iii.
奏は半信半疑で男を見た。これほど禍々しい気配の魔物が、自ら獲物を手放そうとするとは考えもしなかったのだ。よほど自分のことが気に入ったのだろうか。
確かに、エネルギー摂取を目的に人を襲っているのであれば、あの女子大生よりも奏の方がずっと魅力的な獲物ではある。術者は普通の人間よりも持っているエネルギーが強いからだ。
「それでいいのなら、おれは構わないけど」
霊符を使わずに彼女を逃がせるなら、それに越したことはなかった。何しろ一枚きりしか持っていないのだ。使ってしまうと後がない。
「結局、策はないわけか」
相手は馬鹿にしたようにいった。
「まあね」
「忠告しておくが、後で逃げ出せると思っているのなら甘いぞ」
「わかってる」
後のことは後で考えよう、と奏は思う。とにかく今は、彼女を逃がすことが先決だ。
「いいだろう。女は離してやる」
男は倒れている女子大生へと視線を向けた。彼女の身体が動いた。気がついたようだった。ゆっくりとした動作で起き上がり、辺りを見回す。こちらを振り返った彼女は、男を見たからだろう、ひどく怯えた顔になった。男が彼女にいう。
「もうおまえに用はない。行くがいい」
自分の身に何が起こっているのか、彼女にはよくわからなかったかもしれない。それでも、即刻この場を立ち去った方がいい、ということだけは本能的に感じたようだった。彼女は傍らの鞄を拾って立ち上がった。ぎこちなく数歩後ろに下がったかと思うと、さっと背を向けて駆け出した。
転ぶ様子もなく無事に遠ざかっていく姿を見て、奏は大きく息をついた。
「本当に逃がしてくれたんだ。ありがとう。結構親切なんだな」
思わずいう。男は暫く黙った。幾分不機嫌そうな目で奏を見据えた。
「やはり自分の立場がよくわかっていないようだな。礼などいっている場合か」
奏は内心肩を竦めたが、皮肉をいったわけではない。本当にそう思っていた。実は男の言葉を疑っていたから、申し訳ないとさえ感じていたのだ。
自分の力が及ばない以上、たとえ男の興味があの女子大生から奏に移ったが故の結果だとしても、彼女が解放された事実はありがたいことだった。見ず知らずの人間とはいえ、魔物の餌食になると知っていながら見過ごすのは辛い。何とか助けたいと思ってしまう。自身の力を超えた無謀な行為ではあることは承知の上だった。
「そもそも、あの女にそれほどの価値はない。どんな人間なのかを知れば、助けたことを悔やみたくなるぞ。教えてやろうか」
「いいよ」
奏は首を振った。こんな魔物に見染められるくらいだ。相当ネガティヴなものを抱えていたのに違いない。といって、奏がとやかくいえることでもなかった。
「彼女がどうでも関係ないんだ。見つけてしまったら放っておけなかった。それだけさ」
「物好きな。お節介というやつか」
「いいじゃないか。そもそも代わりになれといい出したのは、おまえだろ」
「そうだったな。人間どもの世界で何をしていたのか、教える約束だった」