序章
崩れかけた名もなき館がある。
今から約百五十年前に滅んだ、ドグマニード王家の数少ない遺産である。
セロール街の南に位置し、標高二千メートル級の急峻な山の中腹にそれは建っていた。
本城から馬車で半日ほどかかる距離を、かつて六十にもなる城主は愛しい女のために通い続けた。
女の名は、リュンヌ。
白い月と謳われるほどの美少女だと言われているが、同時に品行の悪い王妃としても伝えられている。
事実、彼女の子供はふたり確認されているが、ひとりは王、もうひとりは王の甥が父親である。しかし彼女が受けた罰は記録に残ってはいない。
最後まで寵愛を受けたと思われる。
☆☆☆
ドグマニード王家について記憶していることは数少ない。そもそも現存しない王家のことなぞ、歴史学者にでも任せておけば良いのだ。
ヴァイスは口笛を鳴らし、手に乗せられた分厚い日記帳を見つめた。埃はさほどついてはいないが、表紙はくすんで日焼けをしている。ぱらぱらとめくると、インクと古びた紙の独特のにおいが鼻をつく。
「たいして価値のあるもんじゃねーと思うが?」
それを寄こした白髪の老人に向かって、ヴァイスは片目を瞑ってみせる。老人は杖をつきながらも背筋を伸ばし、まっすぐに見つめ返してきた。
老人の名は知らない。さらに言えば、今夜初めて会ったばかりだ。
互いに名乗らないのはヴァイスにとって特別に珍しいことではない。こういった奇妙な依頼や危険な依頼ならなおさらである。
あまり換気をしない室内は、埃で淀んだ空気が流れている。ひとつしかない木枠の窓からは、青黒い木々が風に揺れているのが見える。
月は出ていない。
鳥の羽音も、虫の音も室内には届かない。
あるのは、老人の歯の隙間から漏れ出る呼吸の音と、老人にすがりつくような格好で寄り添う子供の沈黙。さらにはヴァイスの溜息だった。
――子供。
ヴァイスは瞼を半分閉じて子供を見下ろした。
老人の孫だという。目の粗い麻布で作られたチュニックのフードを目深にかぶり、しもぶくれの頬しか見えない子供。子供特有の脂肪に包まれた柔らかく小さな手が老人の衣服を震えながら掴んでいる。おそらく、子供にはどうしてヴァイスの家に連れられて来たのか、何をするつもりなのか、詳細は一切知らされていないのであろう。
彼らは倒れるようにしてヴァイスの家に転がり込んできた。ひとめで彼らの経済状況がわかる格好だった。そのためヴァイスは金にならないと判断した。家を出て行ってくれるなら、わずかばかりの銅貨でも恵んでやるつもりだった。
しかし老人は子供の脇を抱え、開口一番「この本を読み聞かせしてほしい」という依頼をした。
よくよく考えれば、本の読み聞かせなど室内でゆったりと行うものだ。
寝る前の一読だ。枕元にははちみつを入れたミルクが欲しい。
「しかも、ざっと見た感じお子様に聞かせるような内容じゃないな」
数ページを読んだ限りでは、いかがわしい内容ではない。かといって、冒険譚と言った子供がわくわくする内容ではない。各ページに日付が書かれ、当日の様子が書かれているだけだ。しかも初めから鬱々とした感情が盛り込まれている。
温かみのあるろうそくの炎が揺らめいた。
同時にわずかばかり老人の歪んだ口元が見える。
老人が言うには、この日記帳はドグマニード王家最後の王妃の日記だという。
――だから、なんなのだ。
日記に宝のあり場所が記されているわけではないだろう。たしかにヴァイスの生業は何でも屋だが、子守は含まれていない。
ヴァイスは再び嘆息し、室内の端に置かれた椅子に腰を掛けた。テーブルには食べかけの固いパンと塩スープがある。
最初から冷めてはいたが、今更手を付けようという気にもならなかった。
どうやって帰ってもらうか、ヴァイスの脳裏に浮かびあがった考えをよそに、老人はすり足で近づいてきた。
「食事中にすまんがな、価値の有無などお前にはわかるまいて」
「明らかにないだろうが」
「この本に価値は確かにないだろうがな、お前さんがこの孫に聞かせることが重要なのだ」
「指名してくれるからには、礼ははずんでくれるんだろうな」
おどけた口調でヴァイスが言う。
老人はゆっくりと息を吐き出すと、ヴァイスの胸元を指さした。しわだらけの筋張った細い指である。
「隠し持っている首飾り」
「!」
「石は屑物でも台座は本物。故に売るに売れない物があるな」
「……」
思い当たる節があり、ヴァイスはわずかに眉根を寄せる。感情を表情に出さない訓練はしているつもりだったが、老人が指摘するものについて、一度も外に出したことも話したこともない、困惑するのは当然だろう。
「石も台座もそろえば完璧になる。果たしてそれがわしらにとって価値があるかといえば、はなはだ疑問だがな。できれば完璧な本物がいい」
濁った老人の声にヴァイスは一歩退いた。
「俺の親類で?」
「いやいや、まったくといっていいほど関係ない」
ヴァイスが隠し持つものについて、知っている人間はごく一部。産婆と両親と、死んだ親類だ。
「もともとの石を知っているのか」
老人が家に入り込んできた時以上に、不気味に感じた。
ヴァイスはいつでも反撃ができるよう、わずかに重心を落とす。
「ここにはない」
ヴァイスの警戒を知ってか知らずか、老人は変わらない口調で答えた。
「ここにはない、ではどこにあるか知っているんだな。教えろよ」
「女王の墓に眠っておるよ。今は発掘されて城の奥深くに展示されておる。もちろん、台座は鍍金じゃが」
「へぇ」
とりあえず相槌を打つ。
ヴァイスは顎を引いて探るように老人を見上げた。彼の態度に、老人にしがみつく子供の態度が硬化する。フードで表情は見えないが、身体をまるめ老人の背後に回り込んだ。
「で、報酬がその情報か? 面白い、完璧にするためには盗みに入るしかないじゃないか」
老人は喉の奥で短く笑った。ヴァイスに背を向け、木枠の窓に近づき、遠くを見遣る。
夜は長い。
耄碌した老人の目で、果たしてなにが見えるのか。
「そんなことはせん。もともと不完全な形で受け継がれてきたようじゃ」
「なかなか詳しいな。王家の血筋のものか?」
では、屑物の石をつけた首飾りを握って生まれた自分は、王家の人間の生まれ変わりか。
気味の悪い話だ。
生まれたばかりのヴァイスは、その小さな手に分不相応なものを持って生まれてきた。その事実だけでも奇妙なのに、よくよく調べてみれば台座には王家の紋章が彫り込まれている。両親はヴァイスをどう取り扱うか、長年あぐねていたようだ。
さて、石が屑物だと気づいたのはヴァイスである。贅沢品には縁のない両親は、最後までそれを完璧なものと信じてはいた。老人の言うように、不完全な形で受け継がれていたというのなら、ある意味完全な形なのだろう。
もしかしたらこの老人は自分の生まれながらにして持つ疑問を解消してくれるのかもしれない。
老人はヴァイスの質問には答えず、代わりに顎をしゃくって強引に背後に隠れた子供の背を押し出した。次いで乱暴に子供のフードを外す。
歳は五歳前後の男児。さらさらと流れる髪は顔を隠すように覆いかぶさり、顔に影を落として陰気な雰囲気を漂わせている。
衣服は経済状況を良く表していたが、男児の体つきを見れば優先的に大事にされたであろうことがわかる。
「ソールという」
老人はソールと呼んだ男児の頭を数回撫でた。男児はヴァイスを怯えた目つきでみあげ、わずかにうなづく。
「なにが目的だ」
依頼は男児に日記の読み聞かせではないだろう。また中途半端な情報も、報酬にはなりはしない。
「毎夜考えていることだろうよ、その首飾りの因縁を。報酬はそれだ」
「おいおい。俺が欲しいのは金だ。ないなら他をあたれ。今更聞いてなんになる」
「物の価値は人それぞれ。値が付いたものに、真の価値が伝わろうか。確かに、それはお前さんが持っていたところで屑同然。じゃが、因縁を聞けば屑が価値あるものになる」
「そうかい」
「血筋だけで言えば、このソールは宝飾の正当な持ち主とも言える」
「答えるまでがなげーんだよ」
「さて、この子供。どのように見える?」
老人は大きな息を吐き出し、男児の両肩に手を置いた。
「どうとは?」
「わしは養子で関係はないが、この子らの一族、男児はすべて盲目じゃ」
ヴァイスは老人と男児を交互に見た。
男児はこちらに顔を向け、焦点も合っている。目が見えないという態度ではない。
「本来なら、わしが読んでもよかろうが、それではなにも意味はないのじゃ。お前さんが読むことで、この呪いは解ける」
「呪い?」
訝しむヴァイスに、老人は頷いた。
「先にも申したであろう。この子らの一族の男児は、生まれながらに盲目じゃ」
「見たところ、俺のこともちゃんと見えているようだが」
「医者とてそういうだろう。だが見えぬのだ」
「それが呪いだと断言できるのか」
「できる。わしはお前の前世を見抜いた故、ここに来た。間違ってはおらんと確信している。事実、首飾りの件について否定はしていまい?」
そう言って先ほどから静観しているソールの肩を抱き寄せる。ヴァイスは盲目の少年を見た。
「仮に呪いだとしても、たかが日記を読むことによって解けるものなのか」
蔑みを抑えることができず、ヴァイスは軽く日記帳を左右に振ってみせた。胃にむかつきを覚える。できることなら唾を吐いて追い出したいところだ。
呪いだの前世だの、およそ現実的ではない話だ。まともに付き合うには酒が必要だった。
「呪いと表現してよいのか……。この子ら一族は、第三十六代目ドグマニード女王の弟の子孫じゃ。彼は男児ではあったが、不義の子故に玉座に就くことはかなわなんだ。この子はな、一度も母親に抱かれたことがないのだ。
さて告げて良いものか。その母の生まれ変わりがお前というわけだ。この呪いはな、幸薄く母親を求めて死んでいった王子の呪いなのだ。そしてその日記は王子の母が書き残したもの。
業なのだよ、この一族の。母を求めてやまぬ王子の魂はいまだ受け継がれておる」