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砂に埋もれる月  作者: 鷹臣 えり
4/7

第二章 代替王妃

『 Le 21 décembre de 564

 彼を見るたび、心臓がひっくり返ってどうにかなってしまうのではないかと思ったの。

 男の人にこういうのはどうかと思うけれど、綺麗。品があって、線が細くて、ゆっくりとはにかむように笑うの。その笑い方は、施設長と同じ笑い方で、私はすごく安心した。


 でも手を伸ばすことができない。私は孤児院の娘で、王の愛おしい女の代替品。庶民が王妃になれたというだけで驚きだけど、それ以上に自由な恋愛なんてない。――わかっているけど。……以後略』


1


 着替え一式を腕にかけたままマリアは嘆息した。

 王妃は今日も上の空である。かろうじて王の夜伽には応えていたが、果たして王は満足できたのだろうか。

 リュンヌの寝室の隣は、広い部屋がいくつもある。そのうちのひとつが客間なのだが、最近まではめったに使用されていなかった。

 しかしソレイユの登場とともに、彼の友人と名乗る女性や仕立て屋、宝石商などが次々と訪れるようになった。

 騒がしいことは苦痛ではない。

 元来寂しがり屋のリュンヌは、王妃になる前と似たにぎやかさに安堵し、また自ら積極的に彼らに関わることができるよう話しかけたりした。

 マリアは王妃のくだけた態度に、若干の不愉快さと危うさを感じていたが、それを表情に出すほど未熟ではなかった。故にリュンヌがこの状況のまずさに気づくことができなかったのである。


「最近、お前の周囲が騒がしいと聞く」

 時間の融通ができた王は、少し硬い表情で王妃を庭に誘い出した。着替えを手伝ったマリアはにこやかに王妃を送り出して手を振った。

 太陽の熱も北風に負けてしまう冬、毛皮のコートを引っ掴んでリュンヌは王の隣を遅れないように歩幅を大きくした。

 王の歩幅は大きい。着いていくにはどうしても小走りになる。

 リュンヌは始終うつむいていた。

 今日は朝から気分が良くない。時々胃の奥から吐き気がこみ上げるのだ。それは微弱だった。しばらく忘れ去ることができる程に。

 風の冷たさが、一層身を縮こまらせる。

 景色は茶色をベースにした色が広がっていた。庭に植えられた木々のほとんどが落葉樹であり、風が吹くたびに茶と赤の葉がひらひらと舞い落ちる。時に吹雪となって大量に落葉していた。しかしそのほとんどが翌朝には処分されている。ということは、今地面に敷き詰められている葉は、今日舞い落ちたものということになる。

 少し遠くを見ると、庭師が丸太で組んだ梯子を担いで歩いていた。この季節の剪定は主に木の形を整えるためだと施設長から教えられた。見上げても頂上が見えない木々を一人で手入れするのだろうから大変な作業である。

「たとえばどのようなことがお耳に届いていらっしゃるのでしょう」

 リュンヌは王に対してのみ頑な態度をとった。それは無意識のうちに身を守る手段だった。

「ソレイユ――」

 王は不意に立ち止まり、空を仰ぎながら言った。

 リュンヌは一瞬にして心臓が跳ね上がる。

――肌着すら胸を締め付ける。

 実際締め付けているのは、別のものであろうに。

 彼の名を聞くだけで、顔がほてるのだ。胸の前で左手を右手で包む。幸いにも王は振り返らなかった。

 リュンヌは頭二つ分も背の高い王を見上げた。そういえばリュンヌと肩を並べる時は着飾らない。もともと簡素な衣服を好む男かもしれない。しかしそのことでリュンヌはどこかで胸をなでおろしていた。

 普段は玉座の間で王冠を抱き、縁に毛皮をあしらった厚みのあるマントに包まれている王である。マントの下にはいつ敵の襲撃に遭っても良いように重い鎖帷子を着用していた。それは歩くたびに金属の擦れる重厚な音がする。耳障りな音に、リュンヌは一度耳を塞いだことがあった。

 どんな理由があるにせよ、王の行為を否定したのである。

誰からも叱責がなかったのは、リュンヌは王妃だったからだ。城内にはやはりリュンヌを王妃として認めていない者も数多くいたため、後ほど陰で多くのことをささやかれもした。

「ソレイユ様が?」

 からからに乾いた口が、ようやく絞り出す。

 自分の立場をわきまえなければ、何かを口に出す前に自分を押しとどめる。王が何を危惧しているのか、何に怒りを覚えているのか知る必要があった。心の不愉快さに連動して、あの微弱な吐き気が再びこみ上げてきた。

 王は答えず再び歩き出した。

 リュンヌは無言で後ろを歩く。

 王の背中は大きく、リュンヌを覆い隠すことができるほど。

「叔父上」

 柔らかな声が突如かけられた。ソレイユの声だ、姿は前を歩く王によって見えなかったが、声だけで主がわかった。

 王は立ち止まる。

「なんだ」

 低く押し殺すような不機嫌な声で、王は答えた。

 リュンヌはわずかに王の横に出る。挨拶もしないでは失礼だからだ。

 スカートの端をつまみ、ぎこちなく頭を下げる。マリアが教えた通りのお辞儀の仕方だった。

 リュンヌにとって周囲は敵に見えた。しかしながら教養のない田舎娘など、家臣たちにとってみれば嫌悪の対象であろう。それを侍従長のマリアが最低限の礼儀を教え込んだのだ。マリアはリュンヌの出自を知っていたのかもしれない。だが彼女は見下すような態度はおくびにも出さなかった。むしろ幼子に教えることを快感に思う教師のようである。

「ああ、王妃もいらっしゃったのですか」

 ソレイユもシャツとブラウスという簡素な衣服に包まれていた。装飾の施されていない質素な衣服だからこそ、ソレイユの細身の身体がよくわかる。

「お前も散歩か」

 王はおとがいを逸らし、剣呑な目でソレイユを見下ろした。

 リュンヌは返事をしようとしたのだが、横目でちらりと見た王の表情がいつになく硬かったので口を噤んだ。

 マリアは優秀な教師である。

「おや、私とお話しすると叔父上がお怒りになるのですか」

「とんでもない」

 うつむくリュンヌの目の前に詰め寄り、ソレイユは下から覗きこんだ。親しげな口調とは反対に、わずかにしか上がらない彼の口角。思わずリュンヌは心臓を握りつぶされたような息苦しさを感じた。

 見下されたと感じたのは、リュンヌに自信がないためだろうか。

「リュンヌ、顔色が悪いようだが」

 そこでようやく王は振り返った。普段から王のお前では余計なことをしゃべらないよう口を閉ざす傾向にあったリュンヌだが、さらに輪をかけて口を開かない。

 大丈夫、リュンヌは言いかけてあわてて口をつぐむ。口を開くと同時に、今度は明確に吐き気がこみ上げてきたのだ。

 胃液が上下して口の中に苦いものが広がる。さらに喉奥はなにかを吐き出したくてたまらない様子だ。リュンヌは粗相のないよう、懸命にこらえた。だが意志に反して身体は苦痛を訴えている。

 とうとうリュンヌはその場にうずくまってしまった。

 こらえることができない、そう思ったと同時、リュンヌは一度えづき、二度目で吐いてしまった。

 そうなると身体はリュンヌの意志をとことん無視した。

 吐いている途中で新たな吐き気がこみ上げ、呼吸がまともにできない。

 リュンヌ、王の太い声が響く。その声にすがるように手を伸ばした。

「リュンヌ」

 伸ばした手を掴んだ手は、温かで大きく筋張っていた。そしてその手がリュンヌの背に回され、軽々と持ち上げられた。

 王の腕に包まれ不覚にもリュンヌは涙があふれた。温かい、ただそれだけで身体はなじんでしまう。

 王は王妃の吐しゃ物で己が汚れることなど、少しも気にした様子はなかった。気にしたのは王妃の体調である。

「医者を手配しましょう」

 遅れてソレイユが提案し、城内に駆け足で戻っていった。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

 己のしでかした失態に、リュンヌは混乱した。まるでそれが義務であるように、何度も同じ言葉を繰り返す。リュンヌの身体も心も温められていた。それでも絶対的な安心感ではない。

「貴様は阿呆か」

 怒気を含んだ王の声は、穏やかな施設長が何らかの理由で怒りを表した時の声に似ていた。

 幼いリュンヌでは施設長の機嫌を取ることはできず、結局できたのは距離を置くことと口を噤むことだけだった。

 我慢しなければならい。皆が気持ちよく過ごすためには、不快なものはすべて排除する必要がある。

 だがどうしても吐き気は連続して襲ってくる。リュンヌは王の腕の中で二度程吐いた。

 吐いて吐いて、犯した過ちの重大性を考える間もなく、リュンヌは気を失った。


2


 おそらくですが、と年老いた女医は言った。

 王が幼少の頃から王家に仕えている医者である。代々王家専属であり、また男女ともに同じように教育を受けており、女性の王族を診察するのに重用されている。

 しかしこの女医、齢六十は超える老婆である。腰は曲がり、杖なしでは足取りも怪しい。かつて医療器具を巧みに操ったであろう手は、しわが多く骨が浮き出るほどに痩せていた。

 王妃の寝室には、寝台で眠る王妃を囲むように王とマリア、そして女医が立っている。女医は王とマリアを交互に見た。

 他の侍女たちはマリアが隣の部屋に追い出した後である。王妃が眠っていても、裁縫など手仕事は山ほど残っているのだから。

 女医は手桶で水を洗い、清潔な布で水分を拭った。

「マリア、王妃の最近の様子はいかがかね」

 女医は先ほどの続きを告げる前に、確認のように問うた。

「わしが知りたいのは、リュンヌはどのような病気なのかどうかだ」

 王が遮る。

 しかし女医は王をねめつけた。

「ではおぬしにも聞いてやろう。シュッダイナ、お前はちゃんと王妃と向き合っていたか? 王妃の置かれた立場を察し、助けたか?」

「そのことにどれほどの意味がある?」

「直接言ってやろうか? ドグマニード王と王妃は信頼を勝ち得た夫婦かと」

「――っ」

「そんなことあるまい。故にこの子にとって耐えがたき苦痛になるやもしれん」

「なんだとっ」

「そのことについては、まだ時間が足りないかと」

 激昂する王とは対照に、マリアが至極冷静な声を発した。

「長年欲していたものを手に入れたのだ。代替品だとしてもな。そりゃあ浮かれて当然。じゃから今回は先に手を出したのかえ? そんなん、なんの保障にもなりゃせん。互いに向き合わんことには、また同じように取られるぞ」

「っ」

 王がこぶしを振り上げる。

 しかし女医は怯えた様子もなく、王のこぶしをまるで珍しいものでも見るような目で見上げただけだった。その目は哀れみさえ込められていたのではないだろうか。

 王は最後まで振り下ろすことはできなかった。女医の視線に息を飲みこみ、歯をぎりぎりと鳴らせる。

「ピーピー泣いていた坊やが、いっちょまえに」

 女医は鼻で笑った。

「ん」

 その張りつめた空気の中、王妃の寝起きの声をあげる。

 一同は腰をかがめてリュンヌを覗き込んだ。リュンヌは六つの視線を一気にうけ瞬きをした。

 しばらく王妃と周囲の人間たちは見つめあった。

「気がつかれましたかえ」

 女医が丁寧に優しく聞いた。リュンヌは女医とは顔見知りだったので、こくんと頷いた。

「気分はどうです?」

「うん。でもやっぱり気持ち悪い」

 寝ている状態では何も感じなかったのだが、上体を起こそうとすると眩暈とわずかな吐き気が伴うのだ。そう告げると女医は納得した王に頷く。

「私、死んじゃうの?」

「馬鹿なことを言うなっ」

 途端に王が怒鳴る。リュンヌが反射的に身体を強張らせたので、女医がすかさず叱咤した。

「端的に言うとだな」

 さもめんどくさそうに女医は頭をかく。

「ややが腹におる」

 先ほどまで「王との信頼が築けていない以上、王妃を苦しめる」と言っていたその口で女医は告げた。

「――」

 王と王妃の沈黙の理由は異なるだろう。感じたことも思ったことも全く。

「まあ、まあまあ。なんておめでたいことでしょう」

 沈黙を破ったのはわざとらしくはしゃいだ声をあげたマリアであった。彼女は両手を胸の前で叩き、大きな身体を揺らして喜びを表現した。

「ふん、この小さな母体では子の命の保証はない。せいぜい栄養を取り、あとは安らぎの中で過ごすことじゃな」

「そりゃあ、もちろん」

 マリアが請け負う。

「いいか、主の子じゃ。全力で母子共に守れよ」

 女医は干からびた指を王の鼻先に押し当てた。それからリュンヌに向きなおり、これから吐き気はしばらく続くことや、日常の過ごし方などの諸注意を伝えた。丁寧にである。

 しかし聞く方のリュンヌは呆けており、腹に新しい命が宿っているなど実感がないようだ。女医の話も半分以上も耳に届いてはいないように見える。

「そうか、めでたい。今宵は宴じゃ」

 徐々に喜びが込み上げてきたのか、王は口元をほころばせる。

「ばかたれっ。妊娠初期は無理をさせてはならんと今言っただろうがっ」

 王の頭をはたきそうな勢いで、女医は王の耳元で叫んだ。

 王がたじろいだところで女医はふんと鼻を鳴らした。もう用はない、女医は持ってきた医療器具や薬剤をまとめて退室した。

「おめでたいですわね。リュンヌさま」

 言ったマリアに対して、しかしリュンヌはありったけの声を張り上げた。

「いやよっ」

 その一声は、一瞬にして室内を凍らせた。

「勝手に決めないで。いやよ、いやっ。産まないから」

 言い終わらないうちにリュンヌは乱暴に上かけを跳ね上げた。立ち上がる瞬間、めまいがおきたが止まらなかった。

マリアの制止を振り切り、引き留めるために伸ばされた王の手を叩いて振り払う。

 王は思いもよらない反撃に言葉を失っていた。今まで反論などされたことなど一度もない。

 王妃に迎える時も、無理やり身体を開かせた時も、心の内を一度として吐いたことはない。よく言えば従順だった。

 リュンヌは王とマリアを睨みつける。歯を食いしばり、フーフーと息を荒げながら徐々に後退した。

 女医が危惧していたことはこのことであろう。しかし気付いたのはマリアだけだった。

 見ればリュンヌの頬は大粒の涙が幾筋も流れている。限界だ、その表情はくしゃくしゃに崩れ普段の面影はない。

 王は立ち尽くすしかできなかった。どんな言葉をかけてやればよいかすら思い浮かばなかった。一歩リュンヌに近づくことさえ。

 その時寝室の扉がゆっくりと開いた。木製の分厚く重い扉である。

「ソレイユ様」

 マリアが驚きの声をあげ、リュンヌが振り返った。

「隣で侍女たちと談笑していたのですがね、騒がしかったので様子を見に来ました」

 普段寝所に入室できる人間は限られている。それには王の甥は許可されていない。にもかかわらず、なんの罪悪感もなくただ面白半分、興味半分で入室してきたソレイユが歓迎されるはずもない。

 王の眉間にしわが深く刻まれる。護身のために剣を持参していたなら、すぐさま抜いていただろう。怒りを察することができるほど、王は小刻みに震えていた。

「まあ、よくはわからないのですが、丁度サリエヌが王妃に会いたいと申しておりましてね。待っていたのですが、いつまでたっても。おや、お取込み中ですか?」

「白々しい」

 王が苦虫をかみつぶしたような表情で吐き捨てる。

「この様子だと叔父上が王妃を泣かせたと見えますね。落ち着くまで私とご一緒に焼き菓子でもいかがです? サリエヌが大量に持ってきまして、持て余していたところなんですよ」

「……助けてくださいっ」

 リュンヌはソレイユを前にして膝をつく。

 周囲の人間すべてが目を見開く。

 王はその不愉快さに我慢が出来なかった。リュンヌに近づき、今にも頭を垂れて懇願しそうな王妃の首根っこを、さながら猫のように持ち上げた。

「助けて……」

 顔を覆い、泣き崩れるリュンヌにさすがのソレイユも返答に窮した。


3


「触るなっ」

 声を荒げたのは王である。

 リュンヌに、ソレイユが手を伸ばした瞬間だった。その声の大きさにふたりはびくりと身体を強張らせる。

 リュンヌはひゅっと息を飲みこみ、唇をかみしめた。しかし感情を抑えようとしても、しゃくりあげる度にひ弱な声が漏れ出てしまう。

「叔父上、怯えています」

「構わんっ」

 おそらく王に諫言することができるのは、女医とソレイユだけであろう。しかしこの場に女医はいない。

 ソレイユは嘆息した。それで意思表示したつもりだ。彼にとって王妃はそれほど食指が動かされる女ではない。だが泣いている女を放っておける程非道ではないつもりだ。

「王様、ですがお腹の子に影響します」

 小さく、しかしはっきりとマリアが言った。

 王はそこで初めて自分の失態に唸った。リュンヌの襟首を掴んでいた手を離し、ぐっと拳を作って堪える。リュンヌはその場にへたり込んでしまった。

「そのようなことならなおさら」

 ソレイユはリュンヌの肩を抱き、もう一方の手で立ち上がることを促した。

「気分が良くなるまでサリエヌとお話しでもしましょう。ああ、会うのは初めてですね。早速隣の部屋へ呼んでもよろしいですか」

「ならんっ」

 王はリュンヌの肩を抱いていたソレイユの腕を振り払う。

「あなたは少しも王妃のことを考えていない」

「なんだとっ」

「王様、先ほどもヲン女医がおっしゃっていたでしょう?」

 マリアがソレイユに続いて発言する。

「貴様等、首を刎ねてやろうか」

「お断りします。私はリュンヌ様付の侍女でございますから、リュンヌ様が不快だと思う事柄については排除するのが役目と自負しております」

 言い終わらぬうちに、マリアはリュンヌのそばで膝をつく。王妃の小さく震える背に手を添えた。

 これほど「王妃が、王妃が」と言われてしまえば、王は我を通すことができない。そして彼らはリュンヌを苦しめようと助言しているのではない。むしろ反対なのだ。故に王もここが引き際だと悟る。

 王は深く息を吸った。そしてマリアと同じくリュンヌの横で膝をつく。

 王妃は震えていた。涙で化粧も落ち、散々な顔である。

 王は尚も身体を強張らせるリュンヌの頬に手を当てた。彼にとって妻を泣かせるつもりはなかっただろう。ただ自分の自由にならないことが歯がゆかった。

「どうにもならないことなど先刻承知。それでもわしはおぬしを妻にしたかった」

 そろそろとした手つきで王はリュンヌを懐に引き寄せた。

「約束したであろう。わしはおぬしが欲するものを与えると」

 自分の腕の中にリュンヌがいることを改めて確認して、王は大きく息を吐き出した。

「嫌らうでない」

 命令ではなく、懇願であった。

 その吐息にも似た切ない言葉に、リュンヌは胸が締め付けられた。

 王はたしかに約束した。必要なものをすべて与える、と。そもそもみすぼらしい痩せこけた少女が王から直接言葉を賜ることなどあってはならないことだ。事実、家臣たちは王の所業を咎めていた。命を失う覚悟を持っていた者もいたであろう。そのためか、現在王がリュンヌに会いに来るときはひとり、もしくはよほど信頼している者を連れてくるのみである。

 リュンヌには王に釣り合うだけの身分がない。親もいない、金もない、領地もない。王にとってリュンヌとの結婚など、なんの得があろう。ドグマニード王家にとって何の意味があるのだ。

――否。

 王はリュンヌの何かしらに、「アリィ」を見たのだ。初夜、切なく零れ落ちた女の名を、リュンヌは忘れることができない。リュンヌの価値は「アリィ」になにかしら関連しているということのみである。

 嫌いたいのではない。

 以前には考えらえないような贅沢をさせてもらっている。

だが欲しいのはそのようなものではないのだ。物で満たされていても、心に空いた隙間は埋めることができない。施設長に抱きしめられた温かさ、不本意ながら王の腕に抱かれた時の安心感、それらが自分だけに向けら得て欲しい。得られなかったからこそ求めてしまう。

 残念ながら王が求めているのは、リュンヌ越しのアリィだ。そして今受けている愛情も贅沢な暮らしも、本来ならばそのアリィが受け取っているべきものだ。

 一体王は誰を腕に抱き入れ、誰の手を握り、誰の瞳を見つめているのだ。

 一瞬で背筋が冷たくなる。

 嫌悪に顔をしかめ、身体をよじった。だが許されなかった。腰を浮かせた王は、逃すまいと力強い腕を背に回して一層強い力で抱きしめたのだ。

 分厚い胸板に頭が沈み込むと、リュンヌは王に爪を立てた。

「私はアリィじゃない」

 ようやく吐き出した言葉に、リュンヌは気が狂いそうだった。

「わしにはもう、そなたしかおらぬ」

 嗄れた王の声が次第に力を失う。王が涙を流さず泣いているようにも見えた。

「私は」

 しかし強く抱き締められれば抱きしめられるほど、心は氷のように冷たく硬くなっていく。

「愛しているのだ」

 王はリュンヌの肩に顔を埋めた。

 しかし王の明白な嘘はリュンヌを薄く笑わせるにとどまる。

 リュンヌはわずかに首をめぐらし、ソレイユを見た。彼は不機嫌な表情で事の成り行きを見守っている。そんな表情でも、リュンヌは愛おしいと思った。

――ソレイユ様。

 助けを請うのではない。

 思いを預ける先は王ではなかった。

そしてあるこたえにたどり着くと、知ってしまう。絶句してしまうほどおぞましい思考に、再び吐き気がよみがえってくる。だがこれはつわりではない。憎悪。

「もう、おやめください。このようなお遊びは」

 身体が王から離れ、リュンヌははだけた胸元をかき寄せ、そろそろと後ずさりをする。

 マリア顔を逸らしている。ソレイユは王をなおも諌めようとしたが、リュンヌに手で制された。

「遊び?」

 王はゆっくりと繰り返した。

 まるで子供のように、その声に邪気はない。本当に意味がわからないというように首を傾げるのだ。

 リュンヌはよろけながら立ち上がり、冷たい目で王を見下ろした。

「なぜこのように私を辱めるのです」

 上目遣いに王を見上げ、彼が一歩でも近付こうものなら、その倍の歩数を後ろに下がった。

「そもそも私はなんの身分もなにもない孤児でございます。それが何故王妃になれるでしょう。王のお戯れとしか考えられません。そして王は楽しんでいらっしゃる。なにもできない愚鈍な娘に、分不相応の荷を背負わせ潰れるのを笑って眺めていらっしゃる。あまつさえ――私を」

 詰まる声の出口を求めてリュンヌはあえいだ。

「それほど私は王の恋人に似ておいでですか。なぜ私なのです、私を后にするのなら、アリィを后にする方がずっとたやすいではございませぬか」

「リュンヌ様っ」

 咄嗟に上げたマリアの声には、王妃への非難が込められていた。これはリュンヌにとって予想外だった。いったいマリアはどちらの味方なのだ。

「いけません、それ以上は」

今まで無条件に味方であったマリアが自分を叱責する。その事実は、どんなむごい仕打ちよりもリュンヌを打ち据えた。

「マリア……」

 力なくその場にリュンヌは膝をつく。マリアが慌てて助け起こそうとしたが、リュンヌは振り払った。もうやめよう、止めるのだこれ以上は。籠の鳥は美しく鳴かなければたちまち価値はなくなってしまうのだから。だがはじめから籠の鳥ではなかったとしたら。

 リュンヌは四つんばいになって身体を丸めた。嗚咽は堪えきれない。

 王は泣き崩れるリュンヌの前で仁王立ちであった。かたく握られた両の拳は、しかしどこにもぶつけられず。王は頭をたれることを知らなかった。たったそれさえできていれば、か細くひ弱なリュンヌを再び抱きしめることができるであろうに。

 そしてリュンヌは声を殺した。代わりに唇を噛み締める。

「身分があろうと、立派な体躯があろうと、手に入れられぬのだ。リュンヌよ、だがわしはお前に全てを与えるつもりだ。何故辱められたと感じよう」

「王様」

 不安の声音を隠せないマリアを尻目に、王は抱えたリュンヌを寝台に運んで寝かせる。

 リュンヌはなじみのある柔らかさに包まれると、うつ伏せになりシーツをつよく掴んだ。彼女は言いようのない悲しみで満たされていながら、脳裏にソレイユの顔を幾度となく浮かばせる。好きな男に想いを告げることも寄せることもできないなど、だれが教えたか。それを率直に口に出せるほど勇気は欠片もないが故に、リュンヌは自らの生い立ちを理由に泣き縋るしか思いつかなかったのだ。愛せない、愛されもしない、そんな存在などどれほどの価値があろう。

 マリアもものを言わない。見捨てられたか。

「うっ」

 背中を丸め、さらに顔を枕に埋めた。するとぶ厚くかたい重しがのしかかってくる。

 王は証明しようとしている。そして傍観者二名に見せつけているのだ。

 リュンヌは奪われると感じた。

 ソレイユに対する想いを。

「リュンヌよ」

 王のしゃがれた声が耳元でささやく。太く浅黒い手は、ゆっくりとしかし確実にリュンヌの身体に触れてきた。だがもう一方は。

「っ」

 王の腕を目で追うと、ひきつった悲鳴が喉を震わせる。「わしにはもうそなたしかおらぬ。わしを拒むのであれば、そなたの首をかき切りわしも自害するぞ」

 マリアは目をそむけている。

「いやっ」

「わしはそなたを愛しておる」

 リュンヌは目を見開き、喘ぎ、もがいた。

 王はさながら獅子のように食らいついた。衣服を剥ぎ取り、甘噛みを繰り返す。征服者として、支配者として彼は存在していた。哀れな子羊はその下でうずくまり、食われ食い尽くされる。

 それは一方的な陵辱であった。初夜のなにも知らなかったときよりも、深く心臓に杭が打ち込まれる。――なんたるかを知ってしまったが故に。

 声を殺して心も殺さなければならないのか。

 獅子は容赦なくのしかかる。やがて獲物は息絶えようとしていた。その寸前、現れた幻に手を伸ばし掴み損ねる。ソレイユの幻は掴むどころか、背を向けた。否、現実だろう。

 これが現実なのだ。

 リュンヌはこのとき心底悔いた。

 結婚というものの何たるかを知ってしまったがために。


4


 人払いをした書斎で王は一枚の手紙を読んでいた。

 達筆な字で詳細を綴っている文面から、書き手の几帳面な性格がにじみ出ている。

 陽が沈んでずいぶんと経つ。書斎は小さな窓しかないが、そこから見える景色は黒く変色した木々のざわめきだった。

 音は聞こえない。ただ窓の隙間から入り込む冷えた空気が、王の足元に吹き付けた。

 ろうそくの炎が頼りなく揺れる。

 王は嘆息して手紙から顔を上げた。吐き出した息は白い。

 普段から険しい目つきは、怒りを内包することによってさらに細められる。

 王は最後まで読むことなく、円卓にそれを投げ出した。手が寒さのため思うように動かなかった。

 ひじ掛けのついた椅子に深く座り直し、疲れた目元をもみほぐす。

「ソレイユ」

 王は入口の向こう側に声をかけた。

 しばらくして簡素な木の扉がゆっくりと開く。

 顔をしかめたソレイユが扉を開けたまま立ち止まる。昨日のおぞましい光景が彼の脳裏から離れないのだ。

「どうされました、叔父上」

 成人した男とは思えない濁りない声が突き離すように問う。彼は王の許可を待たずに王の向かいに座った。

 長年使用している円卓は、ところどころに裂傷が走っている。塗装も剥げ、ささくれ立った木が青年の袖口に引っかかった。

「リュンヌについてだが」

「やですよ、子守は」

 叔父と目を合わすのも、身体を向い合せるのも嫌だというように、ソレイユは椅子に斜めに座って天井を仰いだ。

 王が嘆息する。

 ソレイユはじっと天井を睨みつけたままだ。

「……差し出がましいですが。叔父上、いくつになりましたか?」

 みっともないと散々に詰ってやりたい衝動にソレイユは駆られた。しかしあの場所に自分もいたにもかかわらず恐怖で身動きできなかった。王妃を助けられなかったのは事実。いったい自分もいくつなのだ。

「アレはわしのものだ」

「存じていますよ」

 そもそも王妃の容姿からして、決して恋の対象にはならないだろう。王妃の品格もない、ただ毎日泣き暮らしている娘だ。器量も悪ければも権威を振りかざす度量もない。面白味のない娘。だれが興味を持とうか。

「やっと手に入れたのだ」

「――そうらしいですね」

 ソレイユはさもつまらんと言いたげに、胸の前で手遊びを始めた。握ったり開いたり、爪の磨き具合や、手の骨と皮のバランスのチェック。よく手入れされている。

「手を出したなら、首を斬る。覚えておけ」

「興味がないと申しましたが」

「お前の遊び心が出んようにな」

 ソレイユは一瞬王を見た。次いでふっと鼻で笑ってみせる。

「ご冗談を」

 先ほどと何ら変わりない調子でソレイユが言う。

 王はソレイユをつよく見つめた。目を閉じ、一度何かを飲み込むように唇を引き締める。

「十六年程待ったと言えば、同情を買うかな」

「まさか。つまり赤ん坊に恋をしたとでも言うつもりですか」

 王は答えない。

 ソレイユは思案した。昼間の王と王妃のやり取りを回想し、答えを導き出す。

 王妃は自分を「アリィ」の代替品だと言った。ならば、王が本当に欲していた女は「アリィ」になる。

 そりゃあ、身代わりにされたんじゃたまらんね。ソレイユはそっと口の中で呟いて平静を装った。

「最低と罵れば、少しは心のつかえが取れるんですか」

「――そうかもしれん」

 王は大きく長く息を吐き出した。視線を外し、書斎唯一の窓に目を遣る。

 その横顔は昼間見た獰猛な獅子ではなく、疲れて寂しくて泣き出してしまいそうな初老の男だった。

「なんだ、私に懺悔しているんですか? あいにく私は牧師ではありません。手に入れて眺めて満足したら、早く解放してやりなさいな」

「――っ」

「それしか、価値のない娘なのでしょう?」

 王の平手が宙を舞う。しかしソレイユは瞬きもせず顔にあたる寸前で受け止めた。昔は容赦なく張り飛ばされたものだ、ソレイユは苦笑した。今なら受け止められる。そして王はこの先どんどん老いてゆくのだろう。

 ソレイユは立ち上がった。上半身を乗り出して平手を喰らわせようとした王を冷めた目で見下す。

「そうでないならば、今すぐ寄り添って愛をささやいてやったらいかがですか。叔父上、今どこにいるべきなのですか?」


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