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砂に埋もれる月  作者: 鷹臣 えり
2/7

第一章 幼王妃

『 Le 11 novembre de 564 

 おぞましい記憶なのかもしれない。

 シュッダイナ・ピエル・ドゥ・ドグマニード王と挙式を挙げてわずか半日後のことだった。慣れない衣裳から解き放たれ、これ以上の辱めはないだろうと安堵したときだ。侍女達が遠慮なく部屋に入ってきて、かと思うと乱暴に服を脱がされた。彼女たちの目は、口には出さない蔑みが込められていたと思う。私は居心地が悪い中、ただ人形のように先導されるまま湯に漬け込まれ、はては喉の奥を不愉快にさせるえぐみのある香水を振りまいてくれた。

 唇を噛み締めていた。

 女は宝石なのだと、施設長ではない下働きの女がよくよく私に説いて聞かせた台詞を思い出す。そう、たしかに私はまるで宝石かなにかのように丁寧に扱われた。

 あの日、私はドグマニード王の妃になった。

 笑えばいい、この日記を見て哀れな私を笑えばいい。

 女は確かに宝石だと。

 男に献上される宝石だと。……以後 略  』


1


 香の匂いが立ち込める寝室には、豪奢な彫刻が施された四本の太い柱が天井を支えている。その中央、毛足の長い織物の上に天蓋付の寝台が置かれていた。

 リュンヌは恐る恐る歩を進めて寝台の前に立った。

 靴音は響かない。響いたところで聞いているのは、必要な音以外収拾しない耳を持った侍女たちだけだ。

 侍女たちはさながら蝋人形のような表情で、リュンヌの後をついて回る。

 落ち着かない、というのが本音である。

 天井から順に周囲を見回し、リュンヌは大きく息を吐き出す。視線を落とすと、普段見慣れない絹で織られた室内履きが自分の足を包んでいる。それは銀糸で王家の紋章が刺繍され、ところどころに透明な石が縫いつけられている。衣装は式の前日に驚くほど細かに採寸をして仕立てられたものだ。リュンヌの顔が地味な分、衣装で豪華さを出そうというのか。

 色は金属箔を施した白。目の詰まった素材も上質な生地を使用している。身体の線に沿うように立体的に仕上げられており、腰回りは自然な細さを演出していた。

 リュンヌは胸元のドレープ部分をつまむ。金属箔が光の加減できらきらと輝く。

 生地の無駄、装飾の無駄が権力の表れなのだろう。

「まったく似合わない」

 背後でぼそりと声がした。侍女のひとりだろう。誰も咎めないところを見ると、全員が肯定しているからであろう。

――知っている。

 前日まで孤児院にいたのだ。

 泥臭さはぬぐえまい。

 リュンヌでさえ耳を疑ったほどだ。

 いったい自分にどんな血が流れているのだろう、しかし疑問は解消することなく今に至る。故に侍女たちの素っ気ない態度に悪態をつくよりも同意してしまうのだから不思議だ。

 立ち振る舞いもわからぬ。己の言動が侍女たちにどう映るか、そればかり気になってリュンヌは寝台の前で途方に暮れていた。

辱めとも言える湯あみを終えた自身からは、むっとする花の香りがする。

 侍女たちはリュンヌの背後で息を潜めている。しかし痛いほどに視線を感じるのだ。侍女たちはこの後王たちが行う一切を見届ける以外、何もしないようだ。いや、できることなど何もないのかもしれない。

「リュンヌ」

 やがて背後で野太くとがった声がした。

 思わずリュンヌは身体を強張らせ、ゆっくりと振り返る。

 先ほどまでリュンヌの後ろをぴたりとついてきていた侍女たちが、左右に分かれ頭を垂れ王に道を譲っていた。

 ゆっくりと王の巨体が近づいてくる。

 祝言を挙げたばかりの夫の顔は緩み、しかしその後一言も発することはなかった。

 歳は今年四九になると本人に告げられた。リュンヌは現在十六になる。ずいぶん歳の離れた夫婦だ。

 リュンヌは身体の向きを変え、王と向き合った。頭ふたつぶん王の方が高い。

 筋肉質な体躯を持つ王である。年齢に似合わず肌には艶があり、ほんのりと赤みを帯びていた。しわは目元口元額と、深くはあるが多くはない。姿勢は良く、若者と決して引けを取らないたくましさがあった。

王は軽装で薄いシャツとズボンを着ていた。彼はリュンヌを目を細めながら見つめていた。

 土臭い乙女の何を欲したのだろうか。加えて痩せた貧相な身体である。こけた頬が哀愁を誘い、日焼けした肌が田舎暮らしを強調する。栄養不足は髪質まで変化させているようだ。ぱさつく髪は束ねていないと質量が増す。そのような少女を近くに置こうとするのだから、物好きな男だと思う。

 さてリュンヌには王と夫婦になるということがおぼろげにしか理解できないない。ただ孤児院からの貧しい暮らしから贅沢な暮らしに引き込んだ男、それだけの認識であった。そこは感謝するべきなのだろうか。孤児院での暮らしを特に不便と感じたことはない。またこのような豪華な暮らしを望んだわけではない。他人から見ればうらやましい限りなのかもしれない。

 王が一歩近寄る。張りのある太い腕がリュンヌの頬に伸ばされる。手の平は分厚く温かい。リュンヌの頬をいとおしそうに包み込んでいる。

 王は薄く笑った。リュンヌに寝台に座るように手を振る。

その一瞬、リュンヌは顔をしかめた。孤児院で施設長が酒を飲んだ時の呼気と王の呼気が同じ匂いなのだ。施設長はさらに呂律の回らない口調で、偉そうにリュンヌに命令をしていた。果ては肩に手を回し、意味の分からないことを何度も口走ってにやけ、リュンヌの反応を伺う。思い出してしまい、触られた箇所の肌が粟立つ。

 だが王は酒の匂いがするものの、施設長のように態度がおかしいわけではない。目はしっかりとリュンヌを捕えていたし、おかしな言動も態度もない。足取りもふらつきはなく、しっかりと立っている。

 しばしリュンヌは疑問からくる興味によって王を見つめた。その視線は下心がなく、無邪気である。

 対して王は、突如リュンヌに覆いかぶさった。

「!」

 反射的に抵抗を試みた。しかし相手の力はそれ以上で、リュンヌを屈服させるかのごとく体重を押し付けてくる。

 抵抗むなしくリュンヌは寝台に押し倒された。そのまま王は少女の細い身体をまさぐり、抱き寄せ頬を寄せる。

 頬をべろりと舐められた時のおぞましさ、リュンヌは目を瞑り力の限り叫んだ。

 だが少女の抵抗は王の嗜虐心をあおったに過ぎない。たやすく手折れそうな両の手首を、頭の上で捕えられる。

 足をばたつかせれば、すぐさま王の足によって封じられる。王は空いた手でリュンヌの乳房を揉みしだき、破るように衣装を脱がせていった。その間、王はリュンヌの唇を割り、己の舌を差し入れて中を蹂躙する。

 ついに目的の場所を開け放った王は、小さな蕾にたどり着く。

「ふっ」

 自分でも触れることのない場所への侵入に、リュンヌはえびのようにのけ反り抵抗を試みた。しかしことごとく王の腕が捕え、さらに強い力にて制圧されてしまうのだ。

 一瞬王は蹂躙をやめ、涙をためるリュンヌの目を見下した。にやり、男の唇が歪む。

 刹那、リュンヌは悟ってしまった。

 自分はこうされるために引き取られたのだ。

 これは王の遊戯だ。

 身分も財産も何もないリュンヌがどうして王の妃などになれるのか。リュンヌなら、どのように扱ってもましてや殺しても、誰にも責められることなどないからだ。

 リュンヌの背を王に向かって押し出した施設長の顔が思い出される。穏やかに安堵した表情は、リュンヌの見間違いだったか。

 よろしくお願いいたします、施設長はこう言った。要望はリュンヌの幸せをか? それとも経営の立ち行かなくなった孤児院のことか?

 思いを巡らすその時。

 誰かが己の身体に入ってくる。

 引き裂かれるように鋭利で、握りつぶされるように鈍重で。

 知らずリュンヌの頬は塗れていた。声を出すまいと必死で歯を食いしばる。

 これはなにかの儀式だ。

 漏れる嗚咽のみが、少女の心情を吐露していた。

 欲しかったのは安らぎだ。

 王妃という立場ではない。金貨も銀貨も欲しくない。雨風をしのげる家があって、今日の食べ物に困窮しない、ありふれた幸せが欲しかった。

 欲を言うならば、好きな男と添い遂げられる、女としての幸せの享受だ。隣にいる男はリュンヌを心底愛していて、リュンヌも男を愛している。ふたりの子は両親の愛情に包まれて健やかで人に優しい子になるだろう。

――だのに。

 現実が容赦なく襲いかかる。

「アリィ」

 リュンヌをかき抱き身体を震わせる王は、こともあろうに他の女の名をささやいたのだ。愛おしく、甘く、そして優しく。


2


 そうか、そうだったのか。

 ベッドに王の体温さえ残されていない抜けあとを、リュンヌはじっと見下して呟いた。シーツにはしわがより、見たくもないくすんだ赤のまだら模様がついていた。今まで簡素な造りのベッドしか知らないリュンヌは、包み込むような柔らかさを持つ寝具を、逆に寝心地が悪いと感じてしまう。上体を起こし、立ち上がろうとすると腹部に鈍痛を感じた。まるで昨夜の行為がいまだ続いているような感覚だ。

 王は幾度となくリュンヌを求めた。幾度となく他の女の名を呟きはしたが。

 求められていたのはリュンヌ自身ではない。

 そう理解すれば、己が王妃になった理由が判明する。

 耳元で低くゆっくりと噛みしめるように繰り返される名は、未だ耳に残っている。吐き気がこみ上げてきた。

 誰かが女は宝石であるべきだと言っていた。宝石のように美しく、また口を噤んでそこにいればいい。否、宝石は常に献上されるものだったではないか。意志に関係なく、身を飾る道具として、また権威を象徴するものとして。

「おはようございます」

 穏やか声音がリュンヌの耳を刺激する。

 リュンヌは自身が一糸まとわぬ姿であることに気づき、シーツをあわてて胸の前に手繰り寄せた。

 声の主はふくよかな体型をした女だった。歳はおそらく三十を過ぎているだろう。血色の好い肌に、柔和な笑顔でリュンヌは一目見て安心感を覚えた。

 しかしそれは一瞬のことで、すぐさまリュンヌは顎を引く。

「今朝は肌寒いので、いつまでもそのような格好では風邪をひいてしまいます」

「触らないでっ」

 女の柔らかく大きな手が目の前に差し出される瞬間、リュンヌはそれを憎しみを込めて振り払った。

「……」

 女は表情を変えなかった。否、一瞬面食らったような表情だったが、次には挨拶時以上の笑顔を広がらせた。

「大丈夫ですよ。なにもとって食おうなんて思っちゃおりません。けど、当たり前ですね。昨夜お世話をさせていただいた侍女たちは、どの子も無表情で」

 はあ、と大仰に溜息をつく女はマリアと名乗った。

「御用があれば何なりとお申し付けください」

「だったら私を元の場所に戻して」

 マリアは困ったように首を傾げた。

「とりあえずお召し物を」

「嘘つきっ」

 リュンヌは手に触れた枕をマリアに投げつける。それはマリアの胸にあたって絨毯の上に落ちた。

「リュンヌ様が故郷に帰りたい、それは心情お察しいたします。帰りたい、ではなく見てみたいであるならば、お供をつけましょう。リュンヌ様はもはやドグマニード家の妃であらせられます。後日国民のためにお披露目もしなければなりませんね。さあさあ、国民を愛する妃がそのような仏頂面では国民も困ってしまいます」

「妃ですって? 馬鹿にしないで、私はただの人形でしょうがっ」

 思わず喉でひきつるような笑いが込み上げた。

 自分は代替品に過ぎない。なのにマリアの言動はいちいち丁寧なのだ。

「リュンヌ様は今年おいくつですか?」

 そっと穏やかな風が吹く。マリアは穏やかな表情を崩さない。それに対してずっと突っかかるのも後ろめたさを感じてしまう。

「……十六」

 うつむき、マリアがかろうじて聞き取れる声で吐き捨てた。マリアの声は常に穏やかで優しい。リュンヌに母はいないが、母に似た存在は孤児院の中にいた。常に笑顔で、心が晴れやかな女性である。決して他人を蔑むことなく、リュンヌの生い立ちに同情し、気にかけてくれた。温かな手は差し伸べるためにあり、突き離すためにあるのではない。

 そして目の前にいるマリアも、リュンヌに手を差し伸べている。

「そんな年頃の女性が、無理やり年上の男性と結婚させられたのですからね。戸惑って結構だと思いますよ。もっと年齢が上がった御嬢さんだったら、私どうしようかと思いました。だって相手は王様ですからね、いくらでも尻尾なんて振るでしょうよ。むしろリュンヌ様の態度は正しいと言えますわ」

「……」

「大丈夫ですよ。王様は心からあなたを好いておられです。多少の誤解はあったかもしれませんが、必ずあなたを幸せにしてくださいます」

「……」

 なんの冗談だ、リュンヌはマリアを口汚く罵ってそのパンパンに膨れた頬を張り倒してやりたい衝動に駆られた。

 しかしだからといって、王がリュンヌのことを心底好きだとしても同じような反応を返しただろう。

 なぜ自分が選ばれたのか。

 おそらく王のいとしい女と自分のなにかが似ているのだろう。手に入れることができないからこその代替品。

 冷静に考えてみれば、王への哀れみを感じた。

 悪くはしない、おそらくそうだろう。しかしながら、幸せにしてくれるとも言い難い。すでに昨夜の時点で、王はリュンヌに知らしめたではないか。

 所詮、女は宝石に過ぎぬ。

「私、これからどうしたらいいの」

 人形のまま留まるのか。

 それは嫌だ。

「はい。そのままで。リュンヌさまらしく、ありのままでと王様がおっしゃっていました」

「すべて奪うかもしれないわよ」

 王の心を手に入れ、無残に踏み潰してみたい。

 さすれば今のリュンヌの気持ちが多少なりとも理解できるだろう。

――最初に踏み潰されたのは私。

 こぶしを強く握りしめ、肩を震わせた。うつむく態度は、マリアになにを想像させるだろう。

「王様はあなたに何もかも与えるおつもりです」

 それでも感情を乱さずマリアは言う。

 再び風が室内を通り抜ける。

 今度は日差しに暖められた穏やかな風だった。

「なにもかも?」

「望むものすべてを、と」

 愛されておいでですね、マリアは満面の笑みを浮かべる。

 マリアは王のいとしい女がリュンヌだと信じて疑わない様子だ。ここで否定しても事態は何も変わらない。リュンヌの言葉をマリアはことごとく否定するだろう。

「嫌い」

 ぽつりと出た言葉に、数瞬遅れてリュンヌははっとした。

 これから偽りの愛をはぐくんでいけというのか。

「それでも王様は、あなたを愛していますよ」

「王と同じことをしても?」

「当然、喜ばれます」

――じゃあ、そうする。

 やられたらやり返せ、誰からそんな乱暴なことを教わったか。だが逃げ出せないのなら戦うしかない。

 王と同じこと、マリアとリュンヌには差異がある。こんなに人を憎めるなどと思ったこともなかった。

 決意を込めて顔を上げる。マリアは胸に手を当て、心配そうにリュンヌを見下ろしていた。

 意地の悪そうな笑みを浮かべたかもしれない。リュンヌは王の未来を想像していた。あらゆる手段で自分に気持ちを向けさせ、最後に手ひどくその思いを踏みにじってやる。どのような表情をするだろう。泣くだろうか、怒るだろうか。リュンヌと同じように、捨てる時を考えるか。もうその時には耄碌しているだろう。

「リュンヌ様?」

 マリアが突然、困惑した表情で覗き込んでいた。彼女はその節くれだった手をリュンヌの頬にそっと当てた。なにか生ぬるいものがマリアの指に伝う。

「どこかお辛いところでもありますか?」

 マリアは隣に座り、リュンヌの頭をかき抱き背中をさすった。この胸の中に入れば、すべての怖いものから守ることができるとでも言うように。実際そうだった。リュンヌはマリアの胸の中で底知れぬ安らぎを覚えた。

「うっ」

 嗚咽で肩が震える。

 一層マリアが強く抱き締めた。

 何に対しての涙なのか、リュンヌにはわからない。

 踏みにじられたことに対しての悲しみか、久しぶりに感じる人の温かさのためか。

 リュンヌはまるで幼子の様にマリアの襟元を掴んで顔を埋めた。マリアはしばらくなにも言わず、聞かず、ただ王妃の背をさすり続けた。


3


 寝室はとても寒い。暖炉の炎では心の寂しさや人肌の恋しい気持ちをなだめてくれることはできなかった。

 寝室の四隅に待機する侍女も、リュンヌと通じるものがあるはずもない。たとえ物音を立てたとしても、呼ばなければ近くに来ない、そんな素っ気なさがますますリュンヌを孤独にさせた。

 上かけから覗く窓の向こうに、黒くうごめく木々のざわめきがある。ともすれば悪魔の手招きにも見え、リュンヌはギュッと目をつぶり上かけの中にもぐりこんだ。

 上かけは上質な羽毛を詰めたもので、すぐさま身体を温めてくれる。しかし、その温かさでは、眠りに誘うことはできないようだった。

 しばらくリュンヌは身体を丸くし、孤児院で過ごした日々を思い描いていた。もう戻ることは二度とないだろう。孤児院の暮らしが幸せだったかと問われば、それも疑問だ。というのは、王妃としての生活はなかなか快適で、心の不自由こそあれ、物質的には満たされていた。

 凍えた寝台に横たわり、手足を息で温めながら朝を迎えることなど、もうないのだから。

 だがやはり、時間が過ぎていくと睡魔が襲ってくる。

 先ほどまでぱっちりと開いていた瞼は、いまや半分閉じられ意識も朦朧としてきた。

「お待ちくださいませっ」

 と、寝室の隣の部屋から侍女の悲鳴にも似た叫びが聞こえた。寝室とは違い、絨毯を引いていない石床である。木靴の靴音が不規則に鳴り響く。

 その足音は群れを成して寝室に近づいてくる。

 リュンヌは寝台から跳ね起きた。上かけを胸元まで引き寄せ、じっと身体を強張らせる。

 寝室の中で待機していた侍女たちがいつの間にかリュンヌをかばうように立ちふさがる。

 勢いよく扉が開いた。

 侍女たちの悲鳴があがる。

 しかしリュンヌには、前を塞ぐ侍女たちのせいで前方が良く見えなかった。それはリュンヌに危機感のレベルを著しく低下させる原因でもあった。

 侍女たちの悲鳴が何かを囲みながら近づいてくる。

 それは背に橙の光を受けた長身の影だった。王ではない、シルエットの形からすぐさま判断できる。しかしそれがどういう意味を持つのか、リュンヌには理解できなかった。

 やがて侍女たちの悲鳴は鳴き声に変わる。影の名を呼び、懇願し、泣き崩れる侍女もいた。

「やあ」

 混乱の中、しかしその声は親しげな男の声だった。

 リュンヌを背にかばっていた侍女たちも、影の正体に立ち尽くし、反射的に膝をついている。

 男を追ってきた侍女たちは、もはやすすり泣きけれども膝をついて頭を垂れた。

「だれ?」

 リュンヌがおそるおそる問う。

「ソレイユと申します」

 全く野性味を感じられない柔らかな声音であった。王とは違う、若く瑞々しくまた王と同じように自信にあふれている。

 ソレイユと名乗った男は、その場に片膝をつき、リュンヌを見上げた。

 侍女たちは肩を震わせながら口を噤んでいる。

「王妃が毎夜泣いているという噂を聞きつけ、駆け付けた次第でございます」

 口調は丁寧だが、言葉の端々から蔑みを感じる。

 男の顔はよく見えない。しかし暗闇の中に浮かぶ目は大きい。

 やがて侍女のだれかがろうそくの灯った燭台を持ってきた。

 オレンジの光の中に、男の柔和な顔が現れる。

 リュンヌは思わず息を飲んだ。

 柔らかな猫毛は金。細面の中のパーツはどれも形よく、二重の大きな瞳と、筋の通った鼻、下唇が厚い唇。口角はやや上げられ、作られた微笑みは相手の警戒心を解く魔術を備えている。

「しかしこんな非常識な時間に、しかも王妃の寝室にっ」

 息せき切って駆け付けたマリアががなり立てる。

 リュンヌはしかし、マリアとソレイユを交互に見遣り、今どういう状況なのか考えあぐねていた。

「申し訳ありません。ですが、若く美しい王妃を慰めしたい衝動は抑えきれず」

「だまらっしゃい。王になんと申し開きをするおつもりですか。このお方はドグマニード王の妃なのですよっ」

「はい、ですから王の負担なきよう、私がこうして王の代わりに参上したのでございます」

「ふてぶてしいっ。あなたたち、すぐさま衛兵を呼んでっ」

 マリアは背後でおびえている侍女たちに指示を出し、リュンヌの前に跪くソレイユの襟元を引っ掴んだ。

「それには及びません。私もリュンヌ様のお顔を拝見したらすぐに出ていくつもりです」

 そういってソレイユはマリアの大きな身体を押しのけ、さらにリュンヌに近づいた。

――綺麗な人。

 周りの感情と反対に、リュンヌは目の前の男に見惚れていた。

 ソレイユは今まで見たどの男よりも、清潔で麗しく、優しげだった。

 リュンヌは上かけをとり、寝台から足を投げ出して座る。足元に跪くソレイユは、笑みを絶やさない。

「今宵は涙が流れていないようでなにより」

 ソレイユはリュンヌの手を取り、甲に口づける。

 侍女たちがざわめく。中には王からの罰を想像して、卒倒する者もいた。

「泣いてないわ」

 かろうじてリュンヌは答える。少女は熱を持った手の甲を、反対の手で包み込む。まるで宝物を抱え込むように丁寧にゆっくりとだ。

 そんなリュンヌの態度に、ソレイユは満足そうに目を細めた。

「いつでも私はあなたの味方ですよ」

リュンヌがこたえるより早く、ソレイユはすっと立ち上がり、なんの未練もないように踵を返す。足取りは早く、困惑する侍女たちを微笑みながらかき分けて進む。

年配の侍女はたいがい顔をしかめて追い出すように彼の背を押していた。反対に年若い侍女たちは、ソレイユの顔を間近にして顔を赤らめている。

 マリアはそっとリュンヌの傍に近づき、ソレイユに口づけられた王妃の手を手拭きで清めた。あまりの強さにようやくリュンヌが気が付く。

「あ」

 反射的にリュンヌは手を引いた。すでに清められてしまった箇所を確かめるように反対の手で撫でる。

「触らないで」

 言えたのはそれだけだった。

 拒絶されたマリアは目を見開き、甲高い声で「まあ!」と非難の声をあげたが、本人の耳に全く届いていなかった。

「大丈夫」

 言葉を飲み込むように、リュンヌは再度呟いた。

 あの人は誰だろう。

 なぜ自分の所へ来たのだろう。

 疑問とうれしいという感情が混ざり、リュンヌはそれらを素直に表情に出していた。

 マリアは注意こそしなかったが、嘆息しソレイユが去った方向を見つめる。先ほどの彼の行動を見てわかる通り、素行は良くない。手当たり次第に女を口説き、タイミングよく引き上げる。身体の関係も手当たりしだいではないところは良いが、声をかけられた女たちは今のリュンヌのように腑抜けてしまうのが難だ。実は最愛の恋人がどこかにいるという噂があるが、実際存在を確認した人間はいない。

 王の甥である彼の行動を、強く諌めることができるのは今のところ王だけである。その王もなかなかソレイユを監視するのは難しい。

 マリアは苦虫をかみつぶしたような表情を作った。

「マリア?」

 ようやく我に返り、リュンヌは侍従長の表情に怯えた。

「いいですか、リュンヌ様」

 聞く耳ができた、マリアは表情そのままにとがった声をかける。

「貴方は王妃です。くれぐれも間違いなきよう」

「……」

「約束していただかないと困るのです。いえ、あなたが困りますよ」

「……」

 うつむき、リュンヌは唇をかみしめた。

 最初からソレイユが結婚相手であれば、驚きこそすれ嫌悪感など微塵にもなかっただろう。

 なんだ、このやりきれない感じは。

 自分も年齢相応の恋をしたいと思う。

 わかっていないくせに、リュンヌは口の中で毒を吐く。

 彼が立ち去った後は、柑橘系のさわやかな香りが残っている。また会いたい、残り香を思いきり吸い込み、叶わぬと知りつつ懇願した。


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