。
「女は愛されてこそ幸せというものです。リュンヌ様だって」
マリアは言い訳のようにあわてて追加した。
「何不自由はないわ」
リュンヌはマリアを見上げた。わかっている、マリアはリュンヌが暮らしやすいように手配をしてくれている。差しさわりのない回答をするのは、別段かばう意味はない。
サリエヌは大きなため息を吐き出した。
「あんたも、文句を言う立場じゃないのよ。わかってる?」
指をさされ、下から見上げてくるサリエヌにリュンヌはどきりと心臓が跳ね上がった。
「……」
文句を言える立場ではない、そうだろう。
王妃になってより、飢える心配もない。風雨にさらされるようなもろい造りの家でもない。狼に家畜を食い散らかされたり、明日の天気を予想して作物の心配をする必要も全くない。
ドレスも宝石も、願えば願った以上のものが与えられた。決して庶民ではお目にかかることすら困難な上質なものだ。
それのどこに不満があるだろう。
愛されていないことか?
乱暴に扱われたことか?
いいや、許せないのは我が身体に刻み付けた唯一消えぬ傷。
消えぬだろう。痕跡を残すだろう。
だがそれは与えられたものの価値に比べればほんの些細なもの。
「文句を言う前に、あんたはちゃんと叔父上と向き合わなきゃいけない。あんたはされたことのみを恨んで、与えられたもののひとつにだって深く感謝していないだろ? あんたは選択できたんだ。城に来るか否かね。嫌だったら誇らしく自害しな、そんとき。王があんたを脅すなら、あんたも王を脅しゃよかったんだ。来た時点で覚悟を決めな。ここはあんたの常識が通じる世界でもないんだからね」
サリエヌの訪問は、リュンヌの存在が疎ましいと感じたからだと言う。決して友になろうとしたわけではないのだ。自由などない、彼女はそうも言った。
言われるたびにリュンヌは委縮する。
「ほら、言いな。意見なら聞いてやる」
とても王族の物言いではない。むしろその粗野な言葉遣いは、どこか聞き覚えがありそうだ。
サリエヌはおそらく、マリアとは違った角度からリュンヌを助けている。卑屈になっているリュンヌにとって、それは居心地がよかった。いじけていることを他人がさらに指摘することにより、そこに留まることを了承されたような妙な安定感を感じるのだ。
だがさらにサリエヌは、そこから抜け出すことを要求している。
「意見?」
おどおどとした口調でリュンヌが聞き返す。
「そう」
意見とはどのようなものだろうか。現状を告白する際、不満と意見の境目があいまいなのだ。
リュンヌは天井を仰いで思案した。
これ以上の物欲はない。
「……」
「いやって、言えたんだろ? 子供が身ごもったときに、産みたくないって。そう言えばいいじゃない。あたしからしたら、なんのためにここに来たのかって感じだけど」
「私……」
「リュンヌ様」
切羽詰まった表情でリュンヌはまっすぐにサリエヌを見つめた。あわててマリアが制する。
「あんたの障害のひとつにマリアがいるんだね」
身を乗り出し、サリエヌがリュンヌの頭を撫でた。
小さくはあるが、王と同じ温かさの手にリュンヌは涙がこみ上げてきた。
そうだ、王は約束をしてくれた。欲しいものをなんでも与えると。金貨も宝石も欲しくはないのだ、そう答えると王はわかっていると答えた。彼は大きな胸にリュンヌを抱きよせた。その温かさをリュンヌは信じたのだ。
「私、アリィの代わりじゃない」
やっと言えた言葉の重さに、膝に置いた両の拳が震えた。肩が震え、嗚咽がこみ上げる。
「私が産む子はアリィの子じゃない」
震えが止まらない。子は傷痕になる。
その間、サリエヌはじっと見つめてきた。
「私、大事にされると思っていました。今も大事にされています。わかっています。でもどうしても、アリィという方の存在を感じてしまう。私にアリィになれと要求されている気がする」
「――気がするだけだろ?」
「違う。だって、夜っ――名を――呼んで」
マリアが駆けより、リュンヌの肩を抱いた。
「最悪だよね、それ。とはいえ、あんたが叔父上を大事にしないなら大事にされないよ?」
「え」
「夫婦ってそんなもんだろ?」
「……」
リュンヌは考え込むようにしてうつむいた。
「あたしはそう頑張る」
先ほどの口調とは打って変わり、サリエヌが立幹と主に吐き出した。
「女の影を消し去ってあげなよ。叔父上も……死んだ人間なんて手に入らない」
「死んだ――」
「サリエヌ様、もうよろしいかと」
マリアが口をはさむ。
「あたしさ、来月には嫁ぐんだよね。隣のシュジュル。顔も見たこともない男だよ。自由にならないね。相手もあたしがどんな人間かなんて知らない。王族の結婚ってそういうもんが当たり前だと思っていた。当然、辛い生活が待っているかもしれない。不当な扱いを受けるかもしれない。だけど嫁がない王女なら、なんの価値もないんだよね。あたしがここで拒否すれば、相手国へのお詫びとして自害するしかない。そこに愛なんてないんだよ。でも最初からなくても育むことはできるだろ?」
努力しなよ、じゃなきゃ辛いだけ。付け加えられた言葉に、リュンヌは目を見開いた。
そう、嘆くばかりでは現状に変化はない。王が散歩に連れ出すのは、現状を変えようと思ったからではないか。リュンヌの拒否を、悲しいと思ったからではないか。
なるほど、殻の中でずっと泣いている雛に空は見えない。殻をつつけば、曇り空かもしれないが青空だって見える。
サリエヌが疎ましいと感じるのは、何もしないで泣き暮らす王妃に自分もなりたくないからではないか。
そう思うと、本当の意味でリュンヌは恥ずかしくなった。
「死んだ人間の影をちらつかせてるのは、あんただよ」
とどめの一言はリュンヌをうつむかせるに充分だった。
2
自分の居場所を確保するのは自分の努力しかないわけである。
リュンヌは王の寝室の前で立ち止まり、そうはいってもと途方に暮れていた。王は己の寝室に王妃を招いたことは一度もなかった。また今宵の約束もない。それ故敷居は高い。
背後に控えるマリアも、王妃の背中を押すこともできず、おろおろと見守るしかできなかった。
すでに月は傾き始めている。リュンヌが王の寝室の前に立ちつくして、どれくらいの時間が過ぎたのだろうか想像できない。
ドアノブに伸ばした小さな手は、結局それを握ることなく拳に変えられる。
ここに来た目的はなんだったか。いやらしい意味はない。ただ、会ってちゃんと正面を向きたいと思ったのだ。
顔を合わせると嫌悪に顔をしかめる王を脳裏で想像してしまう。今も王は王妃の扱いに手を拱いている。日中に誘う散歩途中も、リュンヌの浮かない表情に溜息を吐くばかりだ。
「おや、叔父上の寝室になにか用ですか」
背後からの声にリュンヌはびくりと肩を震わせた。
「ソレイユ様」
藁にもすがるような表情だったのだろう。柔和な笑顔が特徴の青年は、口の端だけで苦笑した。
彼は夜着を纏い、片手にはグラスを持っている。王の寝室を偶然通りかかったという雰囲気ではないことから、リュンヌの不審な行動を誰かが伝えた結果なのだろう。
彼の身体からは柔らかい花の香が漂っていた。王の男らしい体臭が混じったそれとは違う、人を落ち着かせる香り。
リュンヌは顔を赤く染めてうつむいた。
その時、軋む音をたてて王の寝室の扉が開いた。
リュンヌは顔を上げる。
立っていたのは、妻を見下ろす夫だった。ただその目は穏やかではない。無表情で唇を引き締めている。
「あの」
リュンヌは声を絞り出した。
「……入れ」
妻だけを低い声で招き入れ、ソレイユの眼前でドアが占められる。
おやおや、ソレイユののんきな声がわずかに聞こえた。マリアのほっと肩をなでおろす空気の動きも感じた。
部屋はろうそく一本によってかろうじて確認することができる程度の明るさではあるが、王妃の寝室よりずっと狭く質素であることがわかる。まさに寝るためだけの部屋で、大きな寝台と、傍にブランデーなどを保管する棚とグラスが置かれている。調度品は見当たらない。
寝具はたった今抜け出したのであろう、しわが寄っている。が、毎日の丁寧な掃除のためか、空気は清浄である。男臭さはなく、香も焚いていないようだ。
王が後ろ手で扉を閉め、さながら小動物の様に身体を強張らせる妻の背を見つめていた。
リュンヌは痛いほどの視線を感じていたが、振り返るほどの余裕はなく、両手を胸の前で祈るように組んで待っていた。しかしいくら待ってみても、王の強引さや傲慢さは表れなかった。
むしろ疲れたように大きなため息を吐き出される。
「なんの用だ」
その声の冷たさにリュンヌは反射的に振り返った。振り返って、しかし自分を虚ろに見下ろしてくる視線が口を噤ませる。
ひどい間違いを起こしたのではないか。
そもそもリュンヌはアリィの代わりでしかない。ならば、王が欲した時でしか自分の存在価値はないのかもしれない。
いやいや、そのような思いを変えるためにここに来たのではなかったか。
自問自答を繰り返していると、王の表情の奥にある感情を読み取る余裕などない。
ますます王は不審な目を向けてくる。
涼しい風がわずかに頬をかすめ、同時にオレンジの炎が揺れた。顔の半分を影に紛れさせた王は、怒りに耐えているようにも見える。
「迷惑でしたか」
ようやくの台詞に、しかし声は震えていた。
「いや。おまえが訪ねて来る理由を考えあぐねている。わしは今宵心臓に杭を打たれるのか、とな」
自嘲ととも取れる台詞に、違う、とっさにリュンヌは首を振った。
「そうか。身体に障る。自室に帰りなさい」
「あの」
素っ気なく踵を返す王の背を、しかしリュンヌは素早く掴んだ。
「なんだ」
先日見せた情欲はどこにも見当たらない。疎ましそうに言葉少なく短く王は吐き捨てた。
王の広い肩幅はわずかに震えており、振り向く気配はない。怒り、単純に彼の感情を表すとしたらそうなのだろう。だがリュンヌは衣服の裾を離さなかった。
そのまま一呼吸分の時間が過ぎる。
「わしは間違っていた」
「!」
王はゆっくりとかぶりを振る。
「位なぞ望んではおらんことは知っておる。お前が欲しいのはごく単純なものだと言うことを。わかっていたはずだが、わしはやり方を間違った」
「……」
「わしに対する感情と、ソレイユに対する感情を気づかんとでも思うたか? いや、本来の正常な感情であろう。止めはせん。だが今でもソレイユにはお前の欲するものを与えられるとは思っていない。――わしにしか与えられん、他の誰でも無理だ、そう傲慢にも思っておる。いや思っていたいのだ」
「それは私に? 本当に私に? アリィではなく?」
「結果、わしはお前を辱めただけに過ぎん。わしの妻として迎え入れなくとも、充分に支援はできたはず。
ややができたと聞いたとき、わしは後悔したのかもしれん。与えるものも与えず、余計なことを背負わせただけかもしれんとな。たしかにアリィの代わりという、きっかけは不愉快なものだっただろう。だが、わしはお前を手元に置いておきたい。叶えてくれるなら、自らの命を捧げることなど厭いはしない」
重い沈黙の中、リュンヌはいまだ背を向ける王の背に額を預けた。声を押し殺し、泣くまいと唇をかみしめる。
リュンヌが欲しかったもの。それは他人から見て、当たり前すぎて価値のないものであった。だが手放す時になって初めてその価値を知るもの。
――家族だ。絶対的な存在の。
その後、リュンヌは王の寝台で共に寝た。言葉は交わさなかった。ただ王妃は王の広い背中にさながら幼子の様に身体をぴったりと沿わせていた。
そして王は王妃に手を出さなかった。あれほどリュンヌにアリィを重ね、欲情した男とは思えないほどの紳士ぶりである。
やがて空が白み始める。
リュンヌは一切不安や悲しみといった感情に支配されずに夜明けを迎えることができた。王妃になって初めて感じた安堵ではなかろうか。
王の背は石鹸の清潔なにおいがする。
あたたい。
人のぬくもりとはどうしてこんなにも落ち着くのだろう。
3
朝議に初めてリュンヌは招かれた。今まで玉の隣は空席であったから、臣下たちは王妃の存在を認めた途端、小さなどよめきがたった。とはいえ、王のひと睨みにより、動揺はすぐさま治まった。
リュンヌは椅子に遠慮がちに座っていた。小さな身体はさらに小さく縮こまり、両手は常に膝の上にきちんと重ねられている。ドレスの裾で足元は見えないが、両足を揃え微動だにしない。おかげで朝議の途中で身体の節々が痛む。
リュンヌが緊張により身体を強張らせているのは、皆の前でいることだけが原因ではない。
朝議の間は、地方に配置した領主からの報告もあることから、権力や財力を存分に誇示したつくりになっている。リュンヌたちが座る椅子ひとつとっても、王の普段の質素な寝室とは変わり、滑らによく磨かれた石材を使用している。彫刻は王家の紋章である対の鷹を掘り込み、座する場所にはカーフが使われている。これは畜産では主に乳牛を育てているドグマニード国にとっては貴重な素材である。
また室内自体も、贅の限りを尽くしていた。朝議の内容がさっぱりなリュンヌにとって、内装を隅から隅まで観察することは丁度良い時間つぶしにはなったが、同時に王妃の卑しさを露呈することにもなった。
さてこの日の朝議の内容は、サリエヌの嫁ぎ先についてと、ソレイユの嫁についてである。
大理石の長方形のテーブルに、各国の領主が四人。上座には王と王妃、そしてソレイユがいた。彼は普段の飄々とした態度を潜め、終始眉根にしわを寄せ、唇をかみしめている。時折王に視線を遣るが、その時の怒りを含んだ目にごくりとリュンヌは唾を飲み込んだ。
王はソレイユの態度に気がつかない様子で、淡々と会議の場を仕切っている。
隣国シュジュルとはそれほど親交がない。ただ貿易での取引は商人たちが活発に動いているようだ。内陸にあるドグマニードに対して、シュジュルは海に面している。よって産業も競争を招くようなことはなく、嗜好品の類が主な取引である。その中で結婚というものも含まれており、すなわち女児は立派な献上品になるのだ。
「二十歳を過ぎてもうどこにもやれんと思っていたが」
すでにサリエヌをシュジュルに嫁がせることは決定事項であり、内容を審議することも熟考することも終了していた。そのため、領主たちの交わすのは談笑であり、特に行き遅れの王女の婚姻は大変めでたいものである。
しかし和やかな雰囲気の場にそぐわない態度のソレイユは、苦虫を噛み潰したような表情で座っていた。裁定は覆らない。またソレイユの熱情だけでは結果を変えることはできない。そして同じく王妃でさえ権限はない。
望まぬ結論だけを長時間にわたって聞かされるソレイユの心情はいかがばかりか。
リュンヌは王になにかを告げようとして、結局なにもできなかった。
「最近ちょっとはマシになったって思ったのに、やっぱりあんたってホントつまんない子よね」
後宮の客間に焼き菓子を持って現れたサリエヌが、リュンヌの表情を察すると早々に毒づいた。
彼女はどこへ嫁ごうが上手く渡っていく気がした。しかしソレイユの曇った表情は、如実に彼の心情を物語っている。サリエヌが他国へ嫁ぐことは王家に産まれた女児にとって必須である。ソレイユとサリエヌが永遠に結ばれることなどないのである。
そして残念なことにサリエヌは少しもソレイユの気持ちに気がつかないようだった。
それはそうだろう。端から彼女の意識は他国へと向いている。どうやって自分を売り出そうか、時期はいつか。少しばかり薹が立ったが、ほぼ予定通りなのだ。
「これでも少しは言い返すことができるようになったんですよ」
こうしてサリエヌの軽口に真意を求めることなく流すこともできる。
陽の高度は低く、差し込む光は部屋の奥まで届く。窓一枚を通すことで、光はずいぶん柔らかい。
リュンヌは客人に出す紅茶を指示した。甘い菓子には香り高いストレートの紅茶が合う。
紅茶の種類は常に十種類程常備しており、季節によっては商人たちによって入れ替えられる。その中で気に入ったものはリクエストをするのだが、なかなかできるものではなく、ストレートとミルクに合う紅茶の二種類あれば充分に感じた。
しかしサリエヌは幼少の頃から紅茶に親しんでおり、王妃の趣向だけでは物足りないのだ。
「そう言えばソレイユの嫁はシュジュル国の王女だって。歳は十ぐらい、はあ、あいつが手を出すのはいつになるやら。けどこれって王女交換よね。あたしがこの年まで嫁ぐことができなかったのって、あっちの王女が育つまで待ってたってことだから」
「……そう、ですか」
サリエヌの婚姻はめでたいが、ソレイユの婚姻となると途端に悲しくなる。初めから望みなどない、わかってはいるが、もう少し彼の隣を歩く夢を見ていたい。
うつむくリュンヌの顔を、サリエヌは無表情で覗き込んだ。
「あたしさ、あんたが疎ましくて、罵倒したくてここに来たって言ったじゃん。それ、まったく変わってない」
突然の台詞であった。
ずいぶん親しくなったと思っていた。そのような感情をサリエヌから真正面から受け取ったことなどない。今だって、冗談を言いあっているほどだ。
「――どうしてあんたはあきらめきれないの? 夢を見ないで。見れない女もいるのに。くだらない」
吐き捨てられた言葉は、想像以上に鋭い。
とっさにリュンヌは身体を引いた。今までサリエヌからの物理的な攻撃はない。だがそれは反射だった。
怯えの表情を表すリュンヌとは対照に、サリエヌはにこやかに口元をほころばせた。
攻撃的な台詞とは不釣り合いな、それこそ品が漂う笑みである。
そうだ、王族は皆笑う。
王は常に口元をほころばせることはない。けれどもソレイユやサリエヌは、普段から何ごともないにもかかわらず穏やかな表情を浮かべる。
「夢――」
返す言葉を思案し、それでも答えにたどり着けないリュンヌは、結局意味を問うことしかできなかった。しかしその答えは返ってこない。なぜならマリアがソレイユを伴って入室してきたからだ。
「ここにいましたか、サリエヌ」
金――存在そのものが光だった。
リュンヌは眩しそうに彼を見上げた。ソレイユは客間を見わたして納得したように頷く。
彼を案内したマリアは一礼して部屋を出て行った。この部屋に王妃を害する人間はいない、そう判断したと言うことだろう。
優雅な足取りで、ソレイユはサリエヌの隣に座った。彼の視線は常にサリエヌに注がれており、時折、あいさつ程度に向けるリュンヌへの視線とは違い熱を帯びている。
「何を話していたんですか」
「今度のパーティについて」
サリエヌが振り向かず素っ気なく返す。
「冷たいね、子供の頃はよく兄さん兄さんと懐いてくれたものだけど」
「リュンヌもそうだけど、ソレイユ、あんたもたいがい暢気よね」
「それは手厳しい。そんなにカリカリしてもつまらないだろう?」
「王族皆つまらない人生よ」
「おや、達観していらっしゃる」
「でも、サリエヌ。あなたは私に教えてくれたわよね。その環境の中でどれだけ生きるか」
割って入ったリュンヌの声に、サリエヌはあからさまに眉根を寄せた。それは邪魔をしてくれるなという彼女のメッセージに受け取れる。
瞬時にこのふたりは想いあっているのだと悟った。王女は例外なく他国へと嫁ぐ。サリエヌがソレイユの気持ちに気づかない振りをしているのは表面上でのこと。さすればサリエヌのソレイユに対する不自然な態度に合点が行く。
王族は夢を見ることを許されない。すべては国の物だからだ。
権力があり、地位も財産も自由に使うことができる。しかしながら自分の心のままに生きていくことはできない。
夢を見るな、サリエヌが吐き捨てた言葉がようやくリュンヌの胸に届いた。同時に踏み込んではいけない領域であることも理解した。
しかし。
ソレイユの視線を、サリエヌは気づかない振りして身体で受け止めている。
胸が痛む。
彼女は決して視線を合わせないだろう。それでも彼は必死に語りかける。叶わないと知りながら。
4
均整な筋肉がついた五十近くの男の背を、リュンヌは強く手ぬぐいで拭いていた。拭いながら施設長の身体はどうだったか思い出してみる。
歳は王と同じぐらいだろう。しかし、全体的に青白く筋張った身体であった。力仕事のほとんどを孤児や外部の人間に頼っていたはずだ。施設長が動くとすれば、それは子供への説教であり、およそ肉体労働とは無縁であった。
王の背は浅黒く滑らかである。内側から力に満ちているように、たるみがない。そっと肌に手を置いてみると、吸い付くようなもっちりとしたまるで子を産んだ女の肌のようだ。
最近のリュンヌは、寝所を王と共にしている。犯された現実を忘れたわけではない。だがそれ以上に、王の懐は温かかった。
なにより、己の懐に入ってきた人間に王は特別優しい。
リュンヌは居心地のよい生活を勝ち取ったと言えよう。しかしサリエヌやソレイユの様に想いあっても決して手を取り合うことすら許されぬ男女がいる。
脳裏に浮かぶふたりの姿に、リュンヌは思わず嘆息した。
現在の穏やかさを手に入れることができたのは、なによりサリエヌの助言のおかげだ。おそらく彼女にとって助言ではなく、単なる八つ当たりであろう。
「どうした」
動きが止まったリュンヌに、顔を向けず王が尋ねる。そして傍に脱ぎ捨てていた夜着を羽織り、腰ひもをきつく結んだ。
寝台を共にしてはいるが、リュンヌの身体を気遣って王は無理強いをしなかった。ひたすら懐で妻を抱きしめ眠る。それはこれ以上ない幸福な時間に思えた。
しかし彼は時折夢を見る。
今夜の様にうなされ、飛び起きてしまうほどに。
かいた寝汗は、夜着をしとどに濡らした。
リュンヌは真っ暗な中で、サイドテーブルにろうそくを立て、朧な明かりを頼りに汗を拭ってやっているのだ。
彼はうなされた夢について、話すことはなかった。けれどもリュンヌはだれの夢を見ていたか知っている。
アリィ、だ
苦しそうな寝言で再三登場する女の名前。王は――なんでも手に入れることができるはずなのにアリィだけは手に入れることができなかった。
王の過去になにがあったか、とても聞ける雰囲気ではない。だからそのことでリュンヌが共感し、慰めることなど到底できない。
唯一できることは、こうやって王の寝汗を丁寧に拭ってやることぐらい。
サリエヌが嫁ぐことは、ドグマニード国や嫁ぎ先のシュジュルにとって悪いことではない。王族は感情を優先してはならない。では、リュンヌも彼女たちの婚姻について口出しするべきではないのだ。
しかし押し込もうとする感情は、その訓練をしたことがないために堰をきってあふれ出してきた。
とめどなく涙が頬を伝って流れる。
手ぬぐいを握りしめ、しゃくりあげる。
「どうした」
「嫌なんです」
「……そうか」
王はがっくりと肩を落としたように見えた。
「無理強いをしたつもりはなかったが、すまなかったな」
彼は寝台から立ち上がり、夜着を羽織り直す。このところ王は引き際が良い。リュンヌに飽いたのか、それとも拒絶を恐れているのか。だが明らかに誤解である。
「自分の寝室に帰れ」
「違いますっ」
リュンヌも寝台を降り、王の背中を追う。
王の背は大きく、壁であった。リュンヌは王の背を見上げ、首を振る。
「サリエヌ様のご結婚を再考することはございませんか」
「なんだと」
その声は低く、身体に強烈な振動を与えた。人を脅して押さえつける、そんな声だ。
リュンヌは一瞬にして触れてはいけない問題だと悟った。散々、サリエヌが諭したではないか。王族とは不自由だと。そしてそれが国益につながるのだと。
「自害しろ、サリエヌにお前はそう言うのか」
「……」
ふん、王は鼻を鳴らした。
婚約破棄ともなれば、王女の自害だけでは済まされない。莫大な損害が出ることになる。
「わしらは庶民より多くの権利を持っておる。同時に義務もな」
「はい、浅はかでした。でも、サリエヌ様には幸せになって頂きたいと思っています」
「無論。シュジュルとて、愚かな選択はすまい」
「ソレイユ様が悲しまれますね」
「やつらが結婚したとして、なんの利益を生む? 国は感傷では動かん」
「はい」
リュンヌはうつむき、手ぬぐいを握りしめることしかできなかった。
「体調はどうだ」
先ほどまでの唸るような声ではなく、王はリュンヌに向き直って柔らかな声で問いかけた。
王はリュンヌの頬に指をあて、流れていた涙をすくった。
顔を上げると、王は少し困ったような、それともリュンヌの反応に怯えているような表情をしていた。
王の自信を失わせたのは、リュンヌ。
「つわりもおさまりましたので、ずいぶん楽になりました」
そもそもリュンヌのつわりは軽く、食べつわりではなかったので体調もほとんど変わりがない。
リュンヌは腹に手を当て、一撫でした。同じ月数の経産婦と比べればまだ腹は小さい方だ。しかし椅子に座ったり、立ち上がったりする場面になると腹がつかえる。胃を押し上げられるような圧迫感を感じるのだ。
「そうか。無理なく過ごせよ」
「はい」
リュンヌとて、好きではない男の元へ嫁いだ。最初の不具合はあったものの、歩み寄ればそれほど不満はない。きっとサリエヌもその中に入れば慣れていくだろう。
リュンヌの返事を聞くと、王は早々に寝台にもぐりこんだ。寝息がすぐさま聞こえ、大きな肩が規則正しく上下する。
リュンヌは残り少なくなったろうそくの炎を見つめていた。自身をどこかで納得させるしかなかった。やはり自分にはなんの権利もなかった。
もうすぐサリエヌはいなくなる。二度と会うことはないだろう。王族でなければ、たやすく手紙のやり取りなどできるのに。
息を吹きかけ炎を消す。にもかかわらず、窓から差し込む月明かりだけが冷たい光を寄こす。光は王の頬を静かに照らしていた。
リュンヌは王の隣にもぐりこむ。
大きな背に頭を引っ付ける。男の呼吸と心音がゆっくりと伝わってくる。目を閉じてみると、ものすごい力で闇の中に吸い込まれていく。その中でふと思い出してしまうのだ。
私は――なぜ。