iv.
男は冷たい笑みを浮かべた。その瞳には、ぞっとするような獰猛な輝きがあった。邪悪な気配は、いつしか妖気といってよいほど濃いものへと変わっている。奏は息苦しさを感じた。
「おまえ相手に、なぜそんな気になったと思う」
からかうような軽い口ぶりに、却って奏の背筋は冷える。
「術者が珍しかったから、とか」
これは想像以上によくない展開が待ち受けていそうだ、と思いつつ答えた。
「術者としては、珍しがるほどの代物でもないだろう」
「確かにね。おかげで、こういうことになってる」
「だが、おまえの力はそれだけではない」
いきなり左腕を掴まれた。途端に、複数の叫びとすすり泣きが奏の耳に響いた。激しい痛みが全身を走り抜ける。恐怖と嫌悪と絶望、他にもよくわからないものが入り混じった凄まじい波が、動揺する意識を覆っていった。
奏は悲鳴を呑み込んだ。混乱しながらも、それが男の持っている記憶や感情だと気づいた。気が遠くなりそうな苦痛に喘ぐ。腕を振りほどこうとしたが、身体は動かなかった。
「放せ──」
掠れる声で漸くそれだけいった。男が楽しげな笑みを見せる。
「接触感応だな。思ったとおりだ」
腕を握る力が強まり、奏は呻いた。
「おもしろい。こうして触れているだけでも、おまえを破壊することができるわけだ」
男の声を、奏はほとんど聞いていなかった。男はこれまでに多くの人間を殺していた。残酷な方法で追いつめ、いたぶった末にだ。それも心の底から楽しみながら。
ひどいな、と奏は思った。人の心の奥底の怖ろしいものも相当見慣れている彼でさえ怯むほど、桁違いのひどさだった。この男は、人間の苦痛や負の感情を浴びるのが趣味の魔物なのだ。味わった悲痛な叫びを体内に溜め込んでもいた。男と接触して、蓄積された凄惨さに曝された奏は、慄きをとめることができない。
「やめろ──放してくれ──」
ほとんど懇願に近かった。
男は声を立てて笑うと、唐突に腕を離した。奏は地面に倒れ込んだ。身体中が震えている。呼吸も荒かった。
「なかなかよく見えるらしいな」
男は奏を見下ろした。
「気がふれるのも時間の問題だ」
奏は暫く動けずにいた。やっとの思いで上体を起こし、男を見る。
「自分の楽しみのためだけに殺したのか。あんなに大勢」
「訊くまでもないだろう。おまえにはわかったはずだ。気にすることはない。どうせ皆、そういう目に遭っても文句のいえない連中だ。心に闇を抱え、自ら魔を呼ぶ。ああ、術者も何人かいたな。おまえより力の強いものたちだったが」
奏は黙って男をみつめた。身体はまだ震えている。掴まれた左腕が重く怠かった。よりによってこういう類の魔物だったか、と唇を噛んだ。